8.セリアン様の秘策
今日もセリアン様はベッカー家にいらっしゃって、あれこれと考えをめぐらせていた。
わたしもわたしで、あれこれと心配していた。
だって、レベッカ様のあのお屋敷……あれが公爵家の本気だとすると、侯爵家であるセリアン様のお屋敷も準じるものであることは間違いない。それに比べて、我がベッカー家の屋敷は、なんというか……素朴で、簡素だ。
王都に出仕するためのこの屋敷ですら、王都の中心から馬車で二時間もかかる場所にある。予算と相談してギリギリ買えたのがここだったのだ。広いことは広いが、内装はこの五十年ほど変わっていないらしい。調度品も先祖伝来といえば聞こえがいいものの、修繕を重ねながら脈々と使っている。
「クロちゃん、今日はとっておきの秘策を持ってきたよ」
大丈夫ですか、そのクッション、ちゃんとお身体にフィットしてますか? とハラハラしながらながめているわたしの前で、セリアン様はソファから身を起こした。
ひぃ、お召し物は皺ひとつなくアイロンがけされているし、ボタンやカフスもぴかぴかだ。艶やかでなめらかな靴がゆっくりとわたしに近寄ってくる。
本日のセリアン様は気合が入っているらしい。
顔をあげたら即失神だ。そう感じたわたしはよく磨きあげられた革靴の先を見ているしかない。
そのうつむいていた視界に、ぶらぶらとなにかが入りこんできた。
紐の先にドーナツ状の円盤が結ばれて、左右に揺れている。
「クロちゃんは、ぼくの顔を見ても気絶しなくな~る……ぼくと結婚したくな~る、ぼくと結婚したくな~る」
「……セリアン様」
「シッ、しずかに。ぼくの言うことに集中して? クロちゃんはぼくと結婚したくな~る、ぼくと結婚したくな~る」
これはもしかして百年の恋も冷める瞬間なのでは、と頭の冷静な部分が囁いた。
一応円盤を見つめながら暗示めいた言葉に耳をかたむけてみるものの、正直にいって甘く響く声音と奇妙なイントネーションの台詞があっていなさすぎてまったく頭に入ってこない。
最近巷で流行りの、催眠術というものだろう。人間の思考周波数と同期したタイミングで振り子を揺らして被術者の意識を朦朧とさせ、術者の暗示のとおりに行動させる。わたしも気になって本で読んだから知っている。
暗示をかける前にはまず意識を占領することが大切なのに、これではかかりようもない。
胡乱な視線になったわたしに、セリアン様は手を止めた。
「だめ?」
「あの、暗示云々の前に、催眠状態になりません」
「そうか……クロちゃんは冷静だからね」
婚約者の顔を見ただけで失神するような人間ですけどね。
内向的で理屈っぽいところはあるかもしれません。だから社交にむいていないのだけれど……。
おちこんでいたら、セリアン様は紐と円盤をポケットに入れてしまった。
「本人が嫌がることは、催眠術でもダメなんだって」
嫌がっているとかではなく、セリアン様の外見と行動がマッチしていない結果なのですが……。
そうは言えずにうつむくしかないわたしを、セリアン様がまっすぐに見つめる気配がした。
「どうしてそんなにぼくと結婚したくないの?」
「――……」
頭上から降ってきた質問は、わたしの心臓を貫いた。
目をあわせられないままに息を詰める。
セリアン様のお声は普通だ。怒っているとか、悲しんでいるとかではない。責められているわけではない……しかし、婚約までした相手に渋られて、負の感情をいだかないわけがないということもわたしは知っている。
鼓動が速くなる。
セリアン様と結婚できないと思っているくせに、嫌われたくはないとも思うわたしの狡い心。
「いえ、結婚したくないわけではなく……」
「じゃあ、したい?」
真剣な声色に、わたしは答えを返せなかった。
できないと思う気持ちと、したいと思う気持ちは、共存できる。
いまのセリアン様がそうだ。わたしと結婚したいのに、わたしが拒んでいる。だからできない。
そしてセリアン様は、状況を改善するために行動する。
では、わたしは?
失神しなければ、セリアン様と結婚したいのだろうか。
そのために、セリアン様のように策を考え、努力できるだろうか。
――考えてはいけない、気がする。
「クロちゃんは、ぼくと結婚、したい?」
再度問われて、その声のなかに常にないものを感じとり、わたしは思わず顔をあげた。
真正面から直視してしまったセリアン様は、わずかに眉をさげ、ほほえんでいらっしゃった。
瞳の色に悲しみや寂しさを読みとってしまったのは、わたしの思いあがりだろうか。
話も記憶もそこで途切れているので、わたしは失神したらしかった。