4.セリアン様の努力
婚約解消を申しこまれたのだから怒ってもよいというのに、翌週、セリアン様はふたたび我が家を訪れてくださった。王都中心にあるセリアン様のお屋敷から二時間もかかる我が家を。
先んじて届けられたお手紙にはやはり「ぼくも努力するから、いっしょにがんばろう」という励ましの言葉が書かれていた。
当日、迎えた馬車の扉がひらいた瞬間――わたしは『努力』の意味を知った。
馬車から優雅な足どりで降りてきたのは、かわいらしいウサギのお面をつけたセリアン様。
……かわいらしいウサギのお面をつけたセリアン様???
挨拶も忘れて凝視してしまう。
つぶらな瞳とω型の口元をしたウサギが、セリアン様と同じ仕草で小首をかしげた。
「これなら失神しないでしょ?」
「……はい……」
失神はしないけど、身長一八〇センチの優雅なウサギには恐怖を感じます。
とりあえずセリアン様を応接間にご案内さしあげて、待機していたメイドや下男たちが派手なリアクションこそしないものの一瞬目を見ひらいているのを確認し、わたしはとても申しあげにくいことを切りださねばならなかった。
「……その、ウサギのお姿で暮らすわけには、いかないのではないでしょうか……」
屋敷内であればともかく……いやどうかな? 屋敷内でも駄目だと思うけれど……人前にでるのはもっと駄目でしょう。
いまをときめく〝美貌の貴公子〟が突然ウサギの仮面で顔を隠しだしたとなれば、社交界の狂乱は免れ得ない。
「え? どうして? やっと慣れてきたのに」
しかし、至極尤もなはずのわたしの指摘に、セリアン様はまた首をかしげた。
なんとも不吉な文言が聞こえてきた気がする。
「やっと慣れてきた……?」
「うん、この姿でしばらく暮らしてみたんだよね」
「ギエエエエエエエエ」
「あははは」
また悲鳴をあげてしまったわたしを指さし、セリアン様がかろやかな笑い声を立てる。それからハッと息をのみ「指さしてごめんなさい……」と謝ってくださった。そこじゃない、そこじゃないです。
まさか、努力すると宣言したあの日から一週間、この姿ですごされていたのだろうか。そう言われてみればセリアン様は仮面をつけたまま姿勢をくずさずに馬車を降りた。あれは練習の成果だったのだ。
「お、お外にも……?」
「うん、正装の場では外したけど、それ以外はだいたいね」
「ヒエエエエエエエエ」
「あははは」
笑いごとではありません。
ということは、セリアン様のこのお姿が、ほかの人々の前にさらされたということだ。
わたしのせいだとバレたらセリアン様親衛隊にボッコボコにされそう。
セリアン様から婚約を申しこまれてひと月近く。そろそろ貴族界隈にも話題が浸透し、相手のクロウディア・ベッカーとかいう女はいったい誰だとなって各家が情報収集・交換に励んだに違いない。
そして――セリアン様に想いを寄せていた令嬢たちも、その親も、きっと首をかしげているだろう。
地味な貧乏伯爵令嬢クロウディア・ベッカー。
セリアン様の婚約者は本当にこいつなのか――? と。
今回のセリアン様の奇行は、貴族たちの頭に浮かんだクエスチョンマークに拍車をかけたに違いない。
いったい、クロウディア・ベッカーとかいう女は、セリアン様になにをさせているんだ……と。
頭をかかえてうなっていたら、さすがのセリアン様もわたしが困っていることを理解したようだった。
「そっかぁ、だめかぁ。『かわいい~!』ってよろこんでくれるかと思ったんだけど」
いえ、恐怖です。
セリアン様が椅子の上でちんまりと肩を落とす。ウサギの仮面がうつむいて影をつくった。やっぱり恐怖です。
「ぼくの顔を見ると失神するから結婚できないってことは、クロちゃんが失神しなければ結婚できるんだよね?」
あらためて確認され、ウサギ仮面が自分の婚約解消の申入れのせいで引き起こされたことをはっきりと知らされたわたしの意識がそーっと肉体を離れそうになる。まってまって。失神グセをつけてる場合じゃないのよ。
「仮面があればたしかに失神はしませんが……それではお顔を見たことにはなりませんので、問題は解決しておりません」
正装の場では外すとセリアン様もおっしゃっていた。正装の場、すなわち多くの貴族が集まる晩餐会や、王族の参加する行事などである。
むしろそこは一番倒れてはいけない場だ。
セリアン様はぽんと手を打った。納得がいったらしい。
「まぁ、そっか。仮面をつけてちゃ、キスもできないもんね」
そう言ってセリアン様は仮面を外した。
わたしは失神した。