2.あなたはだぁれ(前編)
「眼鏡が……!! ない……!! あぁでももう時間だわ、行かなくちゃ……!!」
――その朝、わたしはどうしても眼鏡をさがしだすことができず、裸眼での外出を余儀なくされた。
「……そんなことあるの?」
「あるの!」
待ち合わせ場所で事情を聞いた友人・エリナは、なにを言っているのだという顔をした。
が、眼鏡をさがすためには眼鏡が必要で、貧乏伯爵家の我が家にはスペアの眼鏡を置くというのはなかなか難しいのだ。
目のいいメイドにもお願いしたけれどどうしても見つからなかった。わたしが寝ぼけてどこかへ隠したのだとしたら、メイドは主人の部屋を漁る権限などない。詰みである。
そうこうしているうちに頼んでいた馬車がきた。
我が家には馬車がない。貧乏なので車両も買えないし馬も飼えない。そのため、王都に出掛ける際には近所の駅馬車に屋敷へ寄ってもらう。時間厳守、遅刻厳禁なのだ。
眼鏡をあきらめて飛び乗る以外の選択肢はなかった。
王都の外れで駅馬車を降りたわたしは、今度はエリナの馬車へと乗せてもらう。
皆で乗り合いをする駅馬車よりは小さいが、つくりはこちらのほうが格段に上だ。
エリナはこの数年で事業を拡大した〝カラディア商会〟をかかえる伯爵家の娘で、明るく勝気な性格はまさに都会っ子という感じ。
なぜわたしと友達をしているのかしらとときどき不思議になってしまうくらい。
「本当に大丈夫?」
「人の顔はわからないけど、動作や障害物はわかるわ。品物は近くでじっくり見ればいいんだし……」
「クロウディアがいいならいいのだけどね」
エリナは肩をすくめて御者へ出発するように告げた。
「王都に住んでいるエリナにはわからないでしょうけど、わたしは一分一秒でも長く王都にいたいのよ」
帰りもまた駅馬車で屋敷へ戻るから、滞在できる時間は明確に決まっている。
無駄にはできないのだ。
正直にいって、久しぶりに訪れたわたしははしゃいでいた。
その油断がわたしの運命を変えた。
街へでて、都会の空気を味わう。ベッカー家の屋敷は王都郊外にあり、馬車もない。次にいつ王都の中心街へでられるかはわからない身分だ。
眼鏡がないのは残念だが、十分に楽しまなければ。
そんな意気込みで以前から目星をつけていた店へはいる。装飾品から生活用品までを様々に扱う、貴族御用達の大型雑貨店である。「貧乏でも少しくらいの見栄ははらねばならない」と、お父様はおこづかいをくれた。たぶんあとでお兄様たちに怒られると思うけど、お父様は甘い。
店内には高価な品々が所狭しとならんでいる。こういうところが王都なのよね!
「この水晶細工、とってもきれい……! こっちのティーセットも素敵だわ」
「この織物も素敵よ。あ、見て、金のイヤリングですって! それに、白粉や紅もあるわ」
エリナは吸い寄せられるように装飾品や化粧品のならぶ一角へ入っていく。
対してわたしは、工芸品の棚の前で見惚れていた。
エリナには、もう少し自分の身を飾れと言われてしまうけれども。
飾ったところで元が地味なのだからエリナのようにはなれない。こんなわたしを妻に迎えたいという人もいないに違いない。
「……っと、暗くなってる場合じゃないわね」
わたしは棚にむきあった。
ならんでいるのは、本でしか読んだことのない、お伽話のような燦々たる細工の数々。
思わずうっとりとため息が漏れた。
幼いころ、商品を売り込みにきた工房の面々が置いていったカタログから、懸命に想像を膨らませたものだ。こんなに緻密で美しいものが本当に存在するのだろうかと。
それがいま現実に目の前に。
憧れの王都に、金銀宝石細工の雑貨、眼鏡のないせいでいやます集中。
目を見ひらいたり細めたりしながらなにを買うべきかを真剣に悩む。
ほとんどのものはお父様がくれたお小遣いでは買えないが、それでもわずかながら選択肢はある。慎重に吟味する必要があった。
だから、気づいていなかったのだ。
いつの間にか店の中が静まりかえっていたことに。
その場にいた人々の視線が、わたしの隣に集中していたことに。
……わたしの隣に立っていたのが、いまをときめくセリアン・ロイヒテン様であることに。
「なにを見ているの?」
ふんわりとした声が耳をうった。
いつぞやに聞いた声楽家のようにはりのある、それでいてやわらかな響きをもつなんとも心地よい声。
わたしは隣をふりむいた。
明るい髪色と、似合いのアイボリーのジャケット。
当然詳細は見えないのだが、ぼやっとした輪郭だけでも、色合いと仕草とでなんとなくスタイルもセンスもよい男の人だというのは見てとれた。
あやしい人間であれば店の者や家の使用人が駆けつけてくるはずなので、あやしくない人間なのだろう。階級はきっとわたしよりも上……しかしこの口ぶりからして、たぶん初対面だ。声も聞きおぼえがない。
わざわざ雑貨店で初対面の相手に声をかけるなんて。
声と輪郭はかっこいいけれど、変わった人だわ。
それがセリアン様にいだいた第一印象だった。
もちろん、顔が見えていたら第一印象は確実に「顔がよすぎる」だっただろう。
「置物と、食器を……」
なぜ話しかけられたのかもわからないまま、尋ねられたことに答え、愛想笑いをかえす。
謎の男は棚に視線をむけた。
「あぁ、この真鍮細工はエワルデ工房のものだね。彼らはとてもよいものをつくる。この球面や曲面の出来はエブロン匠の手によるものだろう」
「!? わかるんですか!?」
カタログで読んだ名を出され、わたしは思わず前のめりになった。はりつけていた愛想笑いはなくなっていた。
この方は相当な通に違いない。
一瞬で胡散くささよりも敬慕の念が勝つ。
相手がわずかに首をかしげる仕草をした。
「こういうものが好きなの?」
「はい、とくに真鍮細工が。職人たちが丹精込めてつくればここまでのものができるのだと思うと感動してしまって」
真鍮は、銅と亜鉛の合金だ。金銀などの貴金属や宝石とは区別され、手がける工房も異なる。値段も安いところから、格下のような扱いを受ける。
けれども磨きあげられた細工は控えめながらも煌らかな光沢を放ち、十分鑑賞に値する。比較的安価だからこそ家屋や家具の飾りにも使われ、人々の目を楽しませる。
磨きあげれば応えてくれる存在。自分がそうはなれないからこそ、わたしにとっては憧れの素材なのだ――真鍮に己を重ねる人間などなかなかいないだろうが。
「真鍮といえば、ほかにはグレアム工房か」
「そうですね! 身近なものから装飾品まで、幅広く手がけていると読みました。できればドアベルなどを取り寄せたいのですが、予算が――あっ、申し訳ありません」
ハッと我に返り頭をさげる。しゃべりすぎたかとあわてていると、くすくすという笑い声が頭上からふってきた。
「これなんかどう?」
目の前にさしだされたのは、上品なバレッタ。真鍮に数種類の花が透かし彫りされており、花弁には流れるような繊細な模様が刻まれ、中央には色硝子が嵌めこまれている。
たしかに綺麗。でも真鍮細工とはいえ、わたしのお小遣いではとてもじゃないが買えないだろう。そのくらいの価値はありそうだった。
それに、自分の髪につけてしまったら、わたしがながめられないし。
綺麗なもので飾っても、もとのわたしが野暮ったい田舎娘なのだからどうしようもない。
「君に似合うと思う」
「ありがとうございます。けれど、少しもちあわせが……」
言葉を濁して困った笑顔を浮かべる。正直、相手の意図もわからない。
同好の士を見つけて浮かれていた気持ちがしぼんでいき、冷静になったわたしは少し警戒感をいだいた。
結局この人は、なんのためにわたしみたいな娘に話しかけてきたのだろう?
あいかわらず表情が見えないが、謎の男は笑っているようだ。
「そうか。だったら、ぼくに贈らせてくれないかな」
「はい???」
突然の提案に、わたしは目を見ひらいた。