14.想いに気づくとき
ニール様とオズワルド様の真意に気づいたのは、どうやらわたしだけだった。
お父様は言葉を額面どおりに受けとって「あれほどにまで信頼していただけているとは」と大よろこびで、ロイヒテン侯爵家とベッカー家とのあいだに固い絆が結ばれることを確信したようだ。
わたしだけは、自分のなすべきことを心得ていた。
オズワルド様にもそうお伝えした。
セリアン様にお会いして、今度こそ婚約を解消していただくこと。
それこそがわたしの使命だ――というのに。
「……ッ」
部屋に戻り、いざそのことを考えると、涙があふれてとまらない。
外を通る使用人たちに聞きとがめられないよう、ベッドにつっぷすと声を押し殺して泣いた。
婚約を申しこまれたとき、セリアン様はいろいろな贈りものをしてくださった。ドレスや装飾品はその後のお茶会などで使わせていただいたけれども、多くのものはほとんど手をつけないままに飾られている。
自分には縁のないと思っていた宝石箱や飾り棚。セリアン様はエワルデ工房の細工も贈ってくださった。まるで自分の部屋が王宮の宝物庫のようになったと心をときめかせたものだ。
もう思い出が宿ってしまっている。
けれど、これらもすべてお返ししなければならない。
わたしは硝子の戸棚に近寄ると、真鍮の髪飾りをとりだした。あの日セリアン様がわたしに勧めてくださったもの。
「せめて、この髪飾りだけは、思い出としていただけるようにお願いしましょう」
それがわたしに言える精いっぱいの我儘だ。
机にむかうと、わたしはセリアン様にお手紙を書いた。
わたしのほうからお訪ねしてもよろしいでしょうか、とご都合をうかがう。
王都にあるロイヒテン家の邸宅にセリアン様は住んでいらっしゃる。思えば、婚約を申しこまれた身とはいえ、いくらセリアン様のご厚意とはいえ、馬車で二時間もかかる我が屋敷まで毎度お越しいただいていたのがおかしかったのだ。
そう思えばますます自分の身勝手さが嫌になる。
レベッカ様やエリナなら、こんな失態はしないことでしょう。
心をしずめるため、お手紙には半月後の日時を書いた。本当にその期間で覚悟ができるかはわからないけれど――あまり悠長にもしていられない。
出したお手紙に、セリアン様は二つ返事で諾をくださった。
わたしからのはじめての訪問をよろこんでくださっているのが文面から伝わって、滲む視界に途中から手紙が読めなくなった。
日一日と近づく決別の日を前に、涙をとめるすべは見つからなかった。
***
その日、王都にあるロイヒテン家の邸宅を訪れたわたしを迎えたのは、緊張した面持ちのセリアン様だった。
「ベッカー伯爵から、兄さんたちが訪問したと聞いて……ど、どうだった? その、びっくりしなかった? 兄さんたち……」
ちらりとお顔を拝見してから、失神する前にわたしは視線を伏せた。
セリアン様が心配しているのは、お兄様たちがわたしとの婚約を解消するようおっしゃったからだろうか。だとしたらセリアン様自身はまだ婚約を続けていきたいと思ってくださっている。
それだけで、なんて贅沢なことでしょう。
わたしはなるべく自然に見えるように笑顔をつくった。
お兄様たちに負の感情などいだいていない。ロイヒテン家に所属する者として当然の行動だ。
「ニール兄さんはほとんどしゃべらず、オズワルド兄さんはほとんどしゃべりつづけていたんじゃないかって」
「はい。お二人がセリアン様を想っていらっしゃるのはとてもよくわかりました。すばらしいお兄様方です」
セリアン様がわたしを見つめる気配がする。
それから、ほっと息をついた。
「だから、お兄様たちの言うとおり――」
「よかった。クロちゃんからやっぱり婚約を解消してくださいって言われるかと思ったんだ」
「……!!」
わたしの考えていたことを、けれどもわたしの考えとはまるで真逆の文脈で、朗らかな声色で、セリアン様はつむいだ。
いえ、違うのです、セリアン様。
わたしたちはやはり結婚などすべきではないのです。あなたはあれほど親身になってくださるお兄様たちに背いてはいけません。
婚約は解消すべきです。ぜひそうしてください。
「あ……」
言わなければならないことはわかっている。わかっているのに言葉は声にならなかった。
喉がひきつったようになって、舌も凍ったみたいに動かない。
現実を拒絶する身体にひきずられ、わたしはようやく自分の想いに気づいた。
――わたし、セリアン様のことが……。
その先は、たとえ心の中の呟きだとしてもはっきりとした言葉にしてはいけないような気がして、首をふる。
けれどももう遅かった。
悲しみにくれて青ざめていたはずの心は、真っ赤に燃えあがる。頬が熱をもっていくのがわかった。
自覚してしまった感情を、なかったことにはできない。
「ど、どうしたの!?」
焦った声にセリアン様を見上げる。
わたしから離れ、部屋の奥でなにかを探していたセリアン様があわてて駆けよってきた。
「あ、いえ……」
答えようとして、声がうわずっていることに気づいた。
「クロちゃん……」
セリアン様の指先が頬にふれる。
本来ならば失神してもおかしくない距離なのに。眼鏡をかけているのに。
わたしをのぞきこむセリアン様のお顔がにじんで見えない。そのせいで、わたしは失神を免れていた。
ふれられた肌があたたかく濡れる。
……泣いているのだ。
わたしの目からは、ぽろぽろと涙がこぼれていた。
「どうしたの?」
椅子に腰かけるわたしの視線にあわせ、セリアン様は床に膝をつく。そんな格好をさせてはならないと思うのにやはり声が出ず、泣いてしまったショックでさらに涙があふれる。
セリアン様を困らせてしまっている。
セリアン様はわたしの涙をぬぐいながら、もう一方の手でわたしの手を握った。
その手の中に硬い感触をおぼえてふと視線を落とす。
セリアン様も視線に気づいたのか、手をひろげて見せてくださった。
おちついた濃紺の、ベルベッドの小箱。
「これはね、クロちゃんに」
無造作ともいえる仕草で、セリアン様が小箱をひらく。
「遅くなってごめんね。婚約指輪を……どうしても、クロちゃんのための特注品にしたくて」
そう言って右手の薬指にはめられたのは、ピンクゴールドに繊細な細工を施した指輪。
宝石こそ使われていないが、優美なリボン型のシルエットはかわいらしさと可憐さをあわせもち、なめらかな曲線が職人の腕の確かさを物語っている。
大きな宝石のキラキラと輝くアクセサリーは、気がひけてしまってきっとつけることもできない。
セリアン様はそんなわたしの心を汲んでくださったのだ。
控えめな、それでいて唯一無二の婚約指輪。
嬉しい、と心が叫ぶ。
けれども理性はその感情を許してはくれなかった。
よろこんではいけない、と頭のどこかで声がする。
控えめだなんてとんでもない。この指輪の価値にお前は見合わない――臆病さがわたしを責める。
「顔色が……誰か人を呼ぶ。待ってて」
さらに青ざめたわたしの様子に立ちあがろうとするセリアン様を制し、わたしは口をひらいた。
「――れません……」
「え?」
必死に言葉を紡ぐ。
言うべき言葉を。
「受けとれません――わたしはセリアン様と結婚できません!!」
悲鳴のような声とふるえる喉に呼応して、瞳からもぼろりと涙がこぼれた。
遮るもののなくなり、一瞬クリアになった視界のむこうで、傷ついた目をしたセリアン様がわたしを見ていた。
ほとんど表情には現れてこない、しかしわずかにひそめられた眉とひき結ばれた唇が抑えきれない深い悲しみを示して、アイスブルーの視線がまっすぐにわたしを貫いた。
まるで、人間の愚かさを嘆く天使のような神々しさと、冬の日に親とはぐれた仔猫のような寂しさと、けれども様々な感情の混ざった中に、わたしを責めるための仕草はなく。
息苦しさに喉を喘がせる。
絵画のような荘厳な光景を前に、わたしは意識を失った。