縫い糸のつながり
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ん、つぶつぶ、ちょっと止まってくんない? あんたの袖、ちょーっと気になるのよね……。
やっぱり。ボタンが取れかけてんじゃん。少し引っ張ったらちぎれそうなくらい。どっかにぶつけたかしら? それとも、ずっとほっぽりっぱなしにしといた結果?
ちょっと貸しなさいな。あたしだってソーイングセットくらい持ち歩いてるわ。女のたしなみってやつでね。
ん、これでいいでしょ。どう? しっかりとまってる?
ボタン止めって、裁縫に関心がない人だと、学校の家庭科でやっておしまいって感じじゃない? つぶつぶも持っているでしょ、家庭科の裁縫グッズ。あれ、使わなくなって久しいんじゃない?
初めて使う針と糸。エプロンとかリュックとかの作成キットも用意されて、期限ぎりぎりまで粘っていた覚えがあるわ。
手際のいい子は早く終わっていたんだけどね。だからって楽ができるとは限らない、不思議なできごとがあったのよ。つぶつぶの好きそうな話だし、聞いてみないかしら?
その日の家庭科の授業で、「あー!」と大声が響き渡ったのは、一度回収されていた雑巾が、各々に配られていった時だったわ。
声をあげたのは、先にも話したような手際のいい女の子。前回、家から持ってきたいらないハンドタオルから、二枚の雑巾を作ろうって課題が出ていてね。その子は前回の時点で、一枚目にステッチをかけ終え、さあ二枚目ってところまできていたの。
その一枚目の糸が、抜かれている。彼女、雑巾の辺を縫うのに一本。中の「×」印のステッチに一本の糸を使っていたのだけど、後者の縫いあとがなくなっている。
玉止めはしっかりしていたと主張する彼女だけど、それが甘かった可能性だって、否定できない。きっと他の生地にもまれているうちに、ほどけて取れちゃったんだろうと、私は思ったわ。
結局、縫っていた糸は見つからず。しぶしぶ彼女は、裁縫グッズの中から新しい糸を引っ張り出したの。
私はというと、一列縫うたびに、糸をそこで切って玉止めしていたわ。家庭科の雑巾縫いは、次の授業でも時間を取るみたいだし、あの子のような惨状が降りかからないともいえない。
厳重に雑巾の一辺を返し縫いして、特大、厳重の玉止めをした。そして新しく糸を引き出し、その先を口に含んでは、針の穴へと通していく。
当時の私たちのクラスは、糸通しを持ってはいたけれど、使わなかったわ。
「糸通しなんて、目の悪いご老人が使う補助器具。自分たち若者が、こんなものに頼るなんて軟弱な証」って空気が漂っていたのよね。
糸の先っちょを、しゃぶってはよじって、意地でも縫い針の穴の中へ送り込んでいく。その日でどうにか私も一枚目のステッチまでやり終えて、二枚目も途中まで進んだの。
けれど、悲劇は終わらなかった。
次の家庭科の時間、一枚目の雑巾を作り終えていた面子の口から、次々に不満の声があがり出す。彼らの雑巾もまた、糸が一本、まるまる抜かれていたの。
私のもやられた。返し縫いでぜいたくに使った、一辺の糸を丸ごと奪われていたのよ。当然、怒りの矛先は保管していた先生へ向くけど、先生は驚いた顔で雑巾のひとつひとつを確かめにかかる。
あらためた結果、被害に遭っていない雑巾が、数枚だけ存在していたのが分かったわ。その主である生徒たちに尋ねると、邪道たる糸通しを使って、針に糸を通したというの。
最初こそ卑怯者呼ばわりされた彼らだけど、糸通しを使わなかった雑巾に対する被害は、次の時間も、その次の時間も続いた。最初に被害を訴えた彼女は、すでに二枚の雑巾を仕上げたはずなのに、次の授業で見てみると、やはり一本抜かれているという徹底ぶり。
お試しで、雑巾の入った箱を教室に置かせてもらい、みんなでカギをかけて密室にしたのを確かめたのに、それでも抜かれていたのよ。
――このままじゃ、いつまでたっても雑巾を縫い続けるハメになる。
私を含め、被害に遭った面々は、やむを得ずに禁を破った。
糸通し――先生曰く、「スレダー」らしいけど――を使って、針に糸を通し始めたのよ。本体というか、持ち手というか、女王様の横顔みたいなデザインの部分を、何度も握ってね。
いまいましいけど、効果はてきめん。ほどなく私たちのクラスは揺るがない雑巾を手にして、一枚を実際の掃除に採用。もう一枚は学校に預けておく形になったの。
それから数日後。雑巾に異変は見られなくなったけど、今度は私たちの鼓膜へ襲い掛かってきたものがある。
指しゃぶりの音。決して大きくはないけれど、ふと教室が静まり返る間を狙って、飛び込んでくるの。チュウ、チュウともチュパ、チュパとも聞こえるそれの出どころは、教室中を動き回っているようだったわ。
床に、壁に、天井に。ときに私たちの席の足元から聞こえることもあって、私自身、音のでどころと疑いの目を向けられたことは、一度や二度じゃなかった。
迷惑に思う人は、日々増えていく。教室掃除を担当する組は、各々の担当区域が終わると、例の音の出どころを探るべく、「いっせーのせ」で物音を一切立てない時間さえ作っていたわ。
それでも音が響かず、空振りに終わることもままあったけど、みんなは諦めずに続けていたわ。沈黙の時間も10秒、20秒、1分と長くなっていったし、どこか儀式めいて気味悪ささえ感じていたの。
半月ほど続けて、ようやく整えた静けさの中に、音が飛び込んできた。
教室の隅、ロッカーと床の交わる角っこから、チュッ、チュッと水音。それはほとんどキスのようだったけど、その場にいる誰一人、ピンクな想像はしていなかったと思う。
ダッと音を立てて、最寄りの男子が現場に寄る。そこには剥がれかけたフローリングと、壁の間にわずかなすき間があった。そこへ手ぼうきの穂先を突っ込み、何度もかき出していく。
やがて彼は動きを止めると共に、目を丸くしたわ。空いた手で私たちを手招きもしてくる。近づいてみると、そこには長い縫い糸の姿があったのよ。
私たちが見ているのは、長い長い糸のほんの一部。そして彼がほうきでかき出したのは、ちょうど白い糸と黒い糸の結び目部分を含むところだった。
……いや、結ばれてはいなかった。よく見ると糸は互いによじれ合い、ぴったりとくっついている。
その部分は、はっきり見えるほど濡れていて、しかもおのずからこすれ合って音を立てていたの。それがあのチュッ、チュッとキスを思わすものになって、こちらへ響いていたのね。
みんな、ごくりと息を呑んだわ。
おそらくはあの雑巾から抜け出た糸同士だ。それがどうしてこんなところで、むつみあっているんだろう。
手ぼうきの子は、更に糸を引っ張り出そうとしたけど、黒い糸も白い糸も、少し力がかかるや、ぷっつり途切れてしまって、先を追うことはできなくなってしまったの。
取り残された糸たちからはもう、あの水音が響くことはなくなっていたわ。
それから、あの水音を聞くことはすっかりなくなってしまう。けれども、きっとどこかに糸は隠れていると、私たちは信じていたわ。
今は私たちに見つからないよう、息をひそめているだけ。きっと何かの拍子に姿を表すに違いないってね。
警戒を続けて一ヵ月あまり。また訪れた掃除の時間の中ほどで、今度は天井越しに、「あっ!」と声があがったかと思うと、窓のフレームを殴打した音が聞こえたわ。
はっと、音に気付いた私たちは、教室の窓から外を見やる。人がひとりずつ通れるかという、狭いベランダの先。その手すりの向こうを上履きが落ちていくところだった。
けれど、落ちない。
上履きは手すりに重なる高さまで来たかと思うと、いきなり速さを落とした。ほどなく、ぐっととどまったかと思うや、ぽーんと軽やかに、私たちの教室のベランダまで飛んで来たのよ。
目をぱちくりさせる私たち。慌ててベランダへ駆けよって目を凝らすと、手すりから乗り出すような形で、縫い糸がクモの巣状に広がっているのを見たのよ。
ところどころ結び目があるのも、その部分が湿っているのも、あの日に見た黒と白の糸に同じ。けれど触ろうと手を伸ばすや、縫い糸でできた巣はブチリと外れて、遠ざかってしまう。もう鳥たちにしか触れられない、空の向こうへ漕ぎ出してしまったの。
やがて数名の上級生が、私たちの階まで降りてくる。誤って落としてしまった上履きが、ここにないかとね。彼らもまた、上履きが不自然に跳ねて、ベランダへ飛び込むのを見ていたらしかった。
あの私たちがしゃぶって、縫うのに使っていた糸たち。
ひょっとしたらこうなる時に備えて、自分から逃げ出したのかしらね。