医官は王女を溺愛する
「お兄様、そんな顔をなさらないで」
「アナ……」
シスター服を携えた侍女を従え、部屋を訪ねてきた茶髪の少年に、クリーム色の髪の少女は苦笑した。
「わかっていたことですわ、いつかはこうなると。何もおかしくなくってよ、婚姻できぬ王女など厄介者以外のなにものでもありません」
「アナ、どうか誤解しないでくれ。城を出てもおまえが王女であることに、私の妹である事実に変わりはないし、おまえに不自由な暮らしをさせるつもりなど毛頭ない」
そんなこと、アナは-アナ・マリアは、とうの昔に知っていた。彼女と兄は父を同じくするが、母親は違う。それでも兄は、同母の弟妹と同じように扱ってくれた。かけがえのないきょうだいの一人として。
「わたくしがその服に袖を通さなければならないのは、いつ頃のことになるのでしょう?」
回りくどい言い方をしたアナ・マリアに兄は嫌な顔ひとつせず、簡潔に答えた。
「おまえの、十七歳の誕生日だ」
「そう、ありがとうございます。ごめんなさいお兄様、少し体調が悪いんですの」
こう言えば、兄はこれ以上引き止めることは無い。それを知っているのに止めない自分はたぶんずるいのだろうと、アナ・マリアは他人事のように思った。
「アンジュ、おまえは軽蔑するかしら。こんな、ずるいわたくしを」
兄が去った後そう語りかけてきたアナ・マリアに、彼女の愛猫アンジュはニャア、と鳴いただけだった。
「思えば、おまえはずっとわたくしのそばにいてくれたわね。……お母さまがご存命の時から」
アナ・マリアには母がいた。アナ・マリアと同じ-いや、アナ・マリアが同じなのか-クリーム色の髪を持つ優しい母親が。
「お父さまがわたくしを顧みてくださらなくっても、お母さまがいてくださったから、寂しくなどなかったわ」
アナ・マリアは父王の最初の娘だったが、父はアナ・マリアに数年で興味を失った。彼は王女を政略結婚の駒としてしか考えてはいなかった。そして、アナ・マリアは元来病弱で、子どもを生むことはかなわない体なのだ。
「たとえ王女の生まれでも、わたくしは夜会に出たことがないどころか、この部屋にほとんど閉じこもっているのだから、王宮を離れて修道院に行ったってさほど変わりはしないわ」
でも、とアナ・マリアは声を震わせた。紫色の髪の幼子が、アナ・マリアの脳裏に蘇る。
「それでは、あの子は、ロザリーはどうなるの? 母もいないあの子を、この冷たい王宮に残していけというの……?」
心残りは、まだ小さなロザリー。たった一人の同母妹。異母妹は他にも何人かいるけれど、無邪気にアナ・マリアを慕うロザリーは特別だった。
修道院には連れて行けない。それは、父が許さない。父は末娘、アナ・マリアの異母妹以外の王女たちの全員を、愛していない。少なくともアナ・マリアは父から愛情らしきものを注がれた覚えはない。兄から、晩餐会でも冷たいものだと聞いた。けれど、アナ・マリア以外の王女たちに、父は自分の道具として価値を見出している。……父が偏愛する、末妹は別だろうけど。妹はいつか、国内の有力貴族か外国の王族に嫁ぐのだろう。修道院に入ることは、俗世を捨てるのと同じ。そんなこと、父は絶対に許さない。父にとって王女たちは、婚姻という役目を果たしてはじめて、価値あるものなのだから。
父の関心を得られなくとも、アナ・マリアは母親がいたから幸せだった。けれども、もう優しいあの人はいないのだ。アナ・マリアがいなくなければ、大事な大事な妹はたったひとりでどうなる? 兄は気にかけてくれるだろう。ただそれは、あくまで大勢いる弟妹のひとりとして。誰が妹を甘えさせてくれる? 誰が妹の心に、まだ幼く壊れやすい心に寄り添ってくれると、いうのだろうか。 アナ・マリアは震える手でアンジュを抱いた。アンジュは顔を俯かせる主人を見上げ、まるで心配しているかのように弱々しく鳴いた。
***
「アナ様。今日のご機嫌はいかがですか?」
「いつもどおりよ、モリス」
アナ・マリアは侍医のモリスにそう答えた。いつも通りのモリスの問いに、アナ・マリアが元気と答えたことは無い。元気だったなら、父に見放されることも、妹をひとりにしてしまうという不安に苛まれることも、なかったのだ。
「とてもそうは見えませんが? どうやら何か心配事がお有りのようだ。話せば幾分か楽になるかもしれません、とりあえず私めに相談してみてはくれませんか。病は気からと申しますし」
けれどモリスは、アナ・マリアの答えに満足しなかったようだった。かなわないわね、とアナ・マリアは笑みを浮かべる。ふたりは、幼なじみである。モリスは子爵の位を戴いているが、侯爵家の嫡男。 侯爵は昔アナ・マリアの侍医を務めていたので、父親に連れられたモリスとは何度か遊んだものだ。なにせアナ・マリアが病弱なせいで、それはほとんど部屋の中でだったけど。それでもアナ・マリアにとってモリスとの時間は幸せそのものだった。モリスが笑い、アナ・マリアが笑い、アンジュがゴロゴロと喉を鳴らし、母が笑う。ぽつり、とアナ・マリアの瞳から涙が零れ落ち、ベッドの上に陣取るアンジュの毛皮を濡らす。
「わたくし、修道院に入らなくてはならないの。結婚という、義務を果たせないから」
「修道院、ですか」
モリスは驚いたように目を見開いた後、一息おいて、こう聞いた。
「アナ様、しつこい男と結婚する覚悟はおありですか?」
「へ?」
アナ・マリアは驚いて、間抜けな声を出してしまった。
「一度あなたを得られれば、もう二度とは放せない、そんな男ですよ。あなたが他の男と結ばれることを願っても、たとえその男と相思相愛でも、手放すことなどできない」
「まどろっこしい言い方はおやめなさいな、モリス?」
あなたは大分わかりやすいから、わたくしとうの昔に気づいていてよ、とアナ・マリアは呆れながら続けた。モリスの方は一切見ずに。見てしまえば、顔の緩みがばれてしまう。
「モリス、あなたと結婚すればわたくしは幸せに暮らせるでしょうね。でも、わたくし、存外欲張りなの」
自分だけ幸せなんて、嫌なのよ。アナ・マリアはアンジュを思い切り抱きしめた。零れそうな涙を、何とか瞳に押し込めようと。
「妹をおいてはいけないわ」
数拍の間のうち、モリスはぼそりと呟いた。
「アナ様は、いつだってロザリー殿下のことばかりですね。……まるで私のことなんか、どうでも良くなってしまったようだ」
そうではないと、縋る資格はないと、自分自身がよく知っていた。答えを返さない、否、返せない主人の代わりにか、アンジュが短く、悲しそうに鳴いた。
***
「おねえさま! ありがとう!」
「え?」
九歳の妹、ロザリーが訪ねてきた。妹は幼いながらもアナ・マリアの体の弱さを知っていて、ベッドに飛び乗るようなことはしない。けれど今日の妹は、それがなければ今にもベッドに飛び乗りそうになるほど興奮していた。溌剌とした笑みは初恋を手放してでも守りたかった宝物なのだけど、アナ・マリアはお礼を言われた理由がとんとわからずに、首を傾げた。
「あたしね、ずっとおにいさまがほしかったの!」
アナ・マリアの様子に気がつかないのか、ロザリーは無邪気にそう続けた。
「ロザリー、あなたにはもうお兄様が四人もいるでしょう?」
「ほんとうのおにいさまじゃないもの」
何言ってるの、とアナ・マリアが目を見開くと、ロザリーは頬を膨らませた。
「ご本で読んだもの。おにいさまは妹といっぱい遊んでくださるの。私、あの方たちに遊んでもらった覚えなんて、ないわ」
「殿下。そのようなことを仰ってはいけません。それに、覚えていらっしゃらないだけで王子殿下たちと一緒に遊びなさったことはあるはずですよ」
突如開いた扉と共に現れたのは、白衣姿の幼なじみ。アンジュがベッドの上から降り、彼のもとに駆け寄っていく。
「モリス……」
「ネタばらしをされてしまったようですね」
モリスは肩を竦めると、アンジュを抱えベッドのそばに屈みこんだ。アンジュをベッド下に降ろすと、ロザリーがひしと捕まえる。こどもの力任せな抱擁に、アンジュは不満げだ。
「あなたが殿下を置いていけないというのなら、連れてこればいい」
「そんなの、お父様がお許しにならないわ」
顔を俯かせたアナ・マリアにモリスは優しく囁いた。
「顔を上げて、アナ」
昔と同じ呼び名にアナ・マリアが思わず顔を上げると、そこにはあの頃と少しも変わらない笑顔があった。モリスは優しい手つきでアナ・マリアの髪を梳くと、二枚の書状を差し出した。
「これは……?」
一枚目は第一王女アナ・マリアのモリスへの降嫁を、二枚目は妹王女ロザリーの侯爵邸での療養を命じるもの。そしてその両方に、国王のサイン。
「ロザリーは健康体だわ」
「それは陛下もご存知です。-王后殿下がご嘆願なさったんですよ。」
父の最愛の王后は、二人を引き離すのはあんまりだと、そう訴えたらしい。アナ・マリアはロザリーの姉であるばかりではなく、母でもあるのだから、と。父も王后には弱く、割と早く引き下がったとか。その優しさの、ほんの一部でも自分に、ロザリーに向けてくれたらと、思わないわけではないけれど。
「アナ。私は卑怯な手を用い、あなたが私に嫁ぐ以外の道を閉ざした」
「モリス、わたくしあなたに感謝しているのよ? わたくしは臆病だから、あのままだと今もきっとベッドの中で蹲ってただけ」
アナ・マリアには死んでしまったけど思い出の中に生きる優しい母と、可愛い妹、癒しの存在である猫、そしてただひたすらにアナ・マリアを愛してくれるモリスがいるのだから、もう大丈夫。
「私の、私だけの姫になってくださいますか?」
「もちろん」
アンジュがロザリーの腕からするりと抜けると、ベッドに乗り移った。そしてゴロゴロと喉を鳴らすと、気持ちよさそうに居眠りを始めた。
***
王宮侍医の家系に生まれた或る侯爵は稀代の医学の天才だった。彼はその青年期をー当時はまだ父の爵位を受け継いでおらず、子爵位だったがーとある難病の研究に捧げていた。彼の幼なじみで、最愛の妻の体をその病が蝕んでいたのだ。寸暇を惜しむ努力と、『鬼才』と呼ぶに相応しい彼の才覚が結びついて、彼は遂にその病の治療法を確立した。病弱のため外にほとんど出たことがなかった彼の妻が、初めて夜会に参加した折、人々は見た。
月光色に輝く、緩やかなウェーブを描く髪。
セリース王族の証、きらきらと輝く至高のアメジスト。
彼女の叔父の後妻で、当時セリースの王后だった隣国イルソーレ出身のエミリアは後にこう語る。
我が国で信じられている月の女神さまが、この舞踏会にいらっしゃったのかと、あのときの私は本当にそう思ったのよーと。