夢喰い
うたた寝をしていた俺の胸に,ぽっかりと
穴が開いた。迂闊なことに夢喰いにやられて
しまったらしい。
穴とは言っても,まるっきり空洞という訳
ではなく,夢の残滓が繊維状に漂い,まるで
靄か縦横に張りめぐらされた蜘蛛の糸のよう
にたちこめている。
シャツ越しの背中からもぐり込んだ陽光は,
夢の持つ特異な性質に従って,ぼんやりとし
てはいるが,どこか妖しい彩りの透過光へと
変化する。それは夏の日の夕まぐれ,黄昏の
情景にかいま見る,あの光線にも似ている。
穴の中では夢の残像と現実が交錯する懐か
しい情景が,繰り返し再現されているのだろ
う。ふと時間を忘れ,無防備に見とれている
自分にきずく。
軽くはにかみ,「やられたな」とつぶやき
ながら夢を喰われた男の末路を想って,はだ
けた胸に指を差し込んでみた。
「元来,夢喰いというやつは臆病な生き物な
んだ。」
誰の声だろう,懐かしい響きだ。
「人の気配に対して神経質なほど敏感な奴ら
が,人目に触れるような迂闊な行動を取るこ
とは先ずない。」
手を一寸延ばしさえすれば鼻も摘めるほど
の距離なのに,声は遠く,頭のなかで心地よ
く響く。
馴染み深い顔が条件反射で神経の安堵と弛
緩に繋がるところをみると,以前から親しく
付き合いのある友人には違いないが,どうし
ても名前が思い出せない。
いや,それよりもさきに,俺が夢を喰われ
た話をしたかどうかの記憶すらが無い。
「夢というものは長く体内に止めて置くと毒
素を持つようなってくる。毒素は徐々に身体
を蝕み夢の所有者を廃人へと導き,結果とし
て死に至らせることもある。
夢喰いはその毒の成分に惹かれてやってく
るんだ。」
名前のない友人は煙草を頻繁にもみ消しな
がら,夢と夢喰いに関する講釈を垂れ続けて
いる。正面に向かい合っているはずの俺の顔
は,彼に対してどのような表情を示してるの
だろうか。窓から差し込む光は既に黄昏を告
げている。
子供の遊ぶ影踏みの嬌声が,彼の声よりは
るかに大きくとどく。俺の内と外のふたつの
黄昏が,互いの磁場に揺れて,大きく鳴り始
めていた。
窓硝子が赤色と黄色の輝きを増すのにつれ
て,この室の中は次第にうす闇に包まれてい
く。ぼんやりした風景の一部としてしか認識
していなかった彼の顔の造形も暗く沈み,既
に一個の影でしかなくなっている。
その影の講釈は,まだ続いているようだ。
影の声は一定の周期で音量が変わるようにな
り,半分雑音混じりに聞こえてくる。言葉の
断片から再構成を試みると,本来夢喰いは役
目を終えた夢のみ喰らうものだが,わかい夢
喰いの中でも特に分別のない奴は,新鮮な生
々しい夢まで手を出してしまうことがある。
新しい夢は逆に夢喰いにとって毒になるので,
そんな奴は夢にあたって,その場で死んでし
まうといったようなことを話しているようだ。
「そんな分別のない夢喰いにやられた者こそ
いい迷惑だ。穴の開いた胸に,夢喰いの死骸
と喰い散らされて発酵したした夢を抱えて,
ずっと生きていかなくちゃならん。
ああ,想像しただけで身震いがする。そん
な目に遇うことだけは御免被りたいな。」
おそらくは影の持論も多分に入ってはいる
のだろうが,少なくとも俺の場合はそれほど
質の悪いものではなさそうだ。
ところで気にはなっていたのだが,影の言
葉の中で,どうしても聞き取れない単語が存
在する。注意深く耳を傾けてみても,同じ単
語であることが分かるだけで,何故かかすれ
たようにしか聞こえてこない。前後から判断
すると,どうやら俺の名前を発しているらし
い。影の名前が未だに思い出せないところを
みると,ふたりの間には,もともと名前の概
念というものは存在しなかったのかもしれな
い。
影の言葉に耳を傾けながら、半開きの扉へ
と視線と意識を流してみた。
設計者が凝りすぎたのか,天井に向けられ
た間接照明のみが一定の間隔で配置された廊
下はもの暗く,床に向かうにつれ,闇を深め
ていく。ときおり,足元を駆け抜けていくの
は,おそらく鼠かその類の何かだろう。窓は
なく,両脇に扉が規則正しく並んでいる。そ
の暗さと長さで,扉と廊下が無限に続くかの
ような,錯覚を感じさせる。リノリウムが小
さな鳴き声をあげている他には,外の喧騒が
微かに聞こえてくるだけだ。
それほどの時間を待つこともなく,俺と影
と部屋は,やがてはひとつの闇に溶け込んで
いくだろう。
最後の夏の日が終わろうとしていた。