9.闇の中を舞う赤い仮面
そもそも来訪神が、眼に見える形で姿を現す点については注目に値しよう。
本来、神とは眼に見えず、また見えないからこそ神聖なものであった。
水や火など自然の神々や神社に祭られる神々は、眼に見えないものとして信仰されてきた。
同じく伝統行事における神々も、本質的に不可視の存在という伝承がほとんど占めている。
神々は海の彼方や山の頂などの異界に住んでおり、祭りや年中行事のときに村落共同体までやってきて、村人を祝福して厄を祓い、終れば異界に去っていくとされていたのだ(※折口 信夫の論)。
来訪神行事は、地域の若者や子供が、仮面や仮装、特に異界よりやってくるための旅装束である恰好――蓑や笠をつけて現れるとされることがもっぱら多い。
神はそのような旅装に身をやつすことで、ようやく人間に視認できるとされているのだ。
番組中盤では、ある民俗学者のインタビューがあった。学者はこう言及した。
「蓑笠わらじの旅姿は、遠方から訪れた客、つまりマレビト、あるいは祖霊の姿を象るものであります。その昔、家の入り口に蓑笠を掛けたのも、そのような遠くから来てくれた祝福者が、この家にいま訪れているのだという意思表示であったと言えましょう。秋田地方のナマハゲや、沖縄先島方面のアカマタ・クロマタの行事にも当てはまるのではないかと思います。それを本家の主人、一家の家長が演ずるというのは、祖先から現在に糸を引くものが、祖霊にもっとも近いものであるという考えに基づいているのだと思うのです。ですから、新年にこのような儀礼が行われることによって、正月に迎える神は祖先の霊だというイメージが、ますます濃くなったとも言えるわけです」
テレビにかじりついていた密は、不意になにかを思い出しかけた。
砂に埋もれた記憶。なにかを強制的に封印した過去があったはずだ。
それはなんだったか?
思い出せない。
だが、まちがいなく私は多重構造の人間であるはずなのだ。
それがために〆谷を恐れ、うんざりし、逃げ出したのではなかったのか。すべての根源は夏祭りの――。
秘儀だ。
秘儀『異人担ぎ』に他ならない。
この番組に惹き込まれたのは、来訪神の仮面に言及しているからだ。
人は仮面をかぶることで神を演じるどころか、神そのものになる。
あの神事で仮面を見たことがいちどだけある。
〆谷集落のある家系が先祖代々受け継いできた門外不出の品。
あの仮面こそ、異人を表すものだ。それが秘儀『異人担ぎ』につながる――。
報道特集はゲストの高尚ぶった考察やら、とるに足りない雑談になった。
そのうちエンドロールが画面下部に流れ出した。
テレビを消して、感覚をさえぎった。
強く眼をつぶる。
マンションの部屋のはるか向こうで救急車のサイレンが聞こえたが、それも無視した。
闇を意識する。
闇の中。
しだいに中央でなにかが像を結びはじめた。その赤い物体が反時計回りにゆっくりとまわりはじめた。
赤いものは仮面だ。
しばらくすれば、クリアに見えるようになった
眼は目尻が吊りあがった楕円形の空洞。ひときわ高いわし鼻。口角のあがった口にすき間があり、白い歯がずらりと並んでいた。
顔じゅうの皺まで再現してある。まるで力んで、歯を食いしばっているようにも見えた。
仮面そのもの色はあずき色で、やや塗装が剥げかかった部分がある。
もとは鮮やかな朱色だったろうが、長い年月を経て渋い色合いに変色したにちがいない。
作られた年代を感じさせる原始的な顔立ち。
この仮面には見憶えがある。
それも人生を揺るがすほどの関わりがあったはずだ。
それがはっきりと思い出せない。なにか強烈な体験をしたはずなのに……。
そう。あれは十八年前。
ちょうど前回の『異人担ぎ』をやった年でのことだ。
密がまだ八歳のときではなかったか。
そのときだった。
マンションの鉄のドアを小さく叩く音がした。
慎ましいノックにすぎないとはいえ、あまりのタイミングの鮮やかさに、思わず全身が硬直してしまったほどだ。
いまごろ誰だろう?
ソファに腰かけたまま、立ちあがることさえできない。
密の真正面の向こうに玄関がある。
緑色にペイントされたドア。灯りはついていない。
じっとドアを見つめた。
しだいにノックの音は大きく、過激になっていった。
ドンドンドンドン! ドンドンドンドン!
夜の九時すぎに訪問するにしては、いささか近所迷惑な叩き方だろう。部屋じゅうに響き渡った。
息を飲んだ。
まばたきすらできない。
そしてくぐもった声で、
「ひそかぁ――、密、いるのか?」
と、囁く声がした。
明らかにドアの向こうの訪問者は、鋼板に口を密着させ、呼んでいるのだ。
「ひー、そー、かー。開けてくれ。話がしたい」
低い唸りとともに、ドアの向こうの男は言った。
液体窒素を浴びせられたかのように身動きがとれない。
ドアの覗き穴の一点を見つめたまま、我が身を抱いて息を殺した。
「町村 密。本来の使命を思い出せ。おまえはお民の生まれ変わりであるはずだ」と、外の男はこんどは早口でまくし立てた。「ついに時は動き出す。おまえは例の男、上條君と寝たな? 個人的な意見を言わせてもらえば、たいへん残念だ。しかしながら〆谷にとってはまたとない好機となる。おまえは〆谷の男ではなく、外の人間――ましてや、とっておきの男を選んだ。あの男こそ異人のなかの異人にふさわしい。私とはえらい違いだ」
密はソファのうえで体育座りしたまま、どうにか声をしぼり出した。
きっと例のストーカーだ。ついに行動に移したのだ。
「なんなの、あなたは? 私に干渉してきて、なにが狙いなの?」
〆谷での閉鎖的な暮らしに嫌気がさし、せっかく東京へ家出したというのに、ドアの向こうの相手は、またしても〆谷へ地引網のように密を捕らえ、たぐり寄せようとしているのだ。抗議したくもなる。
とすれば、あのストーカーは〆谷の関係者だったのか。
「おまえは上條君を〆谷に誘え。〆谷に導くのだ。それがおまえの役目だ」
「なんのために」
「もうすぐ夏祭りの時期だ。いまこそ秘儀『異人担ぎ』をやるべきときがきた。前回行ってから十八年もの歳月が流れてしまった。神之助明神の怒りを押さえつけられなくなっている。もうすぐ致命的な災いを村にもたらすぞ。そうなるまえに――」
密の身内に抑えつけがたい激情が間欠泉のように迸った。
――神之助明神の怒りかなにか知らないが、私のそれはさらに輪をかけて炎を燃やしているのよ!
「私のことは!」ベッドからおり、テーブルのうえの護身用催涙スプレーの缶を手にした。ドアまで大股で歩み、ノブに手をかけた。「放っておいて! 〆谷のことなんて、もうたくさんよ!」と、ロックをはずし、勢いよく開けた。
ドアを開けた。
そこには異様な恰好の人間が猫背の姿勢で立っていた。
プリミティブな造形の赤い仮面が強烈すぎた。
いましがた眼を閉じたとき、闇の中に現れたものと同じものをかぶった男だった。
頭に笠をかぶっていた。上半身は蓑をまとい、手甲、脚絆をあてた姿だ。
世田谷のマンションを訪ねるにしては、あまりにも場違いな姿であった。
密は恐怖のあまり、催涙スプレーを噴射することもできなかった。
口を開け、悲鳴を発するよりも早く、仮面の男がすかさず前に進み出た。
手のひらで口をふさがれると、蛇のように腕が伸びてきて首に絡みついた。
頸動脈を圧迫され、密はたちまち締め落とされてしまった。