5.「客人婚のつもりか?」
「あの子、東京でいらしたの――」と、着物姿の町村 瀑布子が玄関で絶句するなり、かたわらの夫の身に寄りかかった。「せっかく所在がわかったというのに、また行方をくらませたなんて……」
「妻の反応からわかるように、嘘をついていないのはおわかりでしょう。おれたちにとっても寝耳に水なんだ。それともまさか君は、娘をかくまってるだなんて疑っていないだろうな?」
町村 辰巳は瀑布子を気づかうように肩を抱きながら言った。
その拍子に小型のカートが引きずられた。酸素ボンベが入っているらしい。そこから透明の長いチューブが伸び、鼻の穴に挿入されている。
管を挿した強面の男だった。重い心臓病を患っているのか、携帯用酸素吸入器を手放せないのだという。
「それで、あなたが密と婚約をしたお相手の方――上條さんとおっしゃいましたね」瀑布子が上がり框に、なよなよと腰をおろして言った。「よりによって、幸せになる直前にいなくなるなんて。娘にかわって混乱させてしまい、申し訳ありません」
辰巳は昂奮すると身体に障るらしく、苦悶の表情を作って額をこすった。
「もう四年になる。密は〆谷を……おれたちのもとから飛び出し、家出しちまったんだ。こんな未来もない田舎だ。うんざりして、行き先も告げず去っちまったんだろ。実の娘ながら、身勝手な子に育ててしまったと思ってるよ」と言い、深いため息をついた。妻の肩に手をかけた。「とにかく、聞いてのとおりだ。少なくともあんたに隠し立てするつもりはない。娘とは縁を切ったに等しい。〆谷を訪ねても、これ以上有益な情報は得られんだろう。悪いが帰ってくれないか」
「そんな……」上條は絶望に打ちのめされ、思わずよろめいた。「縁を切ったって、実の娘さんしょ? 捜索願を出すべきじゃないのですか? もしも密さんの身に、なにかあったらとお考えにならないのですか?」
辰巳の顔は土気色をしており、おまけに眼の下には青いクマができている。余命いくばくもない人相に見えた。ギロリと上條をにらんだ。
「捜索願、ね。考えてみるさ。――ま、しばらく様子を見ることにする。あの子のことだ。悪びれた様子もなく、ひょっこり姿を見せる可能性だってなきにしもあらずだ」
上條は内心うめいた。
せっかく密の実家を訪ねたというのに、徒労に終わりそうな予感がした。瀑布子はともかく、辰巳は壁を作っており、取り付く島もない。これからどこをどう捜せばいいやら……。
上條が立ち去ったあと、もしかしたら入れ違いで密が実家に帰ってくるかもしれない。
連絡先が入った名刺を渡しておいた。
たとえ姿を見せなくても、電話だけよこしてくることだってある。
辰巳は渋ったが、瀑布子はささいなことでも連絡するからと約束してくれた。
上條は頭をさげ、町村家を去った。
◆◆◆◆◆
しばらく玄関口で寄りそったままの辰巳たちは、示し合わせたかのようにたがいの顔を見た。
二人はため息をつき、
「いまさら密の奴、こんな騒動を起こしといて、なにをしでかそうっていうんだ」と、辰巳は頭を抱えてつぶやいた。ひとしきり悩み抜いたあと、眼を見開いて、「ひょっとして――客人婚のつもりか? あの上條という男を使って」
「客人婚」
「奴らが密と行動をともにしていると聞いた。せっかく居場所がわかったと思ったらこれだ。洗脳されているのかもしれん」
「不憫な子……」
「しかし、よりによって夏祭り間近になって帰ってくるとは、なにか意味があるのか?」
「まさかあの子は――」瀑布子は思いついたように白い顔をあげた。「ついに時が来たのかも。そうよ。あの子はついに目醒めたんだわ。お民の生まれ変わりとして」
辰巳は鼻のチューブから供給される酸素さえも足りないのか、酸欠状態の金魚みたいに口をいっぱい開けてあえいだ。
「バカな。いまごろになってお民の血が甦ったというのか! なぜこんな時代で目醒めなきゃならん。時代遅れもいいところだ!」
瀑布子は辰巳の力を借りて、ようよう立ちあがった。
「いまこそ夏祭りの日に秘儀をやるときがきたんだわ。もうずいぶんご無沙汰だったものね。神之助さまの怒りがそろそろ押さえつけられなくなってきた頃合なのかもしれない。あの子は使命を思い出したのよ」
「使命。また奴らと同調して、神之助明神か。こっちまで頭がおかしくなりそうだ」と、辰巳は吐き捨てた。そしてうつむき、「因果な家柄に生まれたものだ、密よ――」
辰巳は泣きそうな声で言うと、妻の細い身体を抱きしめた。
瀑布子も負けじと、病に苦しむ夫の背中をさすってこたえた。
◆◆◆◆◆
これで孤独の捜索は振り出しに戻ってしまった。
上條は苦々しげな顔で、天を仰いだ。
慢性化したふくらはぎの肉離れとアキレス腱の古傷が痛む。脈の拍動にあわせて疼いた。顔をしかめ、脚を引きずりながら下り坂を歩いた。
夢と希望をくじかれ、失意のどん底から救ってくれた町村 密。
ようやく光がさしたと思った。
手を伸ばしたとたん、またしても人生のアキレス腱を断たれてしまった。
アキレス腱の語源になったギリシャ神話のアキレスは、トロイア戦争のさなか、パリスに、唯一の弱点である踵を射られて死に至ったように、上條にとっては致命的な傷になりそうだった。
心まで引き裂かれそうだ。片脚を引きずる上條は、まさに打ちのめされた男の姿だった。
やはり上條自身が捜索願を出し、警察に捜査を託すべきだったのではないか。密と連絡が取れなくなって、早五日が経過していた。
先入観が邪魔をしてしまった。完全な判断ミスに思えてきた。
警察署では、成人の行方不明者で事件性がないケースにおいては『一般家出人』に分類し、積極的に捜してくれないと耳にしたことがあったのだ。
それならば、探偵事務所に依頼してもよかったはずなのに……。
素人が漫然とほっつき歩いても、時間を浪費するばかりで、もしや密が危険な精神状態ならますます追い込まれて、衝動的な行動をとってしまう恐れがあった。グズグズしていると助かる命も助けられない。
……いや、必ずしも自殺するつもりで失踪したと決めつけるのは時期尚早だった。町村 辰巳も言っていたではないか。〆谷を家出同然で飛び出したように、思いつめると逃避したい心理にかられる女性なのかもしれない。
ここで思い悩んでも仕方がない。
残念ながら故郷に戻ってきていないと結論付けてよい。町村夫婦の反応からして嘘をついて、かくまっているとは思えない。
とにかく〆谷から出るしかあるまい。
そう決め、町村家から公民館までくだってきたときだった。
赤い法被姿のあの男が揉み手をしながら待ちかまえていた。またしても夏祭りの実行委員会代表・寒川につかまってしまったのが運の尽きだった。