32.『NPO法人女性サポート・アフロディーテ』の酒田 菫
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「これより――『はじめの神事』を行う!」
海道の声が響くと、おおッ!と男衆が応えた。
龍の池が祭りの参加者たちの眼のまえに広がっていた。闇のなか、篝火が一定の間隔に立てられ、赤々と燃えて水面に映り込んでいた。火の粉が舞い、非日常の空気を醸していた。
上條を包んだ簀巻きが男たちによって担がれた。
反動をつけ、池に向かって勢いよく投げ入れられた。
筵の束は、驚くほど高く、そして遠くへ飛んだ。
はでな水柱を立てた。
長い竹竿を手にした裃姿の古老たちが池のふちに近づいた。
浮かんだ簀巻きを沈めようとする。残酷な水責めであった。
竹竿を持った者はほかにも三人いて、みんなで竿の端を取り合って上條を溺れ死にさせようと躍起になった。
どの顔も歯を見せ、楽しんでいるようだ。
簀巻きは、そうかんたんに沈むわけではない。
とはいえ四本もの竹竿で小突きまわされたうえ、無理やり池のなかに押さえつけられるのだ。
元スプリンターの身体能力があろうが、かつての強力無双の神之助でさえ、筵に包まれた状態ではどうすることもできない。
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――落ち着け。どうせこうガッチリ縛られていれば、自力で抜け出せっこない。さっきの男が言ったことを信じるしかないぞ!
――もし嘘だったら? おれをぬか喜びさせるだけの、あの男の気まぐれの発言にすぎなかったら?
――陥れる必要性がないじゃないか。この期に及んで、おれの命を脅かしたところで奴になんのメリットがあるっていうんだ! なぜこうも、元陸上界のちっぽけな人間が罰を受けなきゃいけないんだ?
――なら、さっさと来い。頼むから来てくれ! 助けてくれなかったら、化けて出てやるからな!
いくつもの竹竿で腹のあたりを烈しく突かれ、無理やり沈められた。
異人の面をつけていようがいまいが、おかまいなしに水がすき間から入り込んでくる。
――早くしてくれ! も、もたない!
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そのときだった。
池の周囲は赤々と篝火に照らされていたので、男たちは見逃すはずもない。
大勢の目撃者がいた。池のほとりから見てしまったのだ。
タールのような真っ黒な水底から、細長い二本の物体がゆるゆると伸びてくるのを。
それは白い爬虫類のように見えた。
たしかに白くて長いものだった。
両方の先端が割れた。
と思ったら、簀巻きにがっしと噛みついた。
さながら獲物を捕らえた生物の鎌首のように。
息もつかせず、そのまま水底へ引きずり込んでいった。
誰もが眼を瞠った。
到底この世のものとは思えなかった。
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上からの乱暴な負荷が減じられた。
むしろ急速に真下へ引っ張る力を感じていた。
次の瞬間、上條の胴体周辺を縛っていた強い戒めがグリグリとこねまわされる感触が伝わった。
その間、どうにか平常心を保ち、息をとめ続けた。
とたんに解放感があった。
巻きつけていた筵が引きはがされ、脱落していく。
しばらくすると仮面の眼の部分にわずかな光が入った。
鼻や口の空隙からも水が入ってくるので、飲み込まないよう、頬をふくらませて耐えた。
意識が飛びそうになる。
仮面を耳からはずされた。
解放感に安堵したのもつかの間、口に柔らかい素材のなにかがねじ込まれた。
シリコンゴムの感触。そこから空気が送り込まれてくるのがわかった。
鼻をつまみ、餓えたようにむさぼる。多少、水を飲み込んでしまったが、幸いにしてむせなかった。
新鮮な空気をたっぷり食らい、とにかくパニックを落ち着かそうと、ゆっくり深呼吸をくり返した。
上條は眼を開けた。
眩いばかりの光が眼を射抜いた。
すぐに光は下に向けられた。
暗闇の世界でフラッシュライトを手にした何者かが、立ち泳ぎしているのがわかった。まるで宇宙遊泳をしている飛行士のようだ。
ダイバーゴーグルごしにも涼しげな眼差しなのがわかった。
シュノーケルタンクを背負い、全身は黒い素材のウェットスーツなのだが、肩から手の先にかけて白い色が特徴的だった。意図的なデザインなのかどうか――手袋には龍の顔が描かれていた。手のひらは、まるで口腔のように赤色という念の入れようだ。
細くしなやかな身体つきで長い髪が海藻のように揺れている。男が言っていた姉にちがいあるまい。
上條が口にくわえさせられたのは超小型酸素タンクだ。真下に向けてペットボトル一リットルほどの鉄製の円柱がぶらさがっている。浮力のおかげで重みはそれほど感じられない。
タンクの口にはレギュレーターとシリンダーがついており、ちょうどダイビング器材が合わさった合理的な作りになっていた。最大一〇分間、水中を潜れるポータブル酸素タンクがあると、週刊誌で眼にしたことがあった。酸素の充填も、自転車のチューブに入れる空気入れポンプでかんたんに補えるとのことだった。
ダイバーは上條に寄りそい、親指と人差し指で丸をつくり、ハンドシグナルをよこした。
上條はうなずき、同じく大丈夫だ、と応えた。
ダイバーは親指を下に向けた。
不気味な水底をフラッシュライトで照らした。
ただちに浮上するのではなく、さらに潜降するというのだ。
たしかにすぐ水面にまであがってしまえば、〆谷集落の連中に見つかり、ふたたび捕らえられてしまうにちがいない。逃げきれるとは思えなかった。
だったらここは一度、死んだと見せかけるのも手かもしれない。
上條はダイバーを信じ、その合図に従った。
――さっきのNPO法人の男が言うには、水中で死んだふりをしておけとのことだったが、そのあとの続きを聞きそびれていた。最終的に生贄の窮地から逃げるにせよ、多勢に無勢。うまくいくだろうか?
そもそも上條は、失踪した密を探しにきたのだ。なんとしても彼女を取り返さなけばなるまい。
ダイバーのあとに続いて潜水した上條は、じきに池の底に達した。水深は八メートルを超えているにちがいない。
ぬかるんだ底には筵の束を沈めてあった。
なにかを包んだような厚みがあり、重石とナイロンロープで浮いてこないように細工してあった。
ダイバーはどこからともなくナイフを出すと、ロープを切断した。
たちまち筵の塊は、無数の気泡とともに浮上した。この分だとたやすく水面にまで達するだろう。
偽装工作のための替え玉らしい。はじめから計算されていたのか、やることなすことソツがない。
ダイバーは矢継ぎ早、ハンドシグナルを出した。
このまま水平に移動すると伝えてくる。龍の池を奥へと泳ぐつもりらしい。
上條はOKマークを示した。お世辞にも水質はよろしくなく、ずっと眼を開け続けているのは苦痛になっていた。
二人は静かに平行移動した。
相手は完全武装した姿である。慣れた動きなうえ、フィンがある分、泳ぎが速い。
遅れをとった上條は、しまいにはダイバーに腕を引っ張られ、どうにか池の外周までたどり着いた。
距離からいって、上條が放り込まれた地点に対し、対岸であろう。
夜陰に乗じて陸にあがった。
このあたりに篝火は焚かれていない。濃い闇が茫漠と広がっていた。
タイバーはクタクタに疲れ果てた上條を引きずりあげると、いったん木々の茂みに消えた。
しばらくすると、荷物を抱えて戻ってきた。あらかじめ隠していたらしい。
上條は仰向けのまま首だけあげ、どうにか対岸を見た。
祭りの参加者たちが、やれ簀巻きを回収しろだの、やれご神体を失うところだったぞとわめき散らしている。
ちょうど池の水面に、替え玉がプカプカ漂っているところだった。
まさかあの偽物に、マネキンだか丸太かなにが入っているとは夢にも思うまい。
一度簀巻きを解かれ、本人確認をされたら万事休すだったが、彼らはそんなそぶりも見せない。
寝そべり、身体全体で息をしていた。
そのうち命を救ってくれたダイバーは、上條の眼を気にすることなくウェットスーツを脱ぎはじめた。
闇夜なのに、白蛇のごときしなやかな裸体が上條の網膜に焼き付いた。
直視しないよう、横を向いた。
茂みから持ってきた荷物は自身の着替えだったらしく、まずはタオルで身体を拭うと、テキパキした動きで下着に足をとおし、衣服を身につけた。
身支度を整えると、上條のそばに寄ってきた。
「亮彦からどこまで聞きましたか? 私は姉の菫。酒田 菫と申します」と、ブルージーンズにパステルグリーンのブラウスをまとった女が口にした。「『NPO法人女性サポート・アフロディーテ』に属しています。私たちは人権擁護施策推進法に基づき、主に虐待を受けた女性の方々の支援を行ってまいりましたが、特例としてこの集落の悪しき噂を聞きつけ、上條さん――あなたを助けに参りました」




