31.憤怒に憑かれた上條――反撃
朝比奈が〆谷の繁栄と安全、無病息災、厄除け、豊漁豊作を願って、おごそかな祝詞は締めくくられた。
本殿内に沈黙が落ちると同時に、男たちは騒々しく好き勝手なことを言い合うようになった。
このあと直会の宴が予定されているらしい。うまい酒を飲もうと、古老が若者たちに笑いかけている。
祭壇のかたわらで、唾を飛ばし、まくし立てるのは寒川だ。
「かつて陸上界のプリンスと呼ばれた男も、このザマか。結局、こいつの取り柄は逃げ足の速さだけだったな。それと女に手を出すこともな。――それも選んだ相手が悪い」寒川は言い、若者たちに手招きした。「せっかくだ。久しぶりの秘儀をやったんだ。記念撮影といこう。新しいご神体を囲んでな。おい、誰かカメラマンになってくれ!」
若者たちが複雑な顔でおたがい見合わせ、気乗りしないまま実行委員会代表のもとに集まった。
そして体格のいい法被姿の男と肩を組み、快活な笑みを浮かべたときだった。
奥にある壁の一部が勢いよくスライドした。――隠し扉だった。
暗闇から何者かが躍り出た。
デニムパンツを履き、肩のところで裂けたポロシャツ姿。全身ずぶ濡れだ。
なんと――上條 充留だった。
陸上界で活躍していたときの温厚そうな顔つきとは異なり、憤怒のそれへと変じ、とても話し合いが通じるようには見えない。
長い角材を手にしていた。蔵の扉を閉めていた閂だろう。海道が助けるふりをして朝比奈を気絶させた得物――。
寒川の背後に忍び寄り、大上段にふりかぶった。
ためらいもなく一閃。
無防備な寒川の脳天に炸裂した。
閂が真っ二つに折れるほどの衝撃。
寒川が声もなく、前のめりに倒れた。
「きさまらの思いどおりに、させてたまるか!」
上條が仁王立ちのまま叫んだ。
極度の昂奮で上腕二頭筋が、まるでワイヤーを束ねたように盛りあがっている。
本殿内にいた祭りの参加者たちは立ちすくんでいる。
まさかご神体となったはずの上條が、どうやって簀巻きされた窮地から抜け出したのか?
誰もが理解に苦しんだ。思考停止となり、その場で釘付けにされたのだ。
寒川の隣にいた偉丈夫を、短くなった角材をフルスイングして顔面を叩いた。
上條は別のもうひとりを、ささくれた先端で腹を突いた。
体格のいい男たちが、瞬く間にひっくり返った。
「いったいどうやって脱出したっていうんだ?」と、海道が言った。驚愕の表情で、まわりに指を突きつけた。「……奴を捕まえろ! 生かすな!」
古老たちが若者たちより早く、頭に血をのぼらせて挑みかかった。
上條の暴れっぷりよ。
短くなった角材を捨て、ボクサー顔負けのフックとストレートのコンビネーションで瞬時にのした。
恐るべき殺人的パワーと人間離れしたスピードだった。殴られた老人たちは衝撃で壁まで飛ばされたほどだ。
事情が飲み込めぬまま、若者三人は上條を挟み撃ちにするべく、同時に近づいた。他の者は恐れをなして、むしろうしろにさがった。
上條は肘を曲げ、後屈立ちの構えをとった。重心は後ろ足。空手における防御のそれである。
突進してきた二十代の男たちを、上條はそれぞれ前蹴りと後ろまわし蹴り、ボディへの左フックで尻もちをつかせた。
それを皮切りに、怒りと、わけのわからぬ恐れと、困惑に捉われた男たちがいっせいに上條を中心にして雪崩れ込んだ。
「上條さん、あなたという男は――いつまでも往生際が悪い!」
朝比奈が叫んだ。
その朝比奈を、手前にいた酒田 亮彦がふり返りざま、殴りつけた。
ワンツーを見舞う。相手のあごの蝶番とこめかみに、鮮やかに入った。その拍子に烏帽子が脱げた。
宮司は顔を押さえ、茫然たる面持ちで自身の手のひらを見た。
鼻血がべったりついているのを確認すると、白眼をむいてくずおれた。
「きさま、なんのつもりだ!」
頭の禿げた柴田が酒田を罵った。
かたわらにいた柴田とそっくりの顔立ちの息子が立ちふさがり、
「このガキ、なにか仕込んだな? ふざけ!」
と言って、酒田の胸倉を両手でつかんだ。
酒田は負けじと、柴田ジュニアの腕を払いのけ、間合いに入り込み、肘鉄を食らわせた。たっぷり体重を乗せてある。
柴田のあごに入り、瞬時に意識を失ってひっくり返った。
なおも上條は向かってくる男たちを全身を使って迎え撃った。
つかみかかろうとする者を拳を突き出し、蹴りを浴びせるだけで、敵は派手に吹っ飛んだ。勢いがつきすぎて、後方の男たちを巻き込んで転倒させるパワーを発揮していた。
いくら上條が元アスリートで、素人とは及びもつかないトレーニングを積んだとはいえ、しょせんは昔取った杵柄。走ることに特化していたにすぎない。この異様な怪力無双ぶりはなにか――。
いまや戦いに乱舞する上條の眼は光を失っていた。
顔だけが紅潮し、完全に我を忘れている。
先ほど大勢で神輿を担いだとき、トランス状態に達していたように、あるいは巫女が託宣を告げるとき、憑依されたときのように神がかりな精神に達しているのだろう。
もしや不動明王が地上に舞い降りたら、こんな暴れ方をするのではないか。
男たちが束になってかかっても押さえつけるどころか、触れることさえできない。
「この悪党ども!」上半身裸になった上條はドスの利いた声で言った。「許さねえ! こんな罰当たりな祭り、必ず今日かぎりで終わらせてやる! このおれがな!」
歯を食いしばり、怒りの形相になった上條は、まさに不動明王が乗り移ったかのようだった。
古来より、マジックショーは大きく三段階にわけて行われた。
観客に種も仕掛けもないことを明かす『確認』からはじまり、パフォーマンスである『展開』。そして最終の『偉業』によってエンターテインメントは完結する。
観客はまさに度肝を抜く魔法を見せつけられ魅了されるものだ。
上條を含め、その味方たちは反撃の隙をうかがっていたのだ。
しばし時間を巻き戻さなければなるまい――。
◆◆◆◆◆
山車上部にすっぽりとおさめられた上條は、筵に包まれたまま身をよじった。
幾重にも巻かれているため、上條も窒息しかねないが、仮面をかぶったおかげでわずかなすき間が生じているらしく、かろうじて呼吸はできるようだ。
しかしながら満足に返事すらできない。圧迫されて、むーむーと呻いてばかりいる。
「よし、これより山車を曳いて、〆谷川沿いをくだるぞ! そこの男どもはおりてこい!」
下の寒川が命じた。
ハシゴにつかまっていた白い法被姿の男たちはそれに従った。
ところが酒田 亮彦はむしろハシゴをよじ昇り、コクピット然とした空隙に半身を入れた。
簀巻きにされた上條に寄りそった。そしてなにやら囁きかけはじめた。
それは興味本位による行動かと誰もが思った。
下で見守る寒川や海道さえもが眉をひそめた。
――神事に初参加の者が、これからご神体となる人間に話しかけるのは解せなかった。
「資料どおり事が進むなら」と、酒田は簀巻きにされた上條の耳もとに向かって、鋭く言った。励ますような口調で、「あなたはこれから龍の池に沈められるはずだ。どうか落ち着いて聞いて欲しい。あなたはジタバタせず、おとなしく池に沈め。下手に足掻けば息が続かなくなって、なおさら命の危険が及ぶ」
筵のなかで上條がむーむーと呻いていたが、酒田が身体をつかんで黙らせた。
「上條さんと言ったな? 深呼吸しろ。苦しいのはわかる」
「……誰だ、あんたは?」
筵のなかから、やっとのことで洩らした。
「大丈夫、僕はあなたの味方です」酒田は軽く上條の肩のあたりを叩いた。「僕の姉が池の底でシュノーケルタンクを背負って待機している手はずになっているんです。本格的にやってるプロのダイバーだ。あなたが龍の池に沈められたら、すかさず助けてやる。だから素直に、死んだふりをするんです。替え玉を用意してある」
「……どういうつもりだ。その話、信用できるんだろうな?」
「〆谷の悪行は人づてに聞いた。なんとしても、こんな野蛮な行いを阻止しなくちゃいけない。――僕らはNPO法人の者だ」
「人権屋か。ずいぶんと情報通なんだな。こんな異常な祭りを聞きつけたなんて」
「ひょっとしてあなたはNPO法人を、いかがわしい事業だと先入観を抱いているクチみたいですね。勉強が足りませんよ」
たしかにNPO法人の収入の系統は、委託事業収入、自主事業収入、補助金・助成金、会費、寄付金の五種類から成り立っている。なにも無償でボランティアをやっているわけではない。働きに応じてちゃんと、民間企業と同じように給料も出るし、ちゃんと社会保険も入っているのだ。その点、上條は無知すぎた。
「どうせ、この状態では脱出は無理だ。あんたの姉さんはちゃんと救ってくれるんだろうな? すばやくこの戒めを解かなきゃいけないんだぞ? それに死んだと見せかけるだと?」
「なーに、水中マジックの要領です。姉は器用な人でね。きっとうまくやってのけるはずです。あなたも信用しなさい。疑ってかかると、おたがいの呼吸が合わなくなる」
「他人事みたいに言って……。こっちは初めて、そんなのに挑戦するんだぞ!」
「初めてでもやるしかない。あまり長話してると、下の奴らに怪しまれる。そろそろおりるから」酒田は烈しく吠えている寒川に急かされて退散することにした。「健闘を祈ってる。上條さん――死ぬなよ」




