3.闇への内向――〆谷集落
魚を活け〆する、あの〆の谷と書いて〆谷。
魚の活け〆とは、生きている魚の急所をひと突きして即死させたあと、手早く血抜きをすることで、鮮度を保つ方法である。
なんとなく地名の由来が気になる集落だ。
インターネットで調べてみると、以下のことがわかった。
『昔、龍の池には恐ろしい白龍が住み着いていた。年に何度か池の水をあふれさせるほど害をするので、占い師に見てもらったところ、赤い鯉を贄にし、毎年夏の時期に祭礼をやるべし、さすれば怒りもおさまるとの託宣をいただいた。なかでも池につながる落合で赤い鯉を活け〆にし、それを供することが重要だと告げる。そこからこの土地を〆谷と呼ぶようになった。』
〆谷集落。
農林業が盛んだった一九六〇年代こそ、日本屈指の小さい村ながら人口四〇〇人超が暮らしていたが、八〇年後半に〆谷ダムが建設されてから下方の地区が立ち退きを余儀なくされたようだ。
そのうえ少子高齢化が加速度的に進み、二〇一六年度の国勢調査では、世帯数十八、人口四十二人にまで減り、末期的な限界集落にまで落ちぶれていた。
かつては小中学校の校舎もあったようだが、言うまでもなくいまでは廃校となって久しく、老人福祉施設へと改装されている。
一基の信号機すらなく、生鮮食品を出す店も、かろうじて一軒ある程度。それも週三度しか開店しないとか。
村の面積そのものは四.一九キロ平方メートル。
東京ドームに換算すると八十九個分あるが、小さな字(市町村内の小区画)が散らばっているにすぎない。明治以降、それらが合併をくり返し、いまの〆谷にまとめられたわけである。
とにかく、行くしかなかった。
明日から大型連休に入るのは好都合とも言えた。
土日と日曜祭日の振替休日にあたる月曜を含め、盆休み(八月十三~十六日)を利用して〆谷に向かうことにした。さらに十七、十八日の土日を合わせれば九連休になる。
〆谷での滞在が、どれほどになるか予想もつかない。
滞在どころか、なんの収穫もないままとんぼ返りしなくてはならないことだってあり得た。
最悪、なんらかの不測の事態が発生したとしても、九日あればなんとかなる。密の足どりもつかめるのではないか。
職場の親しい同僚にワゴン車を借りた。
念のため、替えの衣類や食料をトランクに詰め込み、カーナビをセットし、街を出たのだった。
◆◆◆◆◆
繁華街からはずれ、内陸部に車を進めること二時間弱。
さすがは聞きしに勝る紀伊山地である。一〇〇〇メートルから二〇〇〇メートル級の山々が連なり、鬱蒼たる森林に覆われたこの地は、太古より自然信仰の対象としての側面を持ちながら、仏教が伝来してからは過酷な山岳修行の場となったことで知られている。
眼もくらむような谷間の山道を奥深くへ分け入っていった。
羊腸のように曲がりくねった危なっかしい道である。用心しなければならない。
ガードレールもろくにない箇所が目立つ。路面は舗装されているとはいえ、ときおり亀裂が入っているし、崖の上から転げ落ちてきたらしい岩石が道をふさいでいることもめずらしくなかった。
こんな僻地くんだりまで来て、ロードサービスのレッカー車の世話になるのだけはごめんだ。
気持ちが落ち着かない。
まるで催眠効果でもあるかのように、行けども行けども変わり映えのしない緑色の風景。
それに昼なお暗い。高い針葉樹が空を覆っているせいだ。
上條は慎重にハンドルをさばいていく。
行方をくらませた密のこともあり、考えが堂々巡りをして神経がまいりそうだった。早く〆谷に着きたくて、気ばかりが急いた。
――闇だ。
この山道は、まるで心の闇へ内向していくような錯覚を起こさせるのだ。
いつか観たフランシス・フォード・コッポラ の『地獄の黙示録』を思い出した。一般的にベトナム戦争を描いた映画として通っているが、否、あれは精神世界の物語とも解釈できる。
主人公のウィラード大尉は、狂気に目醒めた元特殊部隊隊長のカーツ大佐を暗殺するべく、カンボジアのジャングル奥地に築いた王国をめざす。
河川哨戒艇に乗り込み、部下とともに大河をさかのぼる。その道すがらベトナム戦争の狂気の端々を目の当たりにしていき、王国へ近づくにつれウィラード自身、精神のバランスを失っていく物語である。
あれを観たとき、ウィラードたち一行がナン川をさかのぼるにしたがい、心の闇へ落ち込んでいくような不思議な錯覚を憶えたものだ。
――ちょうどあの感覚に似ていた。
しばらく進むと、ようやく終点が見えてきた。
すり鉢状の盆地となり、険しい斜面には岩ガキのように家屋がしがみついた集落だ。それも一軒一軒が離れ離れに点在している。
閑散たる風景だ。
あそこが〆谷らしい。
谷間には川が流れ、集落を大きく二分していた。
山奥に入植地を築き、そこで繁栄・維持していくのだから人間の適応力はたくましい。
もっとも、主な産業は農林業しかなさそうだ。
棚田もあるにはあったが、ひとつひとつが小さすぎなうえ、勾配がきつすぎた。
お世辞にも豊かな暮らしを送っているようには見えない。