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29.天然痘を擬神化した疱瘡神

 以下は鹿児島県薩摩郡の甑島(こしきじま)瀬々野浦(せせのうら)で起きたとされる異人殺しである。

 この瀬々野浦のすぐうしろの山に、『トシドン石』と呼ばれる巨石があった。そのかたわらに『サエが松』という一本松が近年まで生えていたらしい。

 かつてこの松の下に一軒家が建っていたことがあった。明治以前にまでさかのぼる話である――。


 大晦日の晩のこと。

 見知らぬどてら(、、、)を着た大男がどこからともなくやってきて、屋敷の横座に座り込むようになった。


 こんなことが数年続いたので、一軒家の夫婦は困り果てた。

 手打てうち(下甑島しもこしきじまの字のひとつ)の男たちがこれを聞きつけ、斬殺しようと計画。

 そうとは知らぬ大男。ある年の夜、例のごとくやってきて、横座に座った。


 すぐさま一人の者が怪人に茶をすすめた。

 それを受取ろうとした瞬間、わざと茶釜の炉のなかにひっくり返した。

 大男がうろたえた瞬間を狙って斬り殺してしまった。


 それから間もなく、一軒家の夫婦は眼が見えなくったうえ、不幸が重なって家は絶えてしまった。

 いまでもそこに家を建てないのは、その祟りを恐れるからだと、瀬々野浦の老人は言う。




 ――悪石島のボゼや宮古島のパーントゥが夏の来訪神行事であるのに対し、トシドンはナマハゲ同様、冬のそれだ。どちらかというと『年神』という位置づけである。


 トシドンの仮面がこんな形をしている。

 吊りあがった眼と、牙の並んだ赤い口、カジキマグロのように鋭く長い鼻が特徴的である。

 とはいえその仮面はナマハゲに比べ、トシドン保存会の予算が少なすぎるのか、いささか貧弱である。


 仮面そのものはダンボールでぎされており、絵の具を塗りたくられた稚拙なものだ。いかにも素人の手による工作感が丸出しで、かたやたくみが手がけたナマハゲの立体的な仮面と比較した場合、数段見劣りしてしまう。


 身体にはシュロの木の皮で作った蓑をまとっており、さながらメラネシア・ポリネシア島嶼とうしょの祭礼を彷彿とさせる。恐らく源流はそちらにあり、いつの時代か定かではないが、人間が漂流してきて現地の祭を伝播させていったのだろう。じっさい、沖縄から鹿児島にかけての離島には、こういった系統の来訪神行事が枚挙に暇がないほどである。


 仮面と蓑の衣装の制作現場は非公開であるとされ、写真やビデオでの撮影も禁止されているという。

 行事が終わったあと、元旦までのあいだに、これらの衣装は焼却処分しなくてはならない習わしがある。


 トシドンはふだん天上界に住んでおり、つねに人間界を見張っているという。

 とりわけ子供を好み、彼らの行いをつぶさに監視しているとか。

 毎年、大晦日の夜になると山の頂に降臨し、首切れ馬(、、、、)にまたがって鈴を鳴らしながら家々を訪問すると信じられていた。その年に悪さをした子供を懲らしめるためにやってくるとされている。


 そして歳餅としもちという餅を与え、颯爽と去っていくのだという。この歳餅こそお年玉の原型ではないかとする諸説もあるほどだ。

 年末に訪れ、プレゼントをするという点については、西洋の伝説にあるサンタクロースとも共通しているのが奇妙な縁を感じる。たしかにドイツやスイスでは、サンタクロースが子供を怖がらせる地域もあるというからだ……。




              甑島の来訪神トシドンにまつわる異人殺し伝説

「そら、担げや担げ!」


「やるか! ここからが正念場! 気合入れていこう!」


「いよいよ山場じゃぞ! まちがっても神輿を落っことすんじゃねえ! 命がけで神社までお届けしろ!」


 法被姿の男衆が口々に叫んだ。

 誰もが憑りつかれたみたいに神がかりの力でみなぎっていた。

 眼つきが尋常ではない。


 全身が筋肉で隆起していた。

 都市部からかけつけた初参加の若者とて例外ではなかった。

 宗教学や文化人類学による、いわゆる憑依ポゼッション型の変性意識状態――すなわち、入神(トランス)状態に域に達しているのだろう。


 めざすは対岸の集落だ。

 険しい石段をのぼった先の〆谷神社である。

 その社まで新たなご神体を奉納しなくてはならない。


「エッサ!」


「ソイヤ!」


 威勢のいいかけ声とともに、六点式の担ぎ棒に取りついた男たちは四肢を踏ん張った。

 神輿は揺れながら出立した。

 総勢九十人近くが加わっている。


 吊り橋は渡らず、そのわきから川へとつながる坂をくだった。

 一気に川を突っ切った。

 水深はせいぜい男たちの腿あたりだし、流れもゆるやかだ。


 まさに命がけの行軍だった。

 担ぎ棒を含めた依り代の重さは一トン近くあり、まかりまちがってバランスを崩せば、大勢の人間がその下敷きになるだろう。


 たちまち玉砂利が広がる対岸へと上陸した。

 男たちは死に物狂いで、上條というご神体をいただいた神輿を運んだ。

 砂利のなかに足がとられ、急に動きが鈍くなった。

 それでも寒川の指揮のもと、神輿はじりじりと前へ進んだ。




「神社まで運ぶってことは、当然のことながら階段を登るわけですよね? これは先が思いやられるな」


 と、右後ろの担ぎ棒に取りついた長谷川 修はとなりの壮年の男に聞いた。

 いちばん端なので、ときおり担ぐのに手を抜いても害はない。

 年上の男は修と似たような優男やさおとこで、担ぎ棒の重みに踏ん張りながら、なんとかふり返った。


「ご覧のように! 『異人担ぎ』の! いちばんの難所ですからね! 長谷川さん! くれぐれも神輿を落とさないよう注意しなさい! 万が一バランスを崩し! あんな急な斜面から落とそうものなら! 皆さんの命に係わりますから! ですから! 若い力が必要なんです! さ、集中して!」


「はあ」と、修は気のない返事。「……で、ぶじ神社に着いたら、次はどうするんです?」


「僕は! 十八年まえに一度だけ参加している! 手順はわかります」と、優男は息をはずませながら言った。「神之助役の男を! 本殿のご神体に祭りあげる! ただの死者から! 〆谷の守り神へと! 神格化させるのです! さっき、龍の池の儀礼で! 人から神へと変換されたでしょ? そして今度こそ! 神主さんの力で正式に祀る!」


「なんでまたそんなことをするんです?」


「それが御霊信仰ごりょうしんこうという概念ってわけですよ、長谷川さん」と、すぐ横を海道 史郎が歩きながら声をかけてきた。相変わらずひと風呂浴びたかのように涼しい顔をしている。担ぎ手には加わらず、あくまで監修(、、)という立場だからだ。「かつて民俗社会の人々はこう思ったそうです。――民衆を脅かす天災や感染症の発生とはつまり、怨みを飲んで死んだり、非業の死を遂げた者の怨霊のしわざだと見なしたんです。これを鎮めて『御霊』と祀ることで災いを防ぎ、平和に転換させようとした日本独自の信仰のことをいうのです」


「感染症までですって? インフルエンザとか?」


 修は担ぎ棒が肩に食い込み、あまりの痛さに耐えかねながら言った。

 神輿の揺れとともに、ポニーテールまで踊っている。


「よろしい。しばしレクチャーしてさしあげましょう。御霊信仰は我が国にとっては昔から現在に至るまで、根深く入り込んでいます。かつて疱瘡ほうそうと呼ばれた、いわゆる天然痘さえも、日本においては神として祭りあげられ、その被害を食い止めようとした歴史があるのをご存知ですか?」


「いや……。知らないです」


「では、天然痘がどんな恐ろしい病気だったか、教える必要がありますね」


◆◆◆◆◆


 そもそも天然痘とはどんな病気か? 

 痘瘡とうそうウイルスを病原体とする感染症のことを指し、強い感染力をもち、罹患すれば全身に膿疱ほうのう(皮膚にうみがたまったもの)が生じる。

 爆発的な感染力と高い致死率(諸説あるが、四〇パーセント前後を誇った)のため、時には国や民族が滅ぶ要因となった。


 仮に治癒しても皮膚に醜いあばた(、、、)を残すことから、世界中で不治の病、悪魔の病気とまで恐れられた。

 同時に世界初の、撲滅に成功した感染症事例でもある。それほど人類の叡智を結集して、この病魔の対策に取り組んだのだろう。


 もともと痘瘡ウイルスは我が国には存在しなかった。

 六世紀半ば、中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が盛んになったとき、日本初の感染者が現れたとされているのだ。


 折しも新羅しらぎから弥勒菩薩像が送られ、敏達びだつ天皇が仏教の普及を推進した直後であった。

 そのため、神道の神を蔑ろにした神罰ではないかという考えが広まり、同じく仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下したほどであった。

 皮肉にも五八五年、敏達天皇自身も天然痘で崩御したのではないかとも言われている。




 日本書紀にはこう記されている――「かさでてみまかる者、身焼かれ、打たれ、砕かるるが如し」とある。すなわち、無数の膿疱が浮き出、烈しい苦痛と高熱を伴うという意味である。これが日本における天然痘の初めての記録とされている。


 また奈良の大仏造営のきっかけのひとつがこの天然痘の流行であったという。

 かの独眼竜こと伊達 政宗が隻眼せきがんなのも、幼少期に罹った天然痘のせいで失明したからだ。このように日本の歴史には、至るところに天然痘の暗い影を落としているのだ。




 その天然痘を擬神化したのが疱瘡神ほうそうがみであり、悪神のひとつとして恐れられた。

 まだ医療が発達していなかった時代、適切な治療法が確立されておらず、また予防すらできなかったので、人々はこの疱瘡こそ御霊の祟りではないかと信じたのだ。

 じっさいに疱瘡神を目撃したというデマまで現れ、民衆のあいだでまことしやかな迷信まで広まった。


 疱瘡をなんとか村外へ追い出そうと、『疫病神送り』などの呪術的信仰にすがるしかなかった。

 それほど民俗社会においては、感染症のまえには無力であり、その対策も苦しまぎれに等しかった。

 こうした考えは少しずつ形態は異なっても、いまだ日本各地には疱瘡神除けの神事や行事が数多く残っているほどである。


 ちなみに京都の祇園祭でさえ、御霊信仰から派生しているのは有名である。

 祇園祭は、正しくは『祇園御霊会(ごりょうえ)』という。

 『御霊会』とは、非業の死を遂げたり、この世に未練や怨みを持った霊魂が疫病をふりまくという考えから、それら荒ぶる魂をもてなし、慰め、鎮めることによって災厄から逃れ、都の外へ送り出すための祭礼である。




 ところで平安京の都でほぼ毎年流行した疫病は、じっさいは食中毒や集中豪雨による川の氾濫からもたらされたものだった。人々はその原因さえもが御霊たちのしわざであると結び付けた。

 だからこそ御霊会は春先から梅雨明けまでの、今日における『食中毒注意報』が発令されたり、台風や洪水が発生しやすい時期に行われねばならなかったのだ。


 したがって祇園祭の本質とは、街に疫病をまき散らす悪神を、多種多様な芸能や歌舞を演じて喜ばせる名目とした。その後、難波の海まで送り出すことで祭は完遂したのである。

 平安時代から始まったとされる祇園御霊会は、はじめこそ簡素な祭りであったが、疫病を喜ばせることで罹患者が防ぐことができると信じられたため、時代が進むにつれ華美になり、ついには現代で見られるような豪華絢爛な山鉾や祇園囃子、または数々の芸能へと進化を遂げていったのである。




 大宰府に左遷された菅原すがわらの 道真みちざね藤原ふじわらの 広嗣ひろつぐらが御霊信仰とも結び付けられたのはあまりにも人口に膾炙かいしゃしている。

 全国の天満宮や菅原神社のように、学問の神である天神さまにお参りに行く理由は、菅公その人に由来している。


 神のパワーは絶対値で表されるという。

 マイナスに発現すれば祟り神(、、、)となる。しかしながらプラスに転じれば、一転福神となるのだ。


 崇りのエネルギーが大きければ大きい荒魂あらたまほど、和魂にきたまに変換されたときのパワーも強大となる。

 すなわち古来、祟り神として朝廷を恐怖のどん底に落とした天神こそ、御霊信仰で祭りあげられた神のなかでは、いちばん名の知れた花形といえよう。




 かつての民俗社会や都市社会における天神とは、いかなる存在だったのだろうか?

 人を稲妻で射殺いころし、家々を焼き尽くす怖い神に映ったはずだ。

 のみならず、雷にともなう長雨は不吉のしるし(、、、)だった。それは最終的に川をあふれさせ、疫病を蔓延させるからである。

 とくに都市での天神は、人々を震えあがらせる凶暴な荒魂の姿として映った。


 日本の神々は本来、祟るものであった。

 タタリ(、、、)の語源は神の顕現を表す『立ち有り(タツとアリの複合形)』が転訛したものだと折口 信夫は主張したものだ。

 感染症、飢饉、天災、その他の災厄すべてが神のなせる業であり、それを畏れ、鎮めて封じ込め、祭りあげる行為こそ神社祭祀の始まりとの説があるのだ。




 滔々(とうとう)とまくし立てる海道の演説を聞かされた長谷川 修だったが、なにがなんだかさっぱりだった。思わず白眼をむきそうになった。

 そうこうするうちに石段が迫った。

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