21.心の拘束
◆◆◆◆◆
護身用催涙スプレー缶が玄関扉のすぐ外に転がっている。
吹きさらしのなか、夜風で揺れていた。
密は世田谷のマンションの部屋から飛び出すなり、仮面の男に頸動脈を圧迫され、瞬時にして締め落とされてしまったのだった。
気を失う直前、封印していたはずの記憶が一気に呼び醒まされた。さながらパンドラの箱を開けたかのように。
まちがいない。
あの仮面こそ八歳のとき、秘儀『異人担ぎ』で犠牲となった若い男がつけていたのと同じ品だ。
ようやく意識が戻ってきた。
気づいたときには、部屋に入れられ、ベッドに横になっていたのだった。
まさか奇怪な恰好をした男にお姫さまだっこをされ、介抱されたのか? 考えただけで怖気をふるった。
「……あなたはいったい?」
密はうつろな声で聞き返した。
かたわらには赤い仮面で顔を隠し、蓑姿の男が佇んでいた。
フラワーショップ『rencontre』で働いているとき、付きまとっていた男と同一人物だろう。
半年のあいだひたすら監視を続け、ついに実力行使に出たのだ。
ドア越しに聞いた声は、きっと〆谷出身の人間にちがいない。
それもごく近しい人物ではないか。
記憶をまさぐった。
聞いたことのある乾いた声だ。
男は身をのり出し、赤い仮面を近づけてきた。密の視界いっぱいにそれが広がる。
それにしても不気味な仮面である。
もとは鮮やかな朱色だったのだろう。長い年月を経てあずき色に変色したらしい。
眼は目尻が吊りあがった楕円形の空洞。とても日本人をモデルとしたとは思えない高いわし鼻。口角のあがった口にはすき間があり、白い歯がずらりと並んでいた。
顔じゅうの皺まで再現され、まるで力んで、歯を食いしばっているように見えた。原始的な顔立ちだ。
「私だよ、密。神になれず、鬼になるしかなかった男だ」
仮面の男は赤子をあやすようにささやいた。
しかしその声は、井戸の深淵を覗いたことがあるかのように暗い。己の内なる心の深淵を。
やはり聞き憶えがあった。
それに独特な体臭がした。古書を開いたときの、カビ臭くもアーモンドのような独特な匂い。
〆谷にいたころ、この匂いを嗅いだことがある。
あれは夏祭りでのできごと――。
「まさか、あなたは――。海道さん?」
「そのまさかだよ、密。私だ」
赤い仮面をはずした。
現れたのはメガネをかけた海道 史郎の、のっぺりとした顔だった。
もちろんあのころよりも老けて見える。すっかり凶暴な牙が抜け、漂白したかのように青ざめていた。
疲れ果て、どこか諦めきった顔つきだった。
十八年前と変わらない点があるとすれば、冷淡な眼差しだけだ。
あまりの呪われた運命に密は打ちのめされる思いだった。
――やはり私は、〆谷の呪縛から脱することはできないのか。
ここで密は海道に催眠術をかけられた。
海道は心理学や脳科学にも精通し、催眠心理セラピストとしてのスキルをもそなえていたのだ。
その心の拘束はきつく、密は完全に我を忘れるほどだった。
海道はこう命じた。――婚約者、上條を〆谷へと導けと。そして秘儀『異人担ぎ』の神之助役へと祭りあげるべく、この仮面をかぶせさせるのだと。そのために、おまえも〆谷に帰れと洗脳した。
はじめこそ、密は支配されまいと逆らった。
強烈な暗示で精神をコントロールされていながらも、わずかに残った理性が、無関係な上條を巻き込むわけにはいかないと烈しく反発した。
どうすれば上條に被害が及ばないようにできるか?
みずから姿を消すしかない。
上條が捜しようがないほど、忽然と行方をくらますのだ。
そして彼に諦めさせよう……。
後ろ髪を引かれる思い。
なぜ烈しく愛し、愛されているのに離れ離れにならないといけないのか。
しかしながら数度目のデートのとき、故郷の名を洩らしてしまったことを思い出す。
彼がその情報を手がかりに、〆谷へ来ないとも限らない。
――私の方が諦めきれるわけがない。それほど彼に心奪われていたのに、いまさら孤独に戻るなんてできっこない!
上條こそ、味気ないモノクロームの世界に光を投げかけてくれた大切な人。
〆谷の暮らしが苦痛でせっかく飛び出し、ちっぽけながら安住の地を築いた。
自身のなかに潜む使命に眼を背け、現実逃避したのだから、その代償として誰とも係わらないと誓ったはずだった。
なのに、人は頑なに鎧をまとっていても、誰かに惹かれてしまうものだ。
そして求めてしまう。
独りでいる寂しさに耐えきれず、ぬくもりに手を伸ばそうとする。
せっかく届きかけた幸せ。
離したくない。離れたくない。
むしろ彼の行動力に賭けたい。
上條 充留なら追ってくる。
きっと捜し出し、救ってくれるのではないか。
彼ならどんな苦難にも立ち向かってくれるはずだ。
それにすがるしかない。
◆◆◆◆◆
密の抵抗はそこまでが精一杯だった。
その明くる日、フラワーショップ『rencontre』の店長に退職したい旨を伝えた。
その日のうちに辞めさせて欲しいと無理を言った。
いくら理由を問われようと彼女は拒んだ。
涙があふれ、どうしようもなかった。
店長は納得してくれた。
マンションに戻り、かんたんな荷物をまとめると、ネットで時刻表を調べ、特急に乗った。
わき目もふらず〆谷へ。
心の闇への回帰であった。
その後、しだいに故郷に近づくにつれ、密の催眠状態は深刻なものとなり、やがて精神は完全に乗っ取られた。




