20.神になれず、さりとて人間にも戻れず、鬼になった男
◆◆◆◆◆
封印された記憶。
十八年前の八月十二日。
あれは町村 密が八歳のときだった。
夏祭りはいつもの陽気な賑わいを見せていたのに、ひと段落したとたん、その年にかぎって秘儀『異人担ぎ』が行われる運びになった。
八歳の女児には知る由もなかったが、あらかじめ決められていたことだった。
いきなりだった。
幼い密の手は、誰かに引かれながら前に進んでいく。
小さな手を握る力は痛いほどだ。
いくら父親でもこんな乱暴な扱いはしまい。
その背中は明らかに別人だ。
見あげるばかりに背は高いが、片脚が不自由らしく、引きずるような歩き方をする。
少なくとも辰巳ではない。
なぜ見知らぬ男に連れられ、そしてどこへ向かおうというのか。
浴衣姿の見物客や観光客をかきわけながら、男の後ろ姿が泳いでいく。
時ならぬ空気の変調。
そこかしこで不安げなどよめきが起きる。
『異人担ぎ』とはなんなのか。あるいは、ついに秘儀を解く年がめぐってきたのかと、大人たちの情報交換がささやかれる。
出店が並ぶ通りをすぎた。
そのころには陽気な祭囃子も途絶えていた。
しばらく行くと、赤い法被姿の一団が立ち塞がっていた。
密は坂の上を見た。
公民館へ行かせまいと、この男たちはここで生きたバリケード役に徹しているのだ。
法被を着た男たちが口々に、こう叫んだ。
「ここから先は関係者以外立ち入り禁止だ! 祭りは終わりだ。さあ、帰った帰った!」
「おい、そこ! カメラ撮影なんかするんじゃねえ! 没収するからな!」
「見せ物じゃないんだよ。これからは〆谷だけの神事だ。あんたたちに参加する資格はない!」
見物客のなかにはスーツ姿や、ちゃんとした恰好の人物が何人かいた。
明らかに夏祭りを楽しむ層ではない。
彼らは法被姿の実行委員会の連中に食い下がった。
「そこをなんとか、秘儀とやらを見させてください。お願いします。学術研究のためにご協力を!」
「純粋に知りたいんです。あなた方の神事をこの眼で見学させていただきたい」
「私は大枚叩いてもいい。ぜひ『異人担ぎ』の秘密を検証させてくれ!」
密の手を引く男はその集団を突き飛ばし、法被姿たちの間に割って入った。
顔パスが利くらしく、むしろ実行委員会たちは会釈して、道をゆずったほどだ。
ここではじめて男はいま来た道をふり返った。
黒縁メガネをかけ、冷たい眼をした、起伏に欠ける人相だ。
年齢は幼い密にはわかりかねる。
少なくとも父、辰巳よりかは十は若い。――三十をすぎたばかりの海道 史郎だった。
「いつもながら、学者さんたちの熱意には恐れ入る。ごあいにくさま。これからは村外の人間は完全に締め出したうえでの神事となります。いっさい見ることも聞くことさえも固く禁じられているのです。カメラでの撮影はおろか、録音も許されない。なにとぞご理解のほどを」
冷たく言い放ち、皮肉っぽく唇をゆがめた。
ふたたびメガネの男は歩き出した。
密は無理やり海道に連れられ、公民館まであがった。
人だかり。
芝生を敷いた広場で異様な熱気がふくれあがり、見知った住民たちがなにかを取り囲んでいた。
「お」と、海道はその集まりの中心を見て、感嘆の声をあげた。「密ちゃん、見たまえ。あれだ。あれこそが秘儀『異人担ぎ』の神之助役であり、来訪神でもある異人だ」
海道が示したのが、まさに広場の中心にいた人物だった。
赤い仮面をかぶった男が、しきりに嫌々をするように首を振っている。
うずくまり、手を合わせ、許しを請うていた。
身体つきは男だ。それも若い。
白いワイシャツにブルージーンズ姿。仮面は強制的にかぶせられたという感が強い。
「よしてくれ! なんでおれはあんたらのご神体にならなきゃいけないんだ! こんなのは人権蹂躙だ!」
仮面の男は赤い法被姿の男につかみかかって訴えている。
仮面が口に密着しているせいで、くぐもった声だった。
それに、なぜか両脚が萎えているらしく、女の子座りしたまま抵抗していた。
住民たちは聞く耳を持たない。
八歳の密の眼には、ふしぎな光景に映った。
「密ちゃん、あの赤い仮面はね。〆谷の氏子総代の家系が保管してきた品物なんだ。ふだんは蔵のなかで眠っているんだが、こうして秘儀『異人担ぎ』のときだけ姿を見せる。その歴史は古く、一七八三(天明三)年のある殺害事件をきっかけに、一七八九(寛政元)年ころより本格的に始められるようになったんだ。あの仮面をつけることで――というより、つけさせることで、神を演じるどころか、神そのものになるというわけだ」
「もしかしてあの人、死んじゃうの? なんで、どうして? 悪いことしたようには見えないのに」
密はようやく抗議の態度を見せた。
なぜこんな理不尽な暴力の場面を見させるのか。思わず眼を背けたくなる眺めであった。
海道は密の目線にあわせるため、しゃがみ込んだ。
そして肩に手をかけ、こう言った。
「悪いことなんかしてないさ。彼はご縁があってこの村にやってきた。むしろあの仮面をかぶることは誇らしいことなんだよ。〆谷の名誉とも言える。神之助の分身となり、結果的に殺されるわけだが、代わりに神社の守り神となる。そしてあらゆる災いから救ってくるんだ。一定の期間限定だけどね。それでも私にとっちゃ羨ましい。むしろ、私があの役をやりたかったぐらいだ」
「殺されるの? 殺されて神さまにさせられるの? なんでそんな役を自分からやりたいと思うの? 意味わかんない。――だいいち、おじさんは誰?」
未熟な密ですら、海道の発言に鬼気迫るものを感じた。
祭りとは日常から逸脱したハレの行事である。
非日常ではなにがあってもふしぎではないのだ。たとえ理不尽な暴力が行われようとも。
それは小学二年生でも本能的に察することができた。
「私か?」と、海道は苦々しげに顔をゆがめた。そして暗い眼つきで仮面の男を見つめ、「神になれず、さりとて人間にも戻れず、鬼になるしかなかった男だ。私はこうして地元郷土史の研究をして憂さを晴らしているにすぎん。とりわけ秘儀『異人担ぎ』に関する研究に情熱を注いできた。私は生まれつき片脚が不自由だ。てっきりこれは、神之助が村人にかかって殺されるときに受けた怪我の象徴かと思っていた。つまり神之助に相当する聖痕かと。ところが当てがはずれたらしい。あの仮面をかぶった男だって、両脚が悪いというのにな。皮肉な話だよ」
「聖痕ってなに?」
「イエス・キリストは磔刑にされたとき、ついたとされる傷がある。ときおり同じ傷痕が、信者たちの身体に現れる奇蹟現象のことだ。私はイエスと一体化したい、もしくは神の代弁者、究極的には神の生まれ変わりだとまで飛躍する『しるし』のことだ。もっともこのケースは、熱烈な信仰心から来るらしいが。あいにく私の場合、『しるし』ではなかったわけだ」
「殺される役を自分からやりたいなんて、わけわかんない」
「世間は広いんだよ、密ちゃん。たとえ贄として死のうとも、〆谷のために、世界の中心のために命を捧げ、やがては明神として崇められるなら、私は本望だと思うんだ」と、海道は熱っぽい視線で密を真っ向から見据えて穏やかに語りかけた。「そして密ちゃん――君は先代である神之助と恋仲になったお民の生まれ変わりだ。研究の結果、そう答えが出た。君はいずれお民として甦るだろう。そのための通過儀礼のひとつとして、今日、『異人担ぎ』を目の当たりにするがいい。きっと君なら閃くものがあるはずだ」
そうして見せられた仮面の男の最期。
秘儀のあと、その遺体はどうなったのかわからない。
あまりにも八歳の女児には強烈すぎて、それ以降、密のなかで解離性健忘が生じ、記憶を封印してしまったほどだ。




