2.漂泊の上條
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上條 充留は元陸上選手だった。
高校時代はインターハイ神奈川大会と関東大会に出場。短距離走種目で一〇〇メートル、一〇秒六三をマークしたのを皮切りに、二〇〇メートル、四〇〇メートルをも制し、三冠を達成した。四×一〇〇メートルリレーでは三走をつとめ、二位に導いた。
さらにアジア競技大会においても、二〇〇メートルで銀メダル、一〇〇メートル、四×一〇〇メートルリレーでは金メダルを獲得。
その後も関東選手権を優勝、日本選手権リレーでは準優勝と実績を重ね、将来を嘱望されていた。
身体能力にかけては、子供のころから目を瞠るものがあった。父は文部科学省のある部署の局長をつとめ、家柄まで優れていた。
その矢先のことである。
練習中、アキレス腱を断裂した。くわえて慢性的な肉離れと靭帯の損傷。治療に二年の歳月をかけるも後遺症がたたり、選手生命を絶たれたも同然だった。
それでも上條は夢をあきらめきれなかった。二十四歳にして、すでに旬はすぎたと世間が酷評するのにも耳を貸さず……。
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リハビリをかねて練習をしたあとのロッカールーム。
たった一人で上條はパイプ椅子に腰かけ、うなだれていた。
沈痛な空気が落ちている。
部屋のドアが開き、ジャージ姿の米田が入ってきた。
上條に近づくなり、
「これでわかったろ。おまえはもうお払い箱なんだ。今日かぎりでコーチをおりさせてもらう。短い師弟関係だったな。腐らず、まっとうな社会人になれよ。お疲れさん――」
と言い残し、肩を叩くと部屋を出ていった。
これで決定的となった。上條は居場所を失った。
大学時代は関東学生陸上界の希望の星として持てはやされたのに、いざ怪我で引退を余儀なくされると、人々は手のひらを返したように見向きもしなくなる。
そのときから上條の漂泊がはじまっていた。
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失意のどん底にいた。
そんなときにめぐり会ったのが町村 密だった。
飲んだくれて自暴自棄になり、夜の街をさまよったあげく、突然の雨で避難するように入ったフラワーショップ『rencontre』。
彼女は店員として働いていたのだ。
「ずいぶん遅くまで営業してるもんなんだな、花屋さんって」
上條は酒臭い息を吐きながら言った。せっかくの一張羅がずぶ濡れだ。
平凡なサラリーマンに落ちぶれて二年が経っていた。かなり足どりが怪しい。棚に手をかけた拍子にインテリアのガラスの文鎮が落ちそうになり、あわててキャッチした。
「……ごめんな。まさかこんなどしゃ降りにあうなんて予想外だったんだ。弱まるまでいさせてくれないか」
「よろしいですよ。困ってる人は見すごせません。好きなだけいてください」白いワイシャツにエプロン姿が映える彼女は臆することなく明るい声で、「大切な記念日や季節のイベントのために、対応できるよう営業してるんです」
と、鬢にかかった髪のひと房をかきあげながら言った。
「大切な記念日」
「フラワーアレンジメントはもちろん、プレゼントしやすいカジュアルブーケや、記念日に最適なエレガントブーケのほか、アレンジメントのお花も用意してるんです。ほら、このへんっておしゃれなバーとかクラブが多いでしょ。お気に入りの女の子にって、男性の方がお求めになられたりするんです」
「なるほど。女性を口説くアイテムってわけ」
どうりで店先には豪華な胡蝶蘭や、フレッシュな原色のバラが所狭しと並べられていたわけだ。夜の華やかな商売をする女のために重宝するのかもしれない。
上條は人見知りする性分だったはずだった。
こうまで会話が弾むとは自身でも驚きだ。
女も顔を上気させ、眼を潤ませていた。
上條は別れ際、また来るからと言った。
約束どおり、三日後に『rencontre』を訪れた。
そのとき、上條自身にプレゼントする花を買うことにした。アスリートとしてひたすらトレーニングばかりしてきた。結果に結びつかなかったとはいえ、自身にも労をねぎらうべきだと思い立ったのだ。
上條の佇まいのイメージから見つくろってもらった。
密が選んだ花は黄色を基調とした、まばゆいばかりのフラワーアレンジメントだった。素人目にもいいセンスだと思った。
上條は人生に希望を求めていた。光明を表現したかのような鮮烈さ。人の心のすき間をうまく捉えているのではないか。
おたがい名前を教えあった。どちらかということなく電話番号を交換した。
ますます惹かれていった。
上條は大学に入って短距離走者として頂点のときこそ、パブリックなイメージとしては、『お堅い、ストイックな真面目一徹アスリートの鑑。それ以外は草食系』の人物だと評されていた。
じっさいそうだった。
その上條がはじめて攻めた。
密に近づこうと積極的になった。
週末にデートを重ねた。映画とカフェ、イタリアンレストランとバーでくつろぎ、おたがいの距離を縮めていった。
おたがい忙しい身だったので、毎週末は無理だったが、せめてひと月に二度は会った。
夢中になった。
いままで失意の沼地に沈んでいたのに、密のおかげで光あふれる水面まで浮上できそうだった。密と一緒でいられるなら、スプリンターとしての未練も断ち切ることができると思った。
交際して半年経ったころ、プロポーズをした。
行きつけのレストラン。食事の最中、エンゲージリングを送った。頭をさげ、なんのひねりもない言葉で結婚を迫った。
密の驚きようといったらなかった。
口を両手で隠し、うれしい悲鳴が洩れないようにする仕草が愛らしかった。
泣きながら頷いてくれた。
上條は思わず席を立ってまわり込み、人目も憚らず抱きしめた。抱きしめずにはいられなかった。
その夜、上條は初めて密と結ばれた。
ありったけの思いを彼女の中心に注いだ。
密は上條の腕に抱かれ、身体を反らせて乱れた。花屋で働いているときの、おしとやかな女とは別人のようだった。
上條はなんども愛を放った。
幸せの絶頂だった。
サラリーマンとして仕事をするのは苦役を強いられるに等しかったのに、いまでは街が華やいで見えた。
降り注ぐ光が上條を祝福しているかのようだった。
ありふれた恋。
無味乾燥な街で暮らしていて、コピーされたような出会いにちがいない。
それでも身を委ねてもいい。
この女とともに人生を歩んでいけるなら、夢をあきらめ、アスリートとしての敗残者の烙印を受け容れていいとさえ思った。
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そんなときだった――密が忽然と姿をくらませたのは。
フラワーショップ『rencontre』を訪ねると、店長が出てきて申し訳なさそうに頭をかいた。
三日前、彼女はいきなり退職してしまったという。
涙ぐみ、ひたすら首を振って事情を話さなかったそうだ。
その後の足どりはわからないという。
電話をかけてもつながらなくなった。メールも同じくダメだった。
なにも告げず、なぜ上條のもとから去ってしまったのか?
心当たりはない。彼女だって幸せの絶頂だったはずだ。そう信じたい。
ダリアが咲いたような笑顔が演技だったとは到底思えない。
こんなとき考えられるのは、独り身の女は実家に帰ることが確率的に高いのではないか。
複雑な悩みがあったにせよ、上條に頼らなかった。どんな理由で実家を離れたかわからないが、すがる相手は両親の可能性が高いような気がした。力になれないのは悔やまれるが……。
彼女の生まれ故郷は聞き出していた。
西日本の山間部にある田舎だと恥ずかしそうに言っていたのを思い出す。
それもはじめて聞くような変わった地名ではなかったか。
忘れもしない。
たしか、某県の紀伊山地を深く分け入った山村――〆谷集落だ。