19.上條、ふたたび罠にかかる
「そこにいるのは上條君だね。やっと見つけた」
町村家まで続くあぜ道の向こうで、渋く低い声がした。
上條は奴らに見つかったのかと思い、反射的に身を強ばらせた。
すでに夜目は利いている。それに満月も出ていた。
あぜ道の先で誰が立っているのか、すぐにわかった。
男のかたわらには小型のカートがあった。そこから長いチューブが伸び、鼻に挿入されている。眼だけが据わり、異様に光って見えた。
「町村……辰巳さん」
「やはりそうか。来るべくして、時は来たというわけだな。どうやら瀑布子が思ったとおりになった」強面の男はしゃがれた声を出して、不貞腐れた顔で横を向き、あごをしゃくった。下の〆谷川沿いが騒々しい。上條を捜し出そうと住民たちが躍起になっていた。「あんたが〆谷を訪れたばかりに、平穏な村はかき乱された。見たまえ、奴らのうろたえぶりを。じつに滑稽な眺めじゃないか」
「僕はあなたの娘さんの行方を追って、たまたまこの土地に来ただけです。好き好んで連中を刺激したつもりはない。僕だって、夏祭りの余興として生贄にされるだなんて心外も心外なんです」
「生贄。まさにそれだ。――おれの命も短かろう。はじめこそ、瀑布子や奴らのカルト教団じみた考えについていけなかったが、いまならわかる気がする。このうえにおいては宗旨替えせにゃなるまい。やはり奴らが言ってたとおり、あんたを秘儀『異人担ぎ』の神役に仕立て、事態をおさめなくてはならんようだ。悪いがここから先へは行かせん」
町村 辰巳が腕を広げて仁王立ちした。
携帯用酸素吸入器で呼吸する音だけが聞こえた。
上條とのあいだに緊張がみなぎる。
タックルすれば、いともたやすく辰巳に尻もちをつかせることができるだろう。
が、婚約者の実父であり、立っているのが精一杯といった様子だった。気力でここまで来たにちがいない。
手を出せるはずもなかった。
「なぜ? なぜあいつらに同調してしまうのですか? 神之助明神がどうかだとか、お民が密の生まれ変わりだとか、あなたは真に受けるつもりなんですか?」
「私の命も長くはないんだよ、上條君。わかるんだ。確実に死が迫りつつある。ならば、お民の父である元庄屋のおれも、己が使命を全うしなければなるまい。密は使命をやり遂げようと覚醒してしまった。とすれば、おれも娘をサポートしなきゃいけない。あんたが思ったとおり、密は自宅にいるが、会わせるわけにはいかないな」
「意味がわからない」
「神之助とお民の仲は引き裂かれ、二人の命はふたたびたがいを求めている。長きにわたり引き裂かれていたからこそ、災いがもたらされようとしているのだ。明日、密はお民としてあんたのまえに現れ、そしてあんたは神之助の代役に祭りあげられる。それで密の使命が完遂するならば、おれも悪党になろう。否応は言わせない」
「どうも〆谷の人間はどいつもこいつも、話が通じないらしい」と、上條はじりじりと後退した。すぐそばで海道の息遣いがする。「さぞかし有意義な夏祭りになるでしょうよ」
そのときだった。
背後から海道に肩をつかまれた。
首にチクリとした刺激があり、ひんやりとした液体が流し込まれた感覚があった。
次の瞬間、脊髄に鋭い痛みが電撃さながらに走った。
なにごとかとふり向いた。
「……いま、なにをした?」
暗がりのなかで、メガネをかけた海道の、のっぺりとした顔があった。
口をへの字に曲げ、顔の位置で注射器を掲げている。
押し子がいっぱいに押し込まれ、すでになんらかの薬剤が打たれたあとに見えた。
「上條君、ご苦労だった。あいにくだが君を〆谷から逃がすわけにはいかない。しばらくおとなしくしてもらう。心配するな、これは筋弛緩薬だ。用法用量は適正だよ。死にはしない」と、海道はさっきとは打って変わって静かな口調でまくし立てた。町村 辰巳とおなじく眼がいやに潤み、光っている。「私の演技もまんざらではなかったろう。君とともにかくれんぼしながら逃亡を計り、〆谷を取り巻く現状について順を追って説明したつもりだ。これで君が異人に祭りあげられる理由も、多少なりとも理解していただけたのではないかと思う」
「やっぱりあんたもグルだったのか……」
上條は首を押さえたまま、海道に迫った。
片方の腕を伸ばす。すでに薬が効き出したのか、冷え冷えとした感覚が急速に広がっていく。
町村 辰巳の声がうしろでした。
「その男――海道は寒川たちと同じだ。夏祭りの推進にかけては命を燃やしている。あんたはまんまと騙されたんだ。そんな熱烈な信者みたいなのを信じたのが失敗だったな」
「上條君、明日の午後六時から夏祭りがはじまる。とっておきのショーを楽しみにしてるよ。それまでぐっすり眠っておくといい。と言っても、スキサメトニウムを何度か投与して、夕方までおとなしくしてもらうつもりだが。くれぐれもアナフィラキシーショックを起こさないでくれたまえ。……ま、君ほどの異人たる身体能力をそなえた者なら、大丈夫のはずだ。君は先代から選ばれたのだから」
海道の声にエコーがつき、遠のくようだった。
絶望的な心境でそれを聞いた。視界はたちまち泥酔したかのように二重にだぶり、足もとがあやふやになった。すぐに眼の端から霞んでくる。
「よくも、やってくれたな――」
「敵を騙すには味方からと言うじゃないか。寒川らには内緒で、あえて君を神社の蔵から連れ出した。すべては君を陥れるためのお遊びにすぎなかったんだ。許したまえ」
ますます海道の姿がいくつにも分裂した。夏場の陽炎みたいにうねり出した。
脳髄が痺れていくようだ。
上條の四肢の自由を奪っていった。
怒りをもって近づいた。
が、意思に反して脚が前に出ない。もつれてよろけるだけだ。
立っているのもままならない。
当の海道は、さも愉快そうに薄い唇の端を吊りあげ、肩を揺すっている。
上條は白眼をむいた。
とたんに前のめりに倒れた。
意識が黒一色に閉ざされた。
またしても闇が上條を覆ってしまった。