13.御霊信仰と『揺り返し』現象について
こうして上條は海道の協力もあり、蔵から脱出することに成功した。
蔵そのものは〆谷神社の敷地内の一画にあり、恐らく寒川に襲われ意識を失ったあと、この建物のなかに運ばれたのであろう。
すでにあたりは夜の色が神社の様相を別なものに変えていた。
深海の底のように暗く、生命の息づかいは皆無だ。
拝殿、本殿ともに、灯りはついていない。星と満月だけが光源だ。
ためしに隠し扉がある本殿へ入ってみたい衝動にかられたが、海道に袖を引かれた。彼は首を横に振った。
「町村 密はいまはここにいない。社殿に忍び込んだところでどうにもならん。とにかく〆谷から出ることを最優先すべきだ。密のことについてはあとで話してやるから」
「あのとき、彼女が神社の隠し部屋から出てきたのか、気になるが……」
「グズグズしてる場合じゃないぞ、上條君。どうせ奴らのことだ。君が蔵のなかでおとなしくしてるか定期的に見まわりに来るかもしれん。ましてや夕飯を届けたさっきの実行委員会が帰らないとなると、様子を見に行かせることも想定しないといけない。遅かれ早かれ連中にバレる」
後ろ髪引かれる思いがしたが、上條はうなずき、海道に従った。たしかに直感的に密はいない気がした。
〆谷神社の参道を走り、石段のところまで来た。
鳥居の柱に手をかけ、眼下を見つめた。
公民館や町村家の屋敷がある東側の集落には灯りが点在しているのとは別に、川の上流にあたる集落の入り口さえも派手な色で赤々としていた。
公民館の外ではなにかが盛大に燃えていた。
なにが燃やされているか、ここからは遠すぎて識別できない。
数人の人間が炎を囲んでいるのが見える。
とてもキャンプファイヤーをして、住民がお祈りしているようには思えない。黒煙があがり、物々しい眺めだ。
上條と海道は、石段をくだることに集中した。
ろくに街灯もない急な勾配である。無我夢中で脚を交互にくり出した。
助けてくれた手前、言うのもためらわれたが、たちまち海道は遅れがちになった。えらく片脚を引きずりながら走っているのだ。
かたや上條は故障したとはいえ元アスリート。すぐ差が生じ、上條はうしろをふり返り、気をつかうはめになった。
察したらしく、海道が手で制した。
「私のことは気にするな。生まれつきハンディキャップがあるんだ。できるだけ、君の足は引っ張らないようにするから」
「なぜ僕を助けようとしてくれるんです? 見つかれば、あなただってとばっちりを受けるはずだ」
「これでも元は〆谷の住民だ。当然、秘儀『異人担ぎ』がどれほど暴力的なものか知っている。あんなものは断固阻止しなきゃならんのだ」
声をひそめて逃げているため、海道は多くを語らなかったが、少なくとも寒川や朝比奈とは異なり、常識人のようだ。上條にしてみれば、いまはこの男を信用する以外に手立てはない。
ようやく長い石段をくだりきり、河原に着いた。
幸い人影は見えない。
二人は腰をかがめて歩き、大きな岩の陰でしゃがんだ。
ひと息つくことにした。
「寒川やさっきの事務局長が口をそろえて言っていたように、秘儀『異人担ぎ』をやることで、破綻しかけていた〆谷のエネルギーを修復し、さらに活性化させることができる。その伸び方たるや、異人だった神之助の祟りを利用するわけだ。爆発的な飛躍を示すはずだ。――とにかく、連中はそう信じているんだ」
「意味がわからん」と、上條は片手で頭を抱えた。さっきの朝比奈の話を聞いた直後と同じく目まいがした。「〆谷の住民は特殊な宗教にでも入れ込んでるとしか思えない」
「閉じた世界では、人は思考すらも内向し、退化していくものだ。たしかに言われてみれば信仰に似ているかもしれんな。タチが悪いことに、狂信的なそれだ」
「人は生まれる場所が選べないから、気の毒としか言いようがないよ」
「お気づかい、痛み入る」と、海道 史郎はメガネを中指で正しながら言った。「とにかく――連中は神之助明神の怒りの矛先をかえ、それを守り神として転化させようとしている。だが、じっさいのところ、そうじゃない。神之助明神の怒りを恐れているんだ。転校生はなにかとイジメの対象になりがちなように、他とは異なるから出る杭は打たれるもんだろ。異端だから排除するばかりではない。同時に恐れもあるがため、それを叩こうとする心理が働くんだ」
「神之助明神。なぜ神之助という若者が殺され、しまいには来訪神にまで格上げになったっていうんだ。それに密がお民の生まれ変わりだとか、神之助とどういう関係だったんだ。ちっとも話が見えてこない」
上條は頭が混乱してきて、ヒステリックな悲鳴をあげたくなった。寒川に殴られた痕が疼く。すかさず海道は人差し指を立て、唇に当てた。
「ところで上條君、御霊信仰という言葉をご存知かね?」
「ごりょうしんこう?」
「御霊信仰とはつまりこうだ。――かつて民俗社会の人々は、人類を脅かす天災や感染症の発生を、怨みを飲んで死んだり、非業の死を遂げた者の怨念のしわざと見なしたんだ。怨霊の祟りを極度に恐れた。これを鎮めて『御霊』と祀りあげることで災いを防ぎ、平和に転換させようとする日本独自の信仰のことだ」
「なにを言ってるんだ?」
「古くは早良親王や崇徳天皇の怨霊伝説が知られている。崇徳天皇を筆頭に、菅原道真、平将門こそ、日本三大怨霊として、いまもでも畏怖されているのだ」
上條にとっては、なにがなんだかお手あげだった。
そんなことより、密の居場所と素性を知りたいのに、ことごとくはぐらかされているような気がした。
「秘儀『異人担ぎ』は、神之助が殺害された惨劇を再現したものだと朝比奈に聞いたな? 秘儀を行う意義は単にそれだけじゃない。過去の殺人を再現することで懺悔するにとどまらず、眠りについている神之助の霊を叩き起こし、その怨みのパワーをもって五穀豊穣、無病息災へ転化させるために行う」
小休止すれば上條の息は落ち着いていったが、早口でまくし立てる海道のそれは、むしろ過呼吸ぎみになっていった。持論を語り出すと、この男はひどく昂奮しがちになるようだ。
「土地の生産や村落共同体の活力には、確固たる円環式のサイクルが存在する。たとえば正月は単なるめでたい年の始まりの月ではない。一年のエネルギーを年の最初に更新しようとする大切な月なのだ。それを象徴する重要な事件が過去にあったとき、その事件を再現することによって、ふたたび活力を得ようとする願いが込められている。先人のいじましい生活の知恵じゃあないか」
「なんでいま、正月の話が出る?」
「まあ聞け」と、海道はさえぎった。「かつて村落共同体に、神そのものや、あるいは神をメタファーとする特別な人間、すなわち異人が訪れた。そして福を授けてくれたときのことを再現して、その圧倒的なエネルギーを呼び起こそうとしているのだ。『揺り返し』は必ず起きる。起きると信じ込まなければならない!」
「あんたはなにを言ってるんだ?」と、上條は噛みついた。「なにが『揺り返し』だ。秘儀を阻止するんじゃないのか? そんなことより、密の居場所を教えてくれ!」
上條の気迫に押され、海道もひるんだ。
「……すまない。いくら秘儀を否定しているとはいえ、これでも郷土史の研究に入れ込んでいるのでな。趣味の分野だ。つい、熱弁してしまった」海道はハンカチで額の汗を拭った。「そうだな。町村 密といちど接触する必要があるかもしれん。婚約を結んだと聞いた。たしかに彼女にひと言も告げず、〆谷を離れるのは辛かろう。元はと言えば彼女が仕組んだ罠ではあるが、二人きりで会えば騒ぎ立てることもあるまい」
「彼女がいまどこにいるんだ? なんとしても会いたい。そして洗脳されていたら、あらゆる手を使って解いてみせる」
「よし。だったら、めぼしい場所をあたってみよう。ついてきたまえ」
海道はそう言って立ちあがった。
上條もそれにならった。
砂利の浜を歩き、東側の集落へ続く吊り橋を渡った。