12.郷土史研究家の海道 史郎
年の暮れも近い寒い晩のこと。
物部村の某家に見知らぬ婆さまが訪ねてきて、こう言った。
「私の家のじいさんに餅をたらふく食べさせてくれないだろうか。食べさせてくれたら、この家を裕福にしてやるぞ」
「暮れじまいもろくにできない貧乏な家に、どうして他人にたらふく食わせる餅など搗けようか」
と、家族は思案したが、話し合いのすえ、せっかくだから餅を用意することにした。
また二十八日の晩に来てくれと言って、婆さまを帰すことにした。
婆さまは礼として、高きび(雑穀の一種)の穂を一束、家主に贈った。
そしていよいよ暮れも押し迫った約束の二十八日の晩。
折しも一人の爺さまが訪ねてきて、餅をねだった。このあいだの婆さまの夫にちがいない。
爺さまは用意していた餅をたいらげ、「来年もまた来るぞ」と言って、腹をさすりながら去っていった。
年が明け、播きつけのとき。
試しに、礼にもらった高きびの穂をまくと、これが大豊作になった。
翌年の暮れも、次の年の暮れも、同じ爺さまは訪ねてきては餅を腹一杯食べて帰っていくのをくり返した。
年月が経つにつれ、婆さまが言ったとおり、某家の暮らしは豊かになっていった。
ところがある年のこと。
暮れの忙しいときに訪ねてくる爺さまをうるさく思うようになった。
そこで二度と来られないように、この爺さまを殺してしまおう、ということになった。
いつものようにやってきた爺さまに、餅の形をした焼き石をすすめ、お茶だと偽って油を飲ませて、この爺さまを送り出した。
やがて、爺さまは身体が焼けはじめ、臼のような骨になってしまった。その場所をウスノクボという。
それ以来、某家の運が傾いた。暮れの二十八日は餅をつかないのを家訓とするようになった。
物部村での異人殺しの話
「神之助は天明二年の江戸時代に、村外から流れてきた青年だった。旅人だったそうですが、どういう事情で〆谷に流れ着いたかまでは定かではありません」と、朝比奈は辛抱強く言った。「あることがきっかけで、住民と諍いを起こしました。それで奇しくも盆踊りの日に、神之助は罠にはめられ、村人たちによってたかって殺されてしまったのです」
「どうせそんなところだと思った。ずいぶんひどいことをなさる。昔から〆谷の人たちはこうだったのですか? 野蛮すぎる」
「続きを聞いてください。古来より、共同体の外からやってきた特別な人、つまり異人という人種は、もてなされることも多かったが、一方で疎まれ排除される――つまり殺害されることもあったのです。むろん、殺してしまうのは極論であって、あくまでレアケースだったでしょうが」
「そんなの聞いたことがない」
「この神之助が殺害されてからなのです。〆谷で、よくないことが起きるようになりました」
「よくないこと?」
「感染症が流行したらしい。これも文献に記録されております。それにより、バタバタと住民は倒れ、なかには命を落とす者もいた……。しばらくもすれば、感染症はおさまったものの、こんどは天変地異が襲った。火山の噴火に飢饉。すなわち、歴史にその名をとどめる浅間山の大噴火と天明の大飢饉のことです」
「それが祟り。ハッキリ言ってあげましょう――単なる偶然が重なっただけでは?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。当時は自然災害や異変、疾病などは、すべて天罰論だとする考えが広まっていたと言います。災いは時の為政者による悪政や不道徳から、社会の退廃、堕落に対し、天が罰を与えるために災害をもたらすと考えられたとか。こういった考え方は、中国儒教の思想から来たものだそうです。日本においては奈良時代、聖武天皇の代で、藤原四兄妹が、西暦七三七年にそろって天然痘で死去したとき、この厄災説が唱えられていることで知られています」と、朝比奈は割れた茶碗のかけらを拾い集めながら言った。「それはともかく――神之助の場合も例外ではありませんでした。〆谷の主だった者が集まり、協議した結果、よもや神之助の魂が浮かばれぬので、災いを引き起こしているのではないかと考えるようになった。神之助は村外の者であると同時に、強力の持ち主であったと記録されております。まちがいなく異人の資質をそなえていたのです。特別な人間ゆえに、その霊力も強い。だからこそ、あらためて供養し、神として祀る必要があった」
「なにがなんだか、僕にとっちゃお手あげですね。聖武天皇やら神之助が異人だからとか、ついていけない」
寒川の言い分も狂気じみていたが、朝比奈のそれも負けず劣らずであった。誇大妄想で視野が狭くなっているとしか思えない。
これ以上、この男の話に付き合っている暇はない。一刻も早く町村 密と接触すべきだ。どんな理由があるにせよ、会わなくてはいけない。
そもそもなぜ密が秘儀に関わっているのか。なぜ上條を〆谷に導いたのか。それは彼女の意志なのか、それとも誰かにそそのかされたのか? すべて彼女の口から真実を聞きたいと切実に思った。
「なんにしたって、おとなしく神之助の替え玉にされるなんて、まっぴらごめんだ。あなたに悪いが、なんとしても出ていきます。そして密に会う。彼女を取り返してみせる」
「誤解しないでいただきたい。私たちはなにも、密お嬢さまを無理やり奪ったわけではないのです。彼女は、かつて神之助と縁のあったお民の生まれ変わりであり、その役目に目醒めたにすぎないのです」
「生まれ変わりだとか、そんなものが信じられるか!」
「ですから、みずから望んで〆谷へ帰ってこられた。あなたという特別な人間と結ばれ、そして導かれたのは、彼女の意志でもある。私たちがそうしろと命令したわけではないのです」
「すべて僕を陥れる罠だってか? 密と出会って婚約したのもか!」
「いずれにせよ、あなたは夏祭りの日、密お嬢さまと念願の再会を果たせます。それまでどうかこの蔵で待機を……」
「はい、そうですかって従うお人好しが、どこにいるっていうんだ!」
これ以上、この男と話し合っても埒が明かない。事態を好転させるよう取り計らうのは無理な話のようだ。
こうなったら強硬手段に出るしかあるまい。
上條は朝比奈に真っ向から挑みかかり、手のなかに隠し持っていた縄を使って首を絞めようとした。
朝比奈はそうはさせまいと防御した。
「あなたも往生際が悪い!」
「だろうよ! 選手時代だって、現役にしがみつこうとしたからな!」
床に転がって取っ組み合いになる。
朝比奈の首に縄を巻きつけようとしたが、ひざ蹴りを腹に食らい、上條は思わず両手を離してしまった。
なにせ足首が固定され、ふんばりが利かない。
倒れた拍子に、いましがた食事した盆に眼がいった。
とっさに皿をつかんだ。背中に隠し持った。
そして朝比奈をにらんだ。
「来いよ、朝比奈! おれが逃げれば寒川にどやされるんだろ。選手を引退したからって、逃げ足は速いぞ。おれの専売特許だ!」
と、寝転んだまま挑発した。
「どうもあなたは聞き分けの悪い人のようだ。運命を受け容れるべきです」と、さすがの理性的な男も頭に血が昇ったらしく、腰をかがめ、両手を突き出して迫った。「どうしても言うことが聞けないとなると、私も荒っぽいことをしなくちゃなりません!」
近づいてきたところを皿で殴りつけてやろうかと思った。
そのとき、開放していた戸口から別の誰かが忍び寄ってきた。
いつの間にか外は日が暮れていた。朝比奈の背後の者は真っ黒な影絵となっている。
角材を手にしていた。両開きの扉を外側から押さえつけていた閂の木材だろう。
男はそれを振りかぶった。
朝比奈の脳天に振りおろされた。
海辺のスイカ割りみたいな音が室内に響いた。
たちまちマリオネットの糸が断ち切れたかのように、その場に頽れる。
見る見る床に血だまりが広がった。表面張力により、盛りあがって見える。
朝比奈は白眼をむいて、痙攣している。
「こうするより他なかった」と、男は言い、角材を捨てた。返り血がついたわけではあるまいし、手のひらをワイシャツの裾で拭った。「上條君と言うらしいね。寒川から聞き出した。安心したまえ、私は味方だ」男は近づくなり、声をひそめて言った。
黒縁メガネをかけ、眼の下のたるみが目立つのっぺりとした表情の男だった。
年は五十前後で、髪に白いものが混じっている。額が広く、知性のひらめきを感じさせた。
「なんとか君の居場所を突きとめ、ここまで人目を忍んでやってきた。いま縄を解いてやるから、すぐに村から逃げるんだ。奴らにかかったら、秘儀に参加させられようがいまいが、君はどっちみち殺されるぞ」
「どなたか知らないけど、助けてくれたことに感謝します」と、足首の戒めをほどいてもらい、頭をさげた。「しかし、どうしてもわからない。なぜ部外者の僕が捕まり、秘儀とやらのご神体に選ばれなきゃいけないかってことです。密が絡んでるって言ってたけど、どこまでがほんとうなのか……。いったい〆谷の住民はどうなってるんですか?」
メガネの男は上條の肩を叩いた。そして力強い声で、
「君は町村 密の思惑にはめられたんだ。もとはと言えば、密が仕組んだ罠だ。すべて〆谷に連れてくるための方便にすぎなかったんだ」
「あんたまで密がだましたというのか。僕は納得しない。なぜこんなまわりくどいやり方をしてまで、ご神体にまでしようとするんです」
男は横たわった朝比奈の身体をまたぎ、上條の腕を引いた。
「とにかく、続きはあとでしてやるから。いまは逃げることに専念した方がいい。――ああ、私の名は海道 史郎と言います。元〆谷の住民で、道楽で郷土史の研究をしている者です。さ、一刻も早く、ここから出るんだ」