10.〆谷夏祭り実行委員会事務局長・朝比奈
昔の話である
いつしか閉伊郡山田の関口の岩窟なかに、どこから流れてきたのか大男が住むようになった。
桐の御紋のついた鍋などを持っていることから、地元の人は島の坊と呼んでいた。
あるとき、土地の男たちが、坊の留守中を見計らい岩窟へ入り込んだ。
そして鍋のなかに糞をひるなどの悪戯をしていった。
帰ってきた坊は、荒らされた岩窟を見て烈火のごとく怒った。
山田の町におりてきて、放火し、暴力のかぎりを尽してまわった。
このまま見すごすわけにはいかない。
役人が取り押さえるべく出向くと、坊は大きな棒を手にし、一枚歯の高足駄を履いて、町屋の屋根を自由自在に飛び歩いて逃げた。
その様子はさながら神のようであった。
けれども坊はついに捕らえられた。民衆のまえで撲り殺されてしまった。
坊の死後、異変が起きた。
浜ではすっかり不漁に見舞われたのだ。
誰言うことなく、怨みを飲んで死んだ坊の祟りではないかと噂するようになった。
そこで大島に葬った遺体を掘り起こし、大杉神社に移してこれを祀った。
のちに漁師の神としてあがめられたという。
岩手県下閉伊郡山田町の『島の坊伝説』
◆◆◆◆◆
ドラムスティックでブリキの一斗缶を連打したみたいな音を立てて、後頭部がひどく痛んだ。
闇の中で赤い波紋が広がっては消える。拍動とともに色がついては消えるのが痛みそのものだ。
意識がおぼろげに醒めては、夢と現の波間を漂い、ふたたびまどろむのをくり返した。
そのたびに上條は安堵する。
寒川になんらかの兇器で頭を殴られたものの、少なくとも命は落とさなかったようだ。
後遺症が残るようなことがなければいいが……。
おれの石頭もまんざら捨てたものじゃないな、と皮肉っぽく笑い、また気を失うのだった。
身体が休息を欲していた。
意識を取り戻したのは、あれから一昼夜経ってからのことだった。
もっとも、見当識障害を起こし、とくに時間の感覚はあやふやだった。
いまだ後頭部はズキズキと疼き、独立した部位のように腫れあがっているのがわかる。
これでは密に合わせる顔がない。
――密。
あのとき、本殿の隠し扉から現れたのは、まぎれもなく町村 密だった。
竹久 夢二の美人画を思わせる着物姿がいまでも瞼に焼き付いている。
――なぜだ?
せっかく上條と会えたのに、なんの感情も示さなかったのが気がかりだ。
心ここにあらずの顔をしていたのには、なにかわけがあるのか?
――そもそもここはどこだ? どこかの室内であることはまちがいなさそうだが……。
身体の自由が利かない。
後ろ手に縄で縛られ、うつ伏せの姿勢で寝かされているせいだ。足首も同様に縛められている。
口から流れ出た血で木の床に糊付けされていたらしい。
顔をあげると頬が引っ張られ、ペリペリと音を立てて、どうにか引きはがすことができた。
どこかの建物のなかのようだ。
やたらと大きな甕や、骨董品の類が雑然と置かれている。
部屋そのものは八畳ほどの広さだ。木の床が黒くて年季が入っているように、壁や天井も煤けた色の木でできていた。
ひとつだけ高窓があるが、鉄格子がはめられ、とても抜け出せそうにない。
身体が弱っているせいで、立ちあがる気力すらも沸かないのだ。
上條は腹這いのまま足の方を見た。
両開きの扉があった。
もちろん寒川のことだ、外側から施錠しているにちがいない。
解せないのは、なぜ寒川は上條を捕え、無理やりにでも夏祭りに参加させようとしているかだ。
十八年ぶりの秘儀がどうこうと言っていた。秘儀の主役として仕立てると。
なにがなんだかさっぱり理解できなかった。
そんなもののために生贄にされようというのか?
人権蹂躙も甚だしい。
唯一わかるのは、このままでは命の危険につながることだ。
なんとか警察に知らせ、助けにきてもらわないと……。
それに、寒川も然るべき裁きを与えなくてはならない。
後ろ手に縛られた状態で、デニムパンツの尻ポケットを探った。
口のなかで罵った。
やはり、スマートフォンは取りあげられている。それどころか財布まで一切合切だ。
上條はかたく眼を閉じ、これからどうすべきか考えた。
と、そのときだった。
両開きの扉の向こうで気配があった。ゴトゴトと木がぶつかり、地面に木材を落とした乾いた音が聞こえた。錠を解くそれが続いた。
扉がきしみを立てて開いた。
外は黄昏時だった。
いやに真っ赤な夕陽の色を背にし、これまた赤い法被姿の男がなにかを手にして入ってきた。
寒川ではないのはたしかだ。
年を取っているとはいえ、彫りが深く、上品な顔立ちの男だった。
盆を持っていた。上には白ご飯が盛られた茶碗と、簡素なおかずが並んだ皿。それとグラスに満たされた水。
上條は思わず喉を鳴らした。猛烈な渇きを憶えていた。
男は上條が意識を回復させていることに気づくと、片方の眉をあげ、
「……やれやれよかった。寒川代表が、やりすぎたのではないか、もしかしたら植物状態になるかもしれないと心配されていましたが、意識が戻ったようでなによりです」と、落ちついた口調で声で言った。「あなたはちょうどまる一日眠っていたことになる。明日が来たる〆谷夏祭り。せめて夕食を置いておこうと伺ったのですが、うまいタイミングで目醒めてもらい、私としては好都合ですね」
「あなたは? その恰好からして、寒川の取り巻きかなにかですか?」
上條は顔だけあげたまま声をしぼり出した。
男をよく見ようと、身体をよじり、位置をかえた。
「私は〆谷夏祭り実行委員会事務局長の朝比奈と申します。寒川代表の下の役職と言いましょうか。もっとも、〆谷出身の者で構成された実行委員会も、しょせんは井の中の蛙の組織。なにを偉そうに振る舞えましょう。あくまで形だけの肩書にすぎません。こう見えて、ふだんは奈良市に住み、服飾業の店を経営しているんです。寒川の場合は〆谷ひと筋のようですが」
「でしょうね。〆谷の住民だけでやりくりしていくのは限界があるでしょうから。とにかく餌を食わせてもらえないでしょうか。さすがに力が入らない。そのためには縄を解いて欲しいんだが――どうせダメなんでしょ?」
「餌だなんて、とんでもない。これでも上條さんをもてなしているつもりです」と、朝比奈という男は盆をそばに置いて言った。年齢は六十前後だろう。所作すらも品があった。「よろしいです。せめて手首の縄は解きます。ですが、足首は無理です。あなたに逃亡されるようなことがあれば、寒川代表にお叱りを受けますから。あなたには明日の秘儀『異人担ぎ』にぜひとも参加してもらわないといけない」
「逃げやしない。そこらじゅう身体が痛むんです」と、上條は呻きながらこぼした。「夏祭りの余興に秘儀とか……。この村じゃ、観光客を拉致監禁しては、そんなことをさせるのがまかり通るんですか? 事が発覚すれば、世間から叩かれまくるでしょうに」
「それについては、一から説明いたしましょう。どうもあなたは寒川が正気じゃないと思われているようなので、私から話した方がいいかもしれません。それにあの人も血気盛んな方だ。つい熱くなり、我を忘れてしまうのが玉に瑕です。その点、私なら順を追って冷静に話すことができますし、あなたにとってもわかりやすいのではないでしょうか」と言いながら、上條の背後にまわり、手首の縄を解いた。
「どうだか。内容によりけりです」
上條は朝比奈に支えられ、やっとのことで上半身を起こした。
自由になった手首をさすった。血流が悪くなっていたらしく、心なしか色が悪い。
その手で足首の縄を解くこともできないわけではなかった。しかしそれ以上に身体が悲鳴をあげていた。
逃げたところで、さすがの元スプリンターの上條の脚力をもってして、相手に取り押さえられるのは目に見えている。
ようやくグラスの水に手をつけ、ひと息に空けた。
喉を湿すと、たちまち食欲が沸いた。
箸をつかみ、茶碗を手もとに引き寄せ、がっついた。
「だったら、わけを説明してください。飯を食べながらでよろしければの話ですが」
「わかりました。あなたもエネルギーを欲していらしゃる。食べるのに専念してください。その間、私が事情を話しましょう」