*8*
マルグレーテは驚愕する。入場してきたのは、銀糸金糸の二人組である。貴族の青年と警護従者。
「ザグ……レブ……」
マルグレーテは、その名を思わず口にしていた。隣のカイザルが訝しげにマルグレーテを見る。マルグレーテはその視線に気づかない。それほど、瞳はザグレブを一心に見続けていた。
そのザグレブの瞳が、マルグレーテを捉えた。獲物を捉えた瞳は、マルグレーテを射抜く。マルグレーテは全身に稲妻のような痺れが走った。ーー捉えられた。いいえ、捕らえられた。違う! 捕らわれた。そうマルグレーテは答えに辿り着く。ザグレブの瞳はまだマルグレーテを離れない。
マルグレーテは奮起した。負けられないと心の芯が立つ。ここで、彼らにかしずくことは、マルグレーテにあらず。マルグレーテは射抜くザグレブの瞳に、挑戦的な眼差しを返した。それでこそマルグレーテであり、そのマルグレーテであるからこそ、ザグレブは惹かれる。
その時、
「王が選んだ者が王妃となる!」
先王がそう声を響かせた。ザグレブはニヤリと笑ってから、視線を先王と青年に戻した。マルグレーテの瞳は尚も二人を追う。先王に促されて、二人は段上を下り会場を回り始めた。銀糸の王の後ろを金糸の警護騎士であろうザグレブが続く。先王は、楽団の横の椅子に座りしばし休息するようだ。それほど、先王の体力は奪われていた。
最初に銀糸の王が声をかけたのはホマーニ侯爵の娘だ。ホマーニ侯爵は嬉々として、王と接している。親しい間柄と周りにアピールし、牽制をしている。
マルグレーテは視線を先王に向けた。先王もマルグレーテの方を見ている。マルグレーテはハッとし、軽く膝を折り挨拶した。頭を上げると、先王はうんうんと頷いている。
「マル、ちょっと来い」
そこで、カイザルがマルグレーテに声をかけた。二人はバルコニーへと移動する。マルグレーテはその時やっと体の力を落とした。
「マル、寒くはないか?」
冬直前の外の空気が、マルグレーテを覆う。しかし、マルグレーテは熱気溢れる会場にいたせいか、そこまで寒さは感じなかった。いや、熱さは内から溢れている。マルグレーテは、両頬を両手で挟みはあと息を吐き出した。白く煙る息が闇夜に浮かぶ。
「マル、俺は先王様に接触する。お前は現帝国王様を探れ。ホマーニに毒されていなければいいのだが」
「それはないわ。お兄様」
マルグレーテは即座に答えた。ホマーニ侯爵に毒されているなら、すでに闇市は壊滅されていただろう。
「立志していただけるか、それとも逃げたいか……いや、豪華な生活を半年間も続ければ、人は変わるだろう。ここで、安穏と生活することになれてしまえば、逃げることもせず、立志するなど考えも及ばないかもな」
「……お兄様、彼らはたぶん逃げたいはずよ」
マルグレーテは今までの二人の行動の意味をやっと理解した。この王都を半年間調べたのだろう。どのように逃亡するかの下調べをしていたと、マルグレーテは思う。安穏と生活したいなら、王城を秘密裏に脱走したりはしないはずだ。ずっと長い間庶民として育ってきた者が、王都の現状を見たとて立志しようとは思わないだろう。ホマーニ侯爵が王城や王都を掌握している現状を、胸くそ悪い貴族だなと思う程度だ。さっさと、おさらばして自由を得たいと思うのが普通ではないか。
「マル、知り合いか?」
カイザルはマルグレーテの返答に、そう問わざるをえない。
「お兄様……」
マルグレーテの言葉は続かなかった。ザグレブはマルグレーテに正式に申し込んでもいない。マルグレーテとて、返答はいつも蹴りで返している。それより何より、マルグレーテは彼らを王と警護騎士だと知ってはいなかった。知り合うはずのない彼らとマルグレーテの現状を、カイザルに説明するには時間が足りない。説明もあやふやになってしまう。
「お兄様、私が探りますわ。ええ、予定通りにいきましょう」
カイザルの問いへの返答にはならなかった。マルグレーテが今出来ることはそれだけだ。逃げたいのなら、逃がす手はずを。立志するなら、裏で手を回す。ホマーニに毒されているなら、別の手段を。直系は居らずとも、血族はいるのだから。
マルグレーテは、夜会に来る前の自身を内心で嘲笑った。カイザルへの返答など意味もないことだ。何を浮かれていたのだろうと、マルグレーテは自身に失笑を送ったのだった。
「失礼、良いかな?」
マルグレーテとカイザルの背後からである。銀糸の王は、初めて会った時のように穏やかに笑んでいた。そして、ザグレブもまた初めて会った時のように、不機嫌であった。
「やあやあ、これはこれは、何と光栄なことか!」
カイザルはいつもの脳筋ぶりを発揮する。
「マルグレーテ、お前の親愛なる兄は退散しよう。後は若い者同士で」
あまりにあからさまな退散であったが、それも集団お見合いのひとこまとも言える。カイザルのその足は先王に向かうだろう。マルグレーテは、カイザルを見送った。
「名乗っても良いかな?」
銀糸の王は、茶目っ気たっぷりの声で発する。マルグレーテはちらりとザグレブを見た。彼にはすでに名乗っている。そして、高慢な……いや、恥ずかしい台詞も吐いている。『私の手の甲にキスできるのは、きっと王様だけになりましょう』などという台詞を。
「いいえ、必要はありませんわ。名乗るよりも、どうぞ『口づけ』を」
マルグレーテは挑戦的に言い放った。銀糸の王に対してではない。ザグレブに対してだ。あの台詞が嘘偽りないことを見せつけようと。銀糸の王に、手の甲を差し出した。
銀糸の王の背後で、ザグレブはマルグレーテを睨み付けていた。
「ムカつくやつだ」
ザグレブはそう言ってマルグレーテの差し出した手を掴んだ。掴むだけではなく、強引に引っ張る。マルグレーテの体はザグレブへと倒れこんだ。
「言ったはずだ。お前は俺の腕の中で囲われろと」
マルグレーテは今度も硬直した。しかし、前回と違いすぐに気を取り戻す。
「逃げるあなた方と、私が共にあることは今後もありませんわ。私は、ジャンテ帝国を……ルモン家として背負い支える責がありますゆえ」
マルグレーテは、ザグレブの胸をソッと押した。今のマルグレーテは王と騎士を探るルモン家の娘マルグレーテである。逃げるのでしょ? そう訊いた。だが、果たしてそれはどちらのマルグレーテの気持ちであったのだろうか。マルグレーテ自身、その渦を認識している。体が離れても、ザグレブの手は離れていない。この手も振り払わねばならぬのに、マルグレーテはそうしなかった。
「マルグレーテ、顔を上げろ」
ザグレブの言葉で、マルグレーテは自身がうつむいていたことを自覚する。その瞳は、マルグレーテの手を掴むザグレブの手にあった。マルグレーテは小さく息を吐き出した。そして、やっとその手を振り払う。
「先日も申しましたのに、覚えておられませんのね。未婚の令嬢に触れていいのは、夜会かエスコートだけですわ。夜会であってもこのように触れるなど、あってはならぬこと」
「触れていいのは、もうひとつあるだろう」
ザグレブは再度マルグレーテを腕に囲った。
「婚約者なら、いいのではないか?」
マルグレーテの耳元で囁いた。
「だから! 逃げるあなた方についていかないわ!」
「逃げねえよ。ジャンテを背負ってやる」
マルグレーテは頭の中が一瞬真っ白になった。そして、体に熱がこもっていく。簡単に、そんな簡単に言う言葉ではない。ゼッペルやカイザル、マルグレーテが汗水垂らして背負ってきた責が、たとえ王の血筋やその騎士であろうと、簡単に言えるほど軽いことではないのだ。
「……背負って、やる?」
「ああ、安心しろ。お前は俺の腕に」
「そんな甘いもんじゃないわよ!」
マルグレーテの拳がザグレブの鳩尾に入る。ザグレブはゴフッと咳き込んで、腹を押さえた。
「逃げ出そうとしてたあんたらが、ジャンテを背負う? ふざけてんの? ねえ、ふざけてんの? じゃあ、やってみなさいよ! 立志するんなら、全身全霊でやりなさいよ! どうせ、美味しいご飯食べられて、綺麗な服着れて、ふかふかベッドで寝られるからって理由でしょ」
「ちげーよ! 飯も服もベッドもいらねえよ。欲しいのはお前だ、マルグレーテ・ルモン!」
ザグレブは意思を持った瞳をマルグレーテに向けた。その熱に、射抜く熱い瞳にマルグレーテは怯む。
「ああ、そうだ。欲しいのはお前だけ。だから、ここに残る。お前のその高みまで追い付いてやる。全身全霊でだ!」
マルグレーテはよろめいた。あまりに真っ直ぐなザグレブの言葉に、マルグレーテはよろめく。それほどの力があった。
よろめいたマルグレーテを銀糸の王が支えようと手を出す。しかし、ザグレブはそれを許さなかった。
「触るな! シーバル」
このとき、初めてマルグレーテは銀糸の王の名を知った。
次話金曜更新予定です。