*19*
ザグレブは宣言通りに敵を蹴散らせ、勝敗が決まるや否やバッガル領に向けて駆け出した。後は任せたとコロナ領主の公爵と老将らに言うのも忘れてはいない。
もちろん、ゼッペルとカイザルは王ザグレブの背を追う。いや、マルグレーテの元へと向かうのは、肉親ならなおさらだ。
ザグレブの腕はマルグレーテを欲する。その熱は尽きない。その頃、バッガル領では……
「ねえ、コッペル」
マルグレーテは困惑しているコッペルを呼ぶ。
「あなた、乳絞りもできないの?」
いや、普通できないから。普通の貴族は出来ないとかじゃなく、やらないから。そんなことを内心思いながら、コッペルはマルグレーテと共に乳絞りをしている。もちろん、シーバルも。……ゲルハルトも、ガンツもである。
チェチェ村で滞っていた乳絞りの最中である。男手を全てジャンテ侵略隊に召集されたため、牛らの乳はパンパンに張っている。皆が総出で乳絞りに当たっていた。
「まさか、奪った地で最初の仕事が乳絞りとは……」
コッペルはそう呟いた。
村民らは、おそれ多くも乳絞りを手伝う貴族らに恐縮ぎみだ。
「あのぉ、後は儂らでやりますので……」
マルグレーテは村民にニッコリと笑顔を向ける。
「駄目」
茶目っ気たっぷりに答える。
「だって、ゲルハルト将軍はここを治めるのよ。畜産がどういうものか身をもって知ってもらわねば。それに……ここのミルク濃いから、お菓子作りに最適な気がするの。コッペルの輸送手段を使って王都に運びたいし」
ゲルハルトやコッペルは、マルグレーテを見つめる。その熱視線にマルグレーテは顔をひきつらせた。
「な、何よ!」
「いや、感動して」
コッペルは呟いた。ゲルハルトは頷き唸っている。悪い唸りではない。感嘆と納得の反応だ。
その時、他の牛舎が騒がしくなる。マルグレーテらは敵の襲来かと俊敏に動いた。
「どうしたの⁉」
「お産がはじまったんでさあ」
バタバタと村民が動くなか、ゲルハルトやコッペル、ガンツはホッとした。しかし、マルグレーテは違う。
「行くわよ!」
皆が『えっ?』と驚く。だが、マルグレーテに続く。マルグレーテにはその引力があるのだ。
子牛の足を引っ張って、取り上げたのはゲルハルトである。もちろん、皆交代で引っ張った。全員が血だらけだ。
「皆、聞いて! 新しい領主のゲルハルト将軍よ。皆と共に歩むご領主よ。チェチェ村は新しく生まれたわ! この子牛の誕生のように、新しく始まるの! ジャンテ帝国一番の乳牛領になりましょう!」
マルグレーテの声が高らかに響いた。チェチェ村の村民らが歓声を上げる。
「新しいご領主様バンザーイ!」
「ジャンテ帝国バンザーイ!」
村民らの嬉しそうな声に、ゲルハルトは手を上げ応える。だが、内心は不安である。寝返った人間をそのまま国境の地に留め、治めさせることをジャンテ帝国の新しい王は認めるのかと。
『マルグレーテ様、帝国王様の了承も得ず私がこの領地を任されることができましょうか?』
ゲルハルトは小声でマルグレーテに問うた。マルグレーテはキョトンとしている。
「あら、私まだ言っていなかったかしら?」
マルグレーテはこの地へ赴いてからのことを思い出していた。そう言えば言っていなかったかもと、マルグレーテは気づく。
「私、ジャンテ帝国次期王妃ですの」
「はっ? え、はいぃ?」
ゲルハルトは驚愕し、声を紡げない。女将軍であるとマルグレーテを思っていたのだ。マルグレーテはクスクス笑っている。
「他領ルクア奪還をしている王様と競争中なの。私の方が先に勝利すると豪語しちゃったわ。実際そうだけど。『私をその腕で囲いたいなら、さっさと勝利し援軍を寄越せって』ここは、この西方は私の管轄よ。だから、ゲルハルト将軍おわかりね?」
ゲルハルトはマルグレーテに膝を折る。次期王妃だからでなく、自身が忠誠を誓う者として。
「次期王妃マルグレーテ様! 一生お仕え致します!」
その発言に村民も驚く。ゲルハルトと同じように、膝を地に着けた。マルグレーテは、しかめっ面だ。
「やめてよ。私は同じ目線でありたいのに! ジャンテの民と同じ目線こそ帝国の姿が鮮明に見えるのです。だから、ゲルハルト将軍にも民と同じことをしてもらったのよ。仕えるのは、私じゃなくジャンテの民……この領地の民だわ。皆の頭頂部を見たって楽しくないわ。笑顔が見たいのだもの」
この場にいた誰もが、マルグレーテの言葉に胸を震わせた。当の本人はその事には全く気づいていない。マルグレーテにとって、当たり前の発言であったから。いや、ルモン家にとってそれは通常であるのだ。
「ほんとに、大袈裟だわ。さあ、皆行きましょう。あまり大勢いたら母牛も子牛も落ち着かないわよ」
マルグレーテらは牛舎を出た。チェチェ村の民たちは、マルグレーテらを取り囲んでいる。皆、笑顔だ。
「あれ?」
シーバルが遠くの土煙に気づく。凄まじい勢いで近づいてきている。
「まあまあね」
マルグレーテはその土煙が誰であるのか理解している。
「まあまあ、早かったかも。……あら? 父上も一緒みたい」
土煙の中の人影がはっきりしてくる。
「皆さん、先頭は王ザグレブ様。左右にマルグレーテ様のお父上ゼッペル・ルモン伯爵様と兄上カイザル様です」
コッペルがゲルハルトらに教える。マルグレーテ以外は膝をついて出迎えた。
マルグレーテは三人の険しい顔に眉をひそめた。
「マルグレーテ‼」
「マルグレーテ‼」
「……」
緊迫したザグレブとカイザルの声。マルグレーテと同じように眉をひそめるゼッペルが、馬から下りて駆け寄ってくる。
「くそっ! 何があった⁉ 軍医はどこだ⁉」
カイザルは荒げた声を出し、マルグレーテに迫る。その手がマルグレーテの頬に触れる寸前、がしりと止めたのはザグレブの手だ。
「俺が診る!」
カイザルの返答を待たずして、ザグレブはマルグレーテを抱えた。マルグレーテは突如のことで吃驚し声も出ない。
「牛舎を借りるぞ。女医を連れてこい!」
コッペル、シーバル、ゲルハルト、ガンツ、皆が固まっている。いち早く反応したのはこの四人ではない。
「ねえ、たぶん血まみれだから、勘違いしたんじゃない?」
ケインがぼそりと呟いた。その瞬間、四人は瞬時に立ち上がり、声を響かせる。
「この血は牛のお産の血です! マルグレーテ様にお怪我はありません!」
シーンと静まる中、牛が『もおぉぉ』と鳴く。誰も一歩を踏み出せぬ状況で、瞳はマルグレーテが連れ込まれた牛舎に移る。カイザルは、血まみれのマルグレーテを見た時以上に真っ青だ。
バッチーンッ
盛大な平手打ちの音が、牛の鳴き声の合間で聞こえてきたのだった。
つまり、
牛舎の中では……
ザグレブの太い腕はマルグレーテを優しく包んでいる。マルグレーテは牛舎に入り、やっと状況を理解した。といっても、ザグレブの勘違いについては理解していない。
「下ろして!」
マルグレーテは暴れるも、ザグレブのがっちりした包み込みの中でうごめく程度だ。
「動くな。俺が診てやる」
「はあぁ?」
マルグレーテはザグレブの言葉の意味がわからない。藁の上にそっと下ろされたマルグレーテは、間近のザグレブの顔に視線をずらす。しかし、その隙がザグレブに次なる行動をとらせた。
ザグレブはおもむろに、マルグレーテの胸もとをさらそうと、衣服に手をかけた。
「ちょーっと! 何するのよ⁉」
「気にするな。俺が(怪我を)診てやる」
マルグレーテの胸もとがはだけた。ザグレブの手が牛のお産の血を拭う。マルグレーテがビクンと反応する。
「ここ(が痛いの)か?」
マルグレーテの肌を滑るザグレブの手は、次第に胸もとから下降していく。
「や、やめて!」
「痛くはしない。動くな(傷が開く)」
マルグレーテの体は、ザグレブの両足によって固定されている。それでも、マルグレーテは抗った。バタバタと足を動かす。マルグレーテにとって貞操の危機である。ザグレブにとっては全く意味が違うのだが、言葉足らずがこの状況に拍車をかけた。
マルグレーテは、涙目になりながらもザグレブを睨んだ。
「誰があんたなんかの腕の中に囲われるものですか‼ こんの獣め‼」
バッチーンッ
というわけで、ザグレブは頬にくっきりと手形をつけて牛舎を追われる。平手打ちと同時に入ってきたゼッペルに首根っこを掴まれ引きずられて。もちろん、マルグレーテの血まみれの理由も教えられて。
次話日曜更新予定です。