*16*
「ケイン」
ケインを呼び、剣を預ける。マルグレーテはケインの方をいっさい振り返らずに行っている。マルグレーテとケインの阿吽の呼吸である。剣を預けたマルグレーテは、その手をケインの方に向けたままだ。その手に、ケインからある物が渡された。
マルグレーテは、それを風にはためかせる。
「あなた方の国では、契りの証を互いに持つそうね。男は女から刺繍入りのハンカチを。女は男から誓いの言葉を記した長いリボンを。ハンカチは戦地に赴く際に、手首に巻かれる。リボンは、契りを失うことのないよう……自害出来るように」
はためいているのは、リボンだ。ゲルハルトが妻に渡した物。長いリボンは首を絞めるため。昔から続く儀式である。もしもの時、夫以外に身を遊ばれることのないように。
「なぜ……それを?」
ゲルハルトの声は掠れている。
「使われる寸前で、奪ったからよ!」
マルグレーテは叫んだ後、ゲルハルトに詰め寄る。
「何が保護するよ! 何が家族を守るよ! あなた方の敬愛する王は言っていたそうよ。『愛する者を死地に向かわせて、寂しい思いをしているだろうから、王である我がこの身で慰めよう』ってね! ばっかじゃないの! ねえ、わかってて妻を、家族を置いてきたのでしょ? バッガル領を迅速に奪い、王都に戻れば間に合うって? あなた方が出立した翌日には……もう寝所に」
「馬鹿な!」
ゲルハルトはマルグレーテの詰め寄りに、心情をあらわにした。その顔は困惑と怒り、定まらない感情が入り乱れている。
マルグレーテはリボンを差し出す。
「もう一度言うわ。使われる前に奪ったわ。リボンも、あなたの妻もね」
ゲルハルトの手にリボンが渡る。
『一生の誓いと契りをーーゲルハルト』
リボンには、ゲルハルトの記した文字。それに続くように……
『あなた以外に身を捧げていません。ジャンテ、ルモン家の者に救われましたーールーシェ』
ゲルハルトはリボンを握りしめる。
「き、貴様! 将軍、敵の甘言に惑わされてはなりません!」
武将が喚き出した。
マルグレーテはチラリと一瞥する。それを合図に、今まで黙していたもうひとりの武将が、瞬時に動く。ルモン家の間者だ。
「静かにしてください」
間者である武将は、喚く武将に一撃を食らわせた。
「ゴフッ……なぜだ……ガンツ」
「俺の敵は老害色ボケ王なんでね」
気を失い、踞る武将にガンツは答えた。
突然の出来事に、ゲルハルトのみならずコッペルも茫然としている。しかし、ゲルハルトはすぐにガンツと距離を置く。今、この場でゲルハルトはひとりとなったためだ。
「ガンツ、お前は」
「俺の姉が死んだのは、事故死じゃない。自害だ、ゲルハルト」
ゲルハルトは今までになく驚愕の顔をさらした。
「理由は……」
ガンツは悔しそうに、泣きそうに、さらに怒りを込めた顔をゲルハルトに向けた。
「ガンツ、それ以上言葉にしなくてもいいわ」
マルグレーテはそう言うと、ゲルハルトを見た。
「ゲルハルト将軍、ガンツに最後まで言わせたくって?」
「いや……」
ゲルハルトはガンツに視線を送った後に、リボンを見る。気持ちは固まったようだ。気を失った将軍をチラリと見る。
「その者は、老害色ボケ王の密偵よ。あなた方の動きを監視するためのね。……ゲルハルト将軍の妻にずいぶんご執着のようよ、色ボケ王は。ずっと狙っていたのでしょうね。出来るだけ戦を長引かせ、ゲルハルト将軍の犠牲の元に勝利し領土を拡大する。土地と狙う女性と、勝利で民の信望さえも手に取ろうとしたってわけ。もちろん、ゲルハルト将軍の犠牲は、この者が手を下す予定だったのよ」
マルグレーテは、そう言うとコッペルに縄で拘束するように指示する。
ゲルハルトは定まらぬ視線をマルグレーテに向けた。
「私は、どうしたらいい?」
「簡単よ。ここバッガル領で奥樣と仲睦まじく過ごせばいいわ。この領を守ってくれたらいいのですわ」
マルグレーテは軽やかに発した。言葉は続く。
「願わくば、敵国領土を拝借したいわね。ジャンテの王に献上したいでしょ。数日、いえ明日にも王様はこちらに向かうはずだから……猶予は四日ぐらいかしら? 確か、この高地の向こう側の小さな村は」
「チェチェ村ですね」
ガンツはニヤリと笑んだ。それから気を失った武将に足を置く。
「こやつの領地です。村民は、こやつの横暴に苦しんでおりますから、きっとジャンテにつくでしょう。ゲルハルトが治めるならば」
マルグレーテは頷く。
「先ずは、ゲルハルト将軍、奥様とお会いになって。ガンツは兵の統率を」
「兵士は王都に家族を置いてきている。早々にジャンテにはつかぬだろう」
マルグレーテの発言に、ゲルハルトがそう反応した。マルグレーテはニヤリと笑う。
「私、あなたの家族をとは言っていないわ。あなた方の家族をと言ったのよ。あなたの配下で隊を統率する長は五名。すでに国境警備隊のガンツは、この地に家族を移しているわ。ガンツを抜かした四名の家族も、もちろん保護しているの。それに、大半がチェチェ村と近郊貧しい領の兵士でしょ。ガンツがすでにまとめあげているわ。王都から連れてきた兵士は百名ぐらいよね。あなたに忠実なる百名。あなたが孤児を引き取って育て上げた百名でしょ」
マルグレーテは驚くゲルハルトに、ニンマリと笑った。情報戦でもマルグレーテの勝利である。
「バッガル領主宅は大きくて広いから、全員入ったそうよ。そうでしょ、ケイン?」
「はい、ゲルハルト将軍の奥様をお守りするためと、兵士の妻ら家族は、一団でこちらに向かっていただきました。現在、バッガル領主宅で皆様のためにご馳走を作っておいでです」
ケインがそう口を開いた。それで、やっとコッペルは、マルグレーテとケインの会話を理解した。ここ敵陣に向かう前にしていた会話を思い出してのことだ。バッガル領主はホマーニの配下であり、ゲルハルトが本陣を構える以前に、領を捨て王都に逃げ帰っていた。そのため、領主宅はもぬけの殻であった。
「全て、予定通りというわけか?」
ゲルハルトは、マルグレーテに問うた。
「いいえ、予定通りではありませんの。ジャンテに攻め込まなければ、このようにはなりませんでしたわ」
マルグレーテは、小さく首を横に振った。
「私の芯は常にジャンテにありますの。この地の民が幸せであるために、尽力すること。そのためには、隣国の弱点を知っておくことは必要不可欠ですわ。国の存亡は、内外要因が起因しますもの。今、ジャンテの内は揺れている。だから、外から攻められた。それも三方から。危機にこそ、国の底力が試されます。少数ですが、ジャンテでは忠臣が立志しましたわ。将軍の国ではどうかしら? 老害色ボケ王という内々の弱点に、誰が立志しましたの? このような暴走を止める忠臣はいなかったのね。ずっと、傍観しておりましたわ。ええ、そうね。攻め込まなければ……助けもしなかったわ。隣国の崩壊など、ジャンテにとっては朗報でしかありませんもの。将軍の妻がどうなろうともね」
マルグレーテはゲルハルトを見据えた。マルグレーテの心の内は、正義を掲げたりはしない。悪事を知っていたとて、マルグレーテはそれを是正したりはしない。隣国の悪事を正すなど、そんな権限も力もない。
「……そうか。あなたの正義は、ジャンテの民のみに向けられるのだな。だから、私はジャンテの民にならねばならぬのだな。チェチェ村も近郊の貧しい領もジャンテになれば、救われる」
ゲルハルトはフッと笑った。その視線は母国をチラリと見たのち、マルグレーテに移った。
「ええ、寝返ってくださいな」
マルグレーテは笑みを返す。そして、続けた。
「それが、あの王への最後の忠誠心であり、ジャンテ王への最初の忠誠でもありますわ」
マルグレーテの発言に、ゲルハルトは膝を折った。ガンツも続く。もちろん、コッペルやケインもだ。
マルグレーテは、戦わずして勝利をおさめ、さらに隣国の一部領土までをも手中にしたも同然であった。
次話月曜更新予定です。