*10*
「お兄様、ごめんなさい」
「気にするな。控え室まで顔を埋めていればいい」
夜会会場を、マルグレーテを抱き上げたカイザルがずんずんと進んでいく。今宵のマルグレーテは目立っている。健康的で斬新な登場から、か弱く抱き抱えられる退場は、参加者の好奇心をくすぐっている。マルグレーテとカイザルがいたであろうバルコニーから、銀糸の王と金糸の騎士が戻ってきたことも、何があったのかと興味をそそられている。野次馬のごとき衆目が、四人を追っていた。
「さあ、奏でてくれ」
そこに一声を参入させたのは先王である。楽団は先王の意を受けて奏で始める。
「紳士、淑女よ! 王にダンスを見せてくれまいか」
王は庶民として生きてきた。ダンスなど踊れはしない。ダンスをすれば、順繰りに令嬢と交流できたであろう。先王のひと声に、シーバルとザグレブは反応し、先王の元へと歩む。
「魅了する腕前の者に、王は声をかけよう!」
会場の熱気が上がる。マルグレーテらへの視線はすでにない。ただひとりザグレブを除いては。
楽団の横で、シーバルと先王が並ぶ。その背後のザグレブに先王は一瞥し、小さく発した。
「彼の嬢の元へ」
ザグレブは先王を見据えた。瞳が交わされる。一礼したザグレブが下がる。先王は胸に込み上げる熱いものを堪えた。
「あの真っ直ぐな目、痺れますよね。私もあれにやられて、ずっと傍にいるのです」
シーバルが先王にそっと囁く。
「ああ、あれはミーシャも一緒だ。真っ直ぐな目はあれと同じだ」
そんな会話をシーバルと先王がしている目前を、ホマーニ侯爵の令嬢がくるんくるんと過ぎていく。ダンスの腕前を見せるために。声をかけてもらうために。必死さがかえって先王には滑稽に見えた。それはシーバルも同じようで、互いに笑いあっていた。はた目には、仲の良い親子に見えるであろう。
「マル、何があった? いや、どうなっている?」
カイザルはソファに沈んだマルグレーテに水を差し出した。
コンコン
マルグレーテが口を開きかけたとき、控え室の扉をノックする音が響いた。マルグレーテは口を閉じ、扉を見つめる。カイザルは、扉へと進むと一旦振り向いてマルグレーテを確認する。マルグレーテは一呼吸した後、大丈夫だというように頷いた。
カイザルが扉を開くと、ザグレブが中へ進もうとする。カイザルはダンと足を開き、ザグレブの侵入を阻んだ。
「追い付くには何をしたらいいんだ、マルグレーテ」
カイザルの存在などお構いなしに、ザグレブはマルグレーテに吠えた。カイザルはザグレブの顔面すれすれに顔を寄せる。
「妹は体調が悪い。ご容赦願いたい」
威圧感たっぷりのそれに、ザグレブは怯まない。ザグレブにカイザルの二度目の威圧は効果はない。
「お兄様、中にお通しください。廊下での騒動は迷惑になりましょう」
カイザルは盛大に舌打ちして、ザグレブを中に入れた。
ザグレブは真っ直ぐにマルグレーテへと進む。躊躇ない揺るぎのない動きに、マルグレーテはぞわりと背筋を震わせた。しかし、バルコニーのときと違って、よろめく背後の余裕はもうない。距離を取ることもできない。ザグレブはいつだってマルグレーテに真っ直ぐに進む。跳ねる鼓動を抑えるように、マルグレーテは胸に手を当てた。
「あの外道爵に操られるつもりは毛頭ない。胸くそ悪くて逃げようとしたことは事実だ。だが、気が変わった。逃げることはない。力がいる。知識がいる。何をしたらいい? 何を知ればいい? 教えてくれ、マルグレーテ」
ザグレブの全身全霊がマルグレーテに迫る。マルグレーテは思った。もう駄目だと。次にザグレブに触れてしまえば、振り払うことはできない。離れられなくなる。マルグレーテは自身の気持ちの名を受け入れる。これは『恋』なのだと。
だからこそ、ザグレブの問いに答えねばならない。マルグレーテは、カイザルに瞳を向けた。
「立志なさるということか?」
カイザルがザグレブに問う。ザグレブの瞳はマルグレーテから離れない。カイザルを見ずにそうだと答えた。
「先王様が……マルグレーテを貰うと言った。王妃に据えるのか?」
カイザルの発言にマルグレーテは驚愕した。大きく見開いた瞳がザグレブを見る。
「ああ、マルグレーテしか王妃はいない」
ザグレブの返答に、マルグレーテの心に大きな怒りの渦が起こる。
「な、にを……言っている、の?」
ーーこの男は、自分の腕に囲われろと言いながら、あのシーバル王の妃になれと言うの?ーー怒りの後に悲しみが心を覆う。自然に頬を涙が伝った。悔しさや情けなさも加わり、マルグレーテの心は混乱した。最後には怒りと悔しさだけが残る。
「ジャンテ帝国は、ホマーニに操られる寸前です。王様とホマーニの娘が婚姻すれば、さらにホマーニは横暴になるでしょう。ホマーニの娘以外を望むことは良い判断です。帝国を立て直すなら、先ずは王都からが望ましく思います。王都の半分は、ホマーニ勢力が牛耳っております。ルモン家並びに、代々地方の国境を死守してきた地方爵の面々が、王様を影でお支えいたします。
では、お連れくださいませ。シーバル王の妃になり、シーバル王の子を産み、シーバル王と共に歩みましょう。ここジャンテに残ってくださるザグレブ様の心意気への返答ですわ!」
マルグレーテは立ち上がった。ザグレブをきつい目付きで睨み付ける。怒りを言葉に変えた。悔しさも言葉に変えた。悲しみや情けなさは、一筋の涙で落としきった。今、マルグレーテを支えているのは、誇りである。
「ムカつくやつだ! 誰がシーバルなぞにくれてやるものか! 何度言えば頷く? お前は俺の腕に囲われろ!」
ザグレブはマルグレーテをまたも抱きしめた。加えて担ぐ。さらに大股に歩き扉を蹴破る。カイザルは余りの出来事に放心していた。ハッと気づいたときには、マルグレーテを担いだザグレブの姿は、廊下の端にまで達していた。つまりは、夜会会場の入り口にである。
「おい、こら待て! 待ちやがれ!」
音楽が止んだ。入り口の扉の開いた音が豪快すぎた。絵に描けるようなバターンとの轟音は、夜会会場を一瞬で静まらせた。マルグレーテを担いで入ってくるザグレブは、そのまま段上に上がる。玉座の前でやっとマルグレーテを下ろす。同時に、開いた扉からカイザルがドスドスと入ってくる。怒り肩は相当だ。
「申し込みも許しもなしに、拐う輩にマルグレーテをやるとでも思ってんのか!」
「俺にはその権利がある!」
この三角関係に、野次馬な目が釘付けになる。シスコンとジャジャ馬令嬢、王の騎士の関係を三角関係とはいわないだろうが。
マルグレーテは下ろされたと同時に逃げようとするが、ザグレブの太い腕がそれを許さず腰を引き寄せられた。衆目に釘付けにされ、怒りと羞恥の赤面である。
カイザルが吠えて、段上に迫る。
「お決めになられましたか」
カイザルが段上に上がる寸前で、シーバルが声を響かせた。二幕が上がった。と称しても良いだろう。シーバルは、片膝をつきザグレブに頭を下げた。驚愕のざわめきが起こる。
「王が選んだのは、マルグレーテ・ルモン嬢か。実にお似合いの二人であるな」
先王は段上へと上がり、ザグレブの金糸の髪をさらりと撫でた。
「ミーシャにそっくりだ。赤毛の混じった金の髪も、その真っ直ぐな瞳も、私が南方ルクア領で身を焦がした結晶……我が息子よ」
沸き起こったのはどよめきである。光るグレイの髪の先王の子は、銀糸の青年であろうと見た目だけで思い込んでいた。この会場の誰もがそうであっただろう。いや、そのように振る舞ってきた二人に、まんまと騙されていたのだ。そして、一番衝撃を受けたのはホマーニ侯爵である。極限まで開いた口は、次第にぱくぱくと動き出す。しかし、口は動くものの呼吸を忘れたようで、意識がとんだのか気を失った。
「なんと、ホマーニよ。今までの疲れが出たのだな。苦労させて悪かった。ホマーニを屋敷まで送りなさい」
先王は機転をきかせたのか、それとも予定通りであったか、ホマーニを退場させることに成功する。
「さあ、我が息子ザグレブよ。皆の前で誓いなさい」
完全に皆の視線はマルグレーテとザグレブに移っている。マルグレーテは後ずさった。しかし、ザグレブの腕はそれを許さない。思わず、マルグレーテは叫ぶ。
「は、離してよ」
「嫌だね」
カイザルが段下で堪えている。ぎろりとザグレブを見る瞳は、王を見る目にあらず。
「ルモン家当主代理として、申し上げます! いくら王様と言えど、いくらお見合い夜会であっても、申し込みも許しもなしにマルグレーテを所望すること、受諾しかねます。マルグレーテを一旦お離しくださいませ」
視線は一気にカイザルに移る。何という大演劇か。観客は総出である。視線は、出演者の発言の度に、ザグレブやマルグレーテ、先王やカイザルへと移っていく。
「お前の手の甲にキスを落とせるのは、確か王だけであったな、マルグレーテ」
「ひぃっ」
ザグレブの悪戯で挑戦的で、そして甘い声に、マルグレーテは短い悲鳴を上げる。ザグレブの腕をぽかぽかと叩いて、逃げようと必死だ。その腕はするりと解かれ、変わりにぽかぽかと叩いていたマルグレーテの手をザグレブの手が掴んだ。マルグレーテは手をぶんぶん振って離そうとする。市場で鍛えられたザグレブの握力が、それを離すことはない。両手がマルグレーテの手を包む。ザグレブは片膝をついた。その姿は、どう見ても求婚であり、婚約の申し込みである。しかし、当のマルグレーテは気づいていない。必死に手を抜こうと、踏ん張っている。観客は内心大ウケだ。
「マルグレーテ!」
ザグレブの声に、マルグレーテはびくんと体が跳ねた。マルグレーテの瞳が、掴まれた手からザグレブへと移る。いつもは見上げるその顔が、眼下にある。見上げられている。
「俺が王だ。お前が望む王になろう。王妃になってくれ、マルグレーテ」
マルグレーテの手の甲に、ザグレブの唇が落とされた。観客は固唾を飲んで見守っている。マルグレーテに視線が集まった。
「ぁっ」
マルグレーテはザグレブの熱を手の甲に受ける。一瞬で頭が真っ白になり、一瞬で肌が熱を帯び、熟れた林檎のように色づいていく。これで、何度目の赤面であろうか。マルグレーテは瞳から涙が溢れた。
「いや……なのか?」
ザグレブが目を細めマルグレーテを見つめる。マルグレーテは首を横に振った。ぽろりぽろりと頬に涙が伝う。
「ならば、頷け」
マルグレーテはザグレブに言われるがまま、頷いた。途端、マルグレーテの体はザグレブに抱きしめられる。あれほど抗っていた何かが、一気に音を出し脆く崩れ、マルグレーテの震える手はザグレブの背へと回された。
会場は盛大に盛り上がる。天井を突き抜けんばかりの熱気である。観客は総立ちであった。もちろん、最初から大半は立っているが。
「お申し込みありがとうございます。ルモン家当主ゼッペルの許しを得てくださいませ、王様。マルグレーテ、さあ兄の元に」
カイザルは諦めてはいなかった。簡単にマルグレーテは渡せない。三幕が上がる。
「皆様、盛大な拍手ありがとうございます。当主ゼッペルが居りませんゆえ、私カイザルがマルグレーテの身元引き受け人でございます。今宵は素晴らしい夜会でございました。皆様のご熱意、当主ゼッペルにお伝えいたしましょう。マルグレーテ、手順を踏まねばならぬ。後に醜態だと責められぬためだ。場の勢いとは一過性のもの。皆様とて、異議申し立てもありましょう」
カイザルはホマーニ派に飛びっきりの笑顔を見せた。そこに、脳筋たる顔はなく、策略家たる腹黒さを醸し出している。
「マル」
ザグレブはマルグレーテを呼ぶ。マルグレーテは一度ザグレブをぎゅっと抱きしめた後、体を離した。流石にザグレブもマルグレーテを離す。
「正式に申し込もう。それまで待っていてくれ」
ザグレブはマルグレーテの頭上にキスを落とした。カイザルが冷気を出した笑顔で見ている。そのカイザルに、ザグレブはニヤリと笑ってみせた。
「ホマーニは心労でダウンした。よって、俺の……いや、私の補佐にカイザル・ルモンを就ける!」
カイザルは冷気を帯びた笑顔のままだ。
「ありがたき幸せに存じます!」
動じることなく、カイザルは膝を折ったのだった。
次話水曜更新予定です。
来週多忙なため二日ほどお待ちくださいませ。