9:予期せぬ窮地に陥って互いを案じてみる
リーズリットは赤く美しいドレスを纏ってそのパーティーを訪れていた。胸元にはレースを重ね、細かな刺繍が布を贅沢にとったドレスの縁を飾る。淡い色合いのピンクの手袋と金の留具が品のよさを感じさせ、誰が見ても吐息を漏らす麗しさだ。
リーズリットの傍らには、濃紺のタキシードに身を包んだハインリヒ。黒の手袋と銀の留具が彼の凛々しさを引き立てており、すれ違う令嬢達が頬を染め、挨拶代わりに微笑まれれば切なげに胸を押さえている。
そんな見目麗しい二人が並んで談笑する姿は絵になっており、誰もが眩そうに視線をやりまるで美術品のようだと褒めそやしていた。
とりわけ同年代の若者は憧れと恋慕の色を瞳に宿らせ、彼にエスコートされるのが・彼女をエスコートするのが自分だったらと想いを馳せる。
もっとも、リーズリットとハインリヒはその華やかな外見と周囲の憧れの視線に反し、滾る闘志を胸に抱いて作戦の最終確認をしていた。――そして時折は筋肉質な男性を見つめてしまったり、ふくよかな女性を目で追ってしまったりもしていたのだが、二人の間では今更な話である――
「いいことハインリヒ、場所はルーナが確保して、時間がきたらディークがお父様達を連れてくるわ」
「あぁ分かった。それまでは悟られないようにしなくちゃいけないな」
「えぇそうよ。極自然に振る舞うのよ」
優雅にね、とリーズリットが告げれば、ハインリヒが微笑んで頷く。
次いで彼は「それなら」と僅かに身を屈め、誘うように片手を差し出してきた。その姿はまるで物語の王子様そのものではないか。
周囲で令嬢達が吐息を漏らす。なんて素敵なのかしら……と。密やかに聞こえてくる熱っぽい言葉に、リーズリットは同感だと小さく頷きながら彼の手に己の手を重ねた。
きゅっと優しく手を掴んでくれる、この柔らかさもきっと令嬢達が知れば胸を焦がすことだろう。痛くない程度に柔らかく、それでいて離さない、恋物語の甘さそのものではないか。
こんなに優しく手を握ってくれるハインリヒは素敵だ。彼以上に優れた男を知らない。……筋肉という分野以外では。
「貴方が今より一回り……いえ、三回りぐらい幅が増えて筋肉が増量してガッチリして、なおかつその筋肉量を維持するために肉にガツガツと食らいつく殿方になってくれれば最高なのに」
「それはもう俺じゃないな。だけど俺も、君が今より三回りくらいふくよかになって、歩くたびにムチムチと音が鳴るくらいの女性になってくれれば最高だと思う。こう、佇んでいるだけでムチムチと音がするような女性だ」
「それももう私じゃないわね……人でもなさそうだわ。ムチムチ神かもしれない」
「崇め奉りたい」
そう互いに実にならない会話をしつつ、パーティーをそつなく過ごす。――周囲はこの歓談を遠目に眺め「きっと愛の語らいをしているに違いない」と」想像を膨らませていたのだが、これまたリーズリットとハインリヒは気付けずにいた。
そんな中、互いに友人の姿を見つけてしばし離れることにした。
それじゃまた、と交わす言葉は穏やかだが、瞳にはリーズリットもハインリヒも闘志が隠しきれていない。なにせ予定の時刻まであと僅かなのだ、その時を考えると武者震いさえしかねない。
だが猫を被ることぐらい、社交界に生きる子息令嬢には造作ないことだ。優雅に微笑んで再開を――そして成功を――誓いあって別れた。
「……ルーナが呼んでる?」
そうリーズリットが不思議そうに目を丸くさせたのは、他家の使いに声を掛けられたからだ。その男曰く、ルーナが屋敷の裏手で呼んでいるのだという。
本来であれば今彼女は屋敷の一室をそれとなく陣取り、来たるべき瞬間を待っているはず。彼女のそばにはディークが居り、予定の時刻がくればフィシャル家とボドレール家の者達を呼び寄せる算段である。
だが他家の使いが言うには彼女は妙に急いでおり、通り掛かった自分にどうか主人を連れて来てくれと託したのだという。
もしかしたら何かしらの予期せぬことが起こり、場所を移動せざるを得なくなったのかもしれない。
そう考え、リーズリットが使いに促されるままにその後を追った。
そうして案内されたのは屋敷を出た裏手、徐々に人の姿がまばらになり、果てには人影が無くなったその先。
何を説明するでもなく無言を貫き足早に歩く使いの背を睨むように見つめ、リーズリットは馬鹿正直についてきてしまった己の迂闊さを悔やんでいた。仮に場所の移動をせざるを得なかったとしても、ルーナがこんな場所を選ぶわけがない。
つまり罠だ。
しかし何の罠だ?
不安が過ぎる反面、もしかしたらあの手紙の差出人が分かるかもしれない……そう考え、リーズリットは警戒を抱きつつも使いから数歩距離をとりながら進んだ。
いざとなったら仕留めてやるわ、とドレスの影で拳を握る。
「……こちらでお待ちください」
深く頭を下げ、使いが去っていく。その仕草は品が良く、使いという身分なのは偽りではないだろう。
使いの主人が関与しているのか、それとも単に任されただけか、何にせよ去っていくあたり彼は実質的な危害を与える気はないのだろう。
だが通された場所はパーティーの賑やかさから遠ざかっており、人気の無さが怪しさを感じさせた。まだ完成していないのか小さな小屋の影、木材やら建築用具やらが残されパーティーのためか片隅に寄せられている。
いったい誰かくるのか。そうリーズリットが身構えつつ待っていると、かさと落ち葉を踏む音が聞こえてきた。
来た! とリーズリットの心臓が跳ね上がる。同時に固く拳を握り直した。有事の際には顔面に叩き込んでやるのだ。
だがひとまず焦りも敵意も見せてはいけない、そう己に言い聞かせて深く息を吸う。急いでは駄目だ、落ち着いて相手の素性を探らねば。
「どなたか知らないけど、いつもお手紙ありがとう」
「……手紙?」
「何から自由にしてくれるのか分からないけど、余計なお世話ってやつよ」
敵意を込めて告げれば、小屋の影に身を隠して姿の見えない相手が戸惑いの色を浮かべた。「なんの話?」と呟かれる声は女性のもので、本当に心当たりがないと言いたげだ。
リーズリットの中で疑問が湧く。
もしかしたら全く別のことかもしれない……。
「もしかして手紙とは関係ないの?」
「手紙なんて知らないわ……。私はただ、ハインリヒ様との婚約を諦めてほしいだけ」
「婚約? 誰か知らないけど、他の人にあれこれ言われるのは趣味じゃないわ」
婚約破談を企んではいるが、事情も知らぬ第三者に引っ掻き回されるのは御免だ。そんな考えのもと、きっぱりと拒絶の色を込めて返す。
それに対して返って来たのは苛立ち混じりの「そう」という声だ。舌打ちしかねない声色に、相手の余裕の無さが窺える。
次いで声の主は相変わらず小屋の影に身を隠したまま、ゆっくりと数歩後退った。
「その態度もいつまでもつかしら……」
「どういう意味……っ!!」
いったい何かと問おうとしたリーズリットが息を呑む。
ガタッと聞こえた音に顔を上げれば、小屋の影から何かが現れたのだ。巨大で大量に襲いかかる……立て掛けられていたはずの木材。
まるで覆い被さるかのように倒れこんでくるその影に、リーズリットが高い悲鳴をあげ……、
「リーズリット!!」
と、聞こえてきた声と共に何かに抱きすくめられた。
まるで雪崩のような音と何かがぶつかってくる衝撃に、リーズリットが反射的に目を瞑った。痛みに耐えるように……だが地面に倒れ込んで待てども痛みはなく、感じるのは体にのしかかる圧迫感だけだ。
いったい何があったのか、恐る恐る目を開けて、リーズリットが息を呑んだ。
「ハインリヒ!?」
そう目の前の人物の名前を呼ぶ。
自分を押し倒すように覆い被さっているのは他でもなくハインリヒだ。だが今の彼は苦痛に表情をしかめており、普段の穏やかさと麗しさはない。
それでも眉間に皺を寄せたまま深く息を吐き、「リーズリット」と名前を呼んできた。その声は低く、随分と痛々しげだ。
だがそれも仕方あるまい、彼の背には木材が倒れ込んでいる。木材に背を打ち、そして今も重みから守ってくれているのだ。苦しくないわけがない。
「ハインリヒ、どうして……?」
「ディークが呼んでいると連れ出されたんだ。罠とは分かっていたが、君に石を投げつけた奴が分かると思って……。まさか君まで居たとはな」
「石を……。まさか、なんで私達が」
「きっとお互いを想う第三者が邪魔をしようと企んだんだろう。はは、人気者は辛いな」
なぁ、とハインリヒが同意を求めてくる。冗談めいた声色だが、その声がどこか苦しげで強がりだと分かる。
思わずリーズリットの眉尻が下がり、せめて何か出来ないかと周囲を見回した。だが解決策はなく、自分の細腕では彼を支えることも木材を押しやることも出来ない。
どうすればいいのかしら……そうリーズリットがハインリヒを見上げた。彼の額に浮かぶ汗を見れば自分の無力さを実感し、申し訳なささえ浮かぶ。
「大丈夫だリーズリット、きっとディーク達が気付いてくれるさ」
「でも、それまでハインリヒが……」
「救い出すことは出来ないが、庇うぐらいは出来る。及第点ってところかな」
悪戯げにハインリヒが笑う。だがその額に汗の玉が浮かんでおり、己の腕と木材を支える彼の腕が震えている。
辛いのだろう。いや、辛くないわけがない。
それでも彼は心配させまいとしているのだ。それどころか「君の理想には程遠いが、俺だって鍛えているんだ」と言って苦笑を浮かべている。
そんなハインリヒに守られ、リーズリットがそっと彼の額に手を添えた。浮かんでいた汗を指で拭ってやり、額に張り付いた髪を優しく払う。くすぐったいのか心地よいのか、ハインリヒが瞳を細めた。まるで頭を撫でられた猫のようだ。
「ハインリヒ、私にのし掛かっていいのよ」
「大丈夫だリーズリット、これぐらい……」
「でも辛そうだわ。それに、私も貴方の理想には遠いけど結構柔らかいのよ」
だから、とリーズリットが促せばハインリヒが小さく笑った。
そうしてゆっくりと体を預けてくる。リーズリットが微かに眉間に皺を寄せたのは、体全体に重みを感じたからだ。上からゆっくりと押しかかられる圧迫感、地面とハインリヒに潰されそうな錯覚を覚える。
だが耐えられない程ではない。むしろ今ハインリヒが背負っている木材の重さを考えれば、軽いとさえ言えるほどだ。銀食器より重いものを持ったことのない令嬢が、悲鳴もあげず苦痛に呻くこともなく「重い」と感じる程度。
もちろん、重さの殆どをハインリヒが背負ってくれているからだ。
「ハインリヒ無理しないで、もっと私に体を預けていいのよ」
「いや、これで大丈夫だ。それより重くないか?辛かったら言ってくれ」
「私は大丈夫、だからハインリヒ……」
そう互いに心配しあい、リーズリットが再び彼の額に手を伸ばした。指先が触れる前にハインリヒが目を瞑るのは、汗を拭って髪を払ってくれるのを待っているからだろう。
リーズリットが小さく笑みを零し、撫でるように汗を拭う。
「いつでも体を預けてねハインリヒ。貴方だけじゃない、木材だって受け止められる。私の柔らかさ、見せてあげるわ」
「俺だって大丈夫さ。意外に体力と筋力があるんだ、耐え抜いた暁にはちゃんと見直してくれよ」
お互いに冗談めいた言葉で励まし合う。
そうしてしばらくすると、微かなざわつきとこちらに駆けてくる複数の足音が聞こえてきた。