7:知らぬうちに隣で何かが芽生えてみるⅡ
『拝啓 ハインリヒ様
暖炉前の特等席を猫に奪われる日々が続きますが、いかがお過ごしでしょうか?
先日は素敵な手紙をありがとうございました。
綴られる文字が徐々に震え歪んでいく様に、貴方様の憤りを感じました。
私も先日うっかりと「ねぇ私ハインリヒと会ってないのよ! まったく会ってないんだからね! もう九日も会ってないの!」と屋敷の中で訴えてしまいました。
返ってきたのはお母様から「別に普通の事よ」という一言と、メイド長から「私も夫と九日……九年ぐらい会わずにいたいです」という冷え切った言葉でした。
少しめげそうです。 敬具』
弱々しい文字で綴られた手紙を鞄に入れ、ルーナは普段より幾分遅い歩みで公園を目指していた。
漏らした吐息は白く染まり、冷えた空気が首筋に触れてふるりと体を震わせると緩みかけていたマフラーを戻す。そんな道中、
「あら、ディーク様」
とルーナがまたも口にしたのは、こちらに向かって歩いてくるディークの姿を見つけたからだ。
だがここは落ち合う場所でもなければ、公園の出入り口ですらない。フィシャル家から公園へと向かう途中、それも大分フィシャル家寄りだ。
落ち合う時間にはまだ早く、歩みの遅さを考慮してとりわけ余裕を持って出発しているのだから、ディークからしてみればまだボトレール家の屋敷に居ても十分な時間だろう。
もしや時間変更でも言われていただろうか、そう考えてルーナが小走り目に駆け寄ろうとするも、それに気付いたディークが慌てて片手を軽く上げて制止してきた。それどころか、彼の方が足早にこちらに寄ってくる。
「ディーク様、こんなところでどうなさいました?」
「その、今日も……早く着いたんだ。それで、公園内は見飽きたから」
「まぁ、そうでしたのね。助かりました」
「助かる?」
いったい何が? と尋ねてくるディークの視線に、ルーナが小さく笑ってケープの下で己の腕を撫でた。
「今朝は霧雨が降り、一段と冷えましたでしょう。こういう日は傷跡が痛むんです」
困ったものだと苦笑を浮かべつつ話せば、それを聞いたディークが小さく息を呑んだ。普段は険しい表情が今は困惑の色を宿し、らしくなく眉尻を下げている。
聞いてはいけないことを聞き出してしまったと言いたげな彼の表情に、気まずい思いをさせてしまったとルーナが慌てて痛みといっても軽いものだとフォローを入れた。
痛むと言っても引きつるような感覚に近く、なによりここまで歩いてこれるのだ。普段よりも手際は悪くなるがメイドの仕事だってこなせる。
「ですがお嬢様は心配性で、冷え込む日はいつも『さぁルーナ、編み物を教えてちょうだい』と仰って毛糸玉を手に私を連れて自室に籠もってしまうんですよ」
ブランケットを膝に乗せ、あれこれと語り合いながら編み物をする……。もちろんそれがルーナを休ませるためのリーズリットの気遣いなのは言うまでもない。
ただ休ませてはルーナが申し訳なさを感じ、そして周囲から反感を買いかねないことを彼女は分かっているのだ。だからこそ『編み物を教える』という役割を負わせ、周囲もこの優しさに感化され穏やかに見守ってくれる。
今日だって、リーズリットは別の者に頼もうとし、自分が行くとルーナが我を通して手紙を預かってきたのだ。肩から上半身をすっぽりと覆ってくれるケープは出掛けに彼女が掛けてくれたものである。これだけでは足りないとマフラーに手袋に……と、一度は身動きが取れないほどもこもこにされてしまった。
「優しいお嬢様に尽くすことが出来て、私は幸せです」
「……そうか」
「ディーク様も、たまには素直になってハインリヒ様に尽くしたらいかがですか?」
「いや、俺はそういうのは……別の仕事先を探してるし」
そう転職の意志を示すも、それを聞いたルーナはクスクスと笑うだけだ。まるで子供の強がりを愛でるような彼女の笑みに、ディークが居心地が悪いと頭を掻いた。
ルーナは幼い頃からフィシャル家に仕えており、ハインリヒとも付き合いは長い。ディークが彼に仕えるようになった時「フィシャル家のリーズリット嬢とメイドのルーナだ」と一緒に紹介されたほどだ。
となれば当然、ディークが転職を口にしだした時のこともルーナは知っている……。
「三年前のお花見の時も、ディーク様は転職すると仰ってましたものね。五年前の暑い日も転職情報を眺めながらボドレール家の庭園に水を撒いていましたし、その前も……」
「ル、ルーナ、もうそれぐらいにしてくれ」
これは適わない、そう判断してディークが降参の姿勢を見せる。
そうして白々しく「急いで手紙を届けなければ」と話の終いを臭わせれば、ルーナが笑みを浮かべたまま頷いて返した。「真っすぐボドレール家に戻ってくださいね」という彼女の言葉は声色こそ穏やかだがなんと意地悪なことか。
これ以上なにか言われる前にとディークが咳払いでルーナを静止し、「それじゃ」と別れの言葉を告げる。だがそれすらもルーナの笑みを強めるだけだ。もはや抗う策など無い。
なんて気恥ずかしく居心地が悪いのだろう……そう考え、ディークは踵を返すとそそくさとボドレール家へと向けて小走り目に歩き出した。
『拝啓 ハインリヒ様
猫を撫でようとするとパチンと弾ける季節になりました、如何お過ごしでしょうか。
別れを告げ合ってから早いもので十二日を経過しました。そちらの調子はどうでしょう?
私の方は無理です。完敗です。会わないなら今のうちにとドレスの仕立てが開始されました。
つきましては直ぐにでもこの作戦を中止し、次の策を練る必要があるかと思われます。
なので明日、フィシャル家の作戦会議室にお越しください。
完璧にめげました。完めげてす。 敬具』
「……お嬢様」
「ルーナ、今だけは何も言わないでちょうだい」
盛大な溜息を吐きながら便箋を封筒にしまうリーズリットに、その傍らに座っていたルーナが悲痛な表情を浮かべた。大事な主が敗北を認めたのだ、忠義のメイドがこれに胸を痛めないわけがない。
だが今のリーズリットにはルーナを宥める余裕も無く、力なく封筒を封蝋で留めた。若干目測が誤ってずれてしまったのだが、きっと中に綴られた敗北宣言を見ればハインリヒも胸中を察してくれるだろう。
それに……とリーズリットが引き出しから飴を取り出すと共に、そこにしまわれた一通の手紙に視線をやった。
先日届けられた手紙だ。
互いに使いを秘密裏に送り合うハインリヒとの手紙交換と違い、こちらは堂々とリーズリット当てに届けられた。だが差出人の名前は書かれておらず、持ってきたメイド長の訝し気な表情は今でも覚えている。
真っ白な便箋はハインリヒと交わし合ったものと同じに見えるが、中身を知っているだけにその白さに妙なうさん臭さを感じてしまう。そんな手紙を手にし、そっと便箋を取り出し開いた。
『もうすぐ貴女を自由にしてさしあげます』
中に書かれているのはこの一文だけ。
だが簡素な一文は余計に怪しさを漂わせており、リーズリットが眉間に皺を寄せつつ便箋を再び封筒にしまい直した。時期が時期なだけにあれこれと考えてしまう。
だが今はハインリヒ宛の手紙だと考えを切り替え、怪しい手紙を唸りつつ睨んでいるルーナを宥めてハインリヒ宛の手紙を差し出した。険しかったルーナの表情がパッと明るくなるあたり、こちらの手紙がいかに善良かが分かる。
「それじゃルーナ、これをディークに届けてちょうだい」
「はい、行ってまいります」
手紙を受け取ったルーナが深々と頭を下げれば、リーズリットが「お駄賃を忘れてたわ」と悪戯気に笑って机の引き出しから包み紙を取り出した。今度のお駄賃はチョコレートである。
そうして屋敷を出たルーナが「あらディーク様」と声をあげたのは、それから数十分……どころか数分後。
屋敷を出て道を曲がったすぐ先で、壁に背を預けながら誰かを待つように佇んでいるディークの姿を見つけたからである。
「こんなところで、どうなさいました?」
「えっと、その……早く着いたんだ。それで、時間もあったし……」
流石に無理があると自覚しているのか、ディークの話は随分としどろもどろだ。それどころかついには言葉を詰まらせてしまい、「そういうことにしておいてくれ」と白旗を上げてしまった。
ルーナが小さく笑みを零し、「そういうことなんですね」と返す。次いで彼女が鞄から取り出したのは、先程リーズリットから渡された手紙だ。それとチョコレートのおすそ分け。
ディークも同様に上着から手紙を取り出し、互いに隠す素振りをしつつ手紙を交換しあう。もっとも、ディークからの菓子のおすそ分けは無いのだが。
「また三日後……。ではないかもしれませんね」
「あぁ、そっちも同じなのか。そうだな、三日後じゃないな」
互いに相手の主が作戦中止を提案したと察し、どちらともなく笑みをこぼす。
そうしてルーナが深く頭を下げ「ではまた明日」と告げれば、ディークもまた笑んで返し「また明日」と別れの言葉を口にし、主人の元へと戻るべく歩きだした。
二人の足取りはどことなく軽く、敗北宣言を綴った手紙を運んでいるとは誰も思うまい。