2:緻密に練って喧嘩をしてみる
それから数日後、リーズリットは赤いドレスを纏いとあるパーティーに招かれていた。
エスコートはもちろんハインリヒ。黒い正装を纏った彼は普段の爽やかな雰囲気にどことなくワイルドさを感じさせ、令嬢達の熱い視線を独り占めしている。
素敵だ。格好良いと言える。
……だがやはりゴリラには程遠い。
「もっと布がパツパツしてたら良いんだけど……」
ハインリヒの胸元を眺めながらリーズリットが物足りなさげに呟いた。
金の飾りが映える黒いジャケットを纏った彼は恰好良い。まさに王子様だ。茶褐色の髪と今日の服装の色合いがよく合っており、ふいと視線を他所に向ける際の流し目はゾクリとさせる色気がある。
だがしなやかなのだ。胸板は厚く男らしいが、それでも布には余裕がある。あまりの胸筋に布が引っ張られ糸が切れてボタンが飛ぶ……なんてアクシデントは望めそうにない。
残念とリーズリットが溜息をつきつつ、彼の胸元で輝く飾りの位置を直してやった。
「そうだな、もっと布がパツパツしていたら良かった」
そう呟くハインリヒの視線はリーズリットの胸元に向かっている。
美しい布とレースで覆われた胸元。きめ細かな白い肌は緩やかな曲線を描いているが、あくまで緩やかだ。スレンダーなリーズリットの体系を考えれば十分と言えるが、かといって豊満とは言い難い。
そんな胸元を残念そうに見つめつつ、ハインリヒがそっとリーズリットの肩から落ちかけていたストールを直してやった。
「やはり俺達は結婚すべきじゃないな」
「やっぱり気が合うわねハインリヒ、貴方の意見に同感だわ。だからこそ婚約を破断させるのよ。それじゃ予定通りに始めましょう!」
既に準備は出来ているわ! とリーズリットが瞳に闘志を宿した。
そんな熱い思いのままについつい手に力を込めれば、グシャリと紙がよれる音がする。慌てて皺を伸ばし、折り目のついてしまった表紙を優しく撫でた。
あの日からハインリヒと練りに練った台本だ。何度も読み合わせをし、そのたびに自然な流れを演出するために書き直し、時に熱く意見を交わし、お互いの役になりきって涙することもあった。
ちなみに、そんな二人をルーナは「お嬢様、演技派ですねぇ」と長閑に見守り、ディークは転職情報を眺めつつ見守っていた。
そして屋敷の者達からは「あんなに真剣に取り組んで、なんて仲睦まじい」だの「同じものに打ち込めるなんて素敵な夫婦になれるわ」だのと言われていたのだが、あいにくと読み合わせに熱中する二人には届かずにいた。
「それじゃいくわよハインリヒ」
「あぁ、すべては俺達の未来のために!」
意気込むリーズリットに、ハインリヒもまた同じ熱意で答える。
その瞬間、周囲に時刻を知らせる鐘の音が響き渡った。
まるで開幕を知らせるかのようではないか……。そんなことを思いつつリーズリットは深く息を吸い込み……、
「なんてこと仰るの!」
と、わざとらしい悲痛な声を上げた。
場所は変わって、パーティー会場の一角。
時計を眺めていたルーナが「いよいよですね」と隣に立つディークを見上げた。日頃から険しい表情の彼は普段にもまして眉間に皺を寄せており、その威圧感に年若い令嬢達がそそくさと離れていく。
もっともルーナだけはそんな威圧感に臆することなく、リーズリットから渡された台本を握りしめていた。中をチラと覗いて表情を綻ばせるのは、「ルーナのセリフはここよ」とリーズリットがペンで囲み、そのうえ分かりやすいようにと書いてくれた猫のマークが視界に入ったからだ。
「さぁ、そろそろ時間ですよディーク様」
「貴女もよくやるな……」
盛大に溜息を吐くディークの手にも台本……ではなく、台本の一ページを切り取ったものがある。それも幾度も折り畳まれ、もはやゴミに近い。
これで落としでもすれば、きっと給仕がさっさとゴミ箱に放りこんでしまうだろう。
そえして時刻を知らせる鐘の音を聞くや、ディークは手にしていたゴミ……もとい折り畳んだ台本をグシャリと握り潰し、深く息を吸い込んだ。
「大変だぁー、ハインリヒ様とリーズリット様が言い争いをされているぞー」
そう告げるのはディークの声である。ひどく間延びしており、「大変」と口にこそしているが危機感は皆無である。むしろ彼のやる気のない声で危機感を煽られるような者がいるとすれば、もう少し落ち着いて物事を判断しろと諭したくなるくらいだ。
そんなディークに続くように、ルーナが「大変です!」と声をあげた。……こちらは随分と演技掛かっており、これには聞いたディークがぎょっとして彼女に視線をやった。
「どなたか! どなたかいらっしゃいませんかっ!」
悲痛な表情を浮かべ、若干足を引きずりつつもルーナが助けを求めて彷徨う。「誰かぁー!」とあげる声はよく通るが、いかんせん演技臭さが付きまとう。
「うわぁ……下手だ……」
「ディーク様、何をぼーっとしてるんですか! ほら、次のセリフですよ!」
「いや、でも貴女の演技は……。えっと、『誰か来てくれ、俺達ではとめられないー』」
「どなたかいらっしゃいませんのー!」
片や棒読みを通り越して引き気味に、片や意気込めば意気込むほど演技臭く、それぞれが台本通りに助けを求める。
そうしてしばらく騒いだかいがあったか――あまりの二人の有様に周囲が興味を抱いた可能性もある――数人が様子を窺うように姿を現した。
(やりましたよ、お嬢様……!)
とは、ルーナの心の声。
自分の演技力で主をサポート出来たことに感動すら抱いている。
(……頼む、今の俺を見ないでくれ)
とは、ディークの心の声。
ただでさえ台詞を読まされるだけで恥ずかしいのに、そのうえ隣ではいまだルーナが「誰か二人を止めてぇ!」と喚いているのだ。穴があったら入りたいどころか、家に帰って転職したい。
そんな胸中を押し隠しつつルーナとディークが誘導するように場所を移動していく。もちろん、主人達の居る場所へだ。
集まった者達もいったい何事かと――余興を期待している可能性は否めない――その後を追う。
そうして辿り着いた先では……。
「ひどい、ひどいわハインリヒ!」
「君に言われる筋合いはない!」
と声を荒らげるリーズリットとハインリヒの姿。
二人の表情は険しく、ハンカチを握りしめるリーズリットの手が震えている。誰が見ても言い争いをしていると分かるだろう。
……幸い、やる気も演技力もあるので尚の事。
そのうえディークが「あぁ、お似合いの二人だと思ったのに」と棒読みで嘆き、ルーナが「もう見ていられないっ……!」と過剰に嘆く。
もちろん、全て台本通りである。
「ハインリヒ、まさか貴方が『猫を飼うなら黒い肉球派』だなんて思いもしなかったわ。貴方の考えが理解できない!」
「俺だって、まさか君が『猫を飼うならピンクの肉球派』だなんて考えもしなかった。君の意見には何一つ同意できないな!」
「私だって貴方みたいな『猫を飼うなら黒い肉球派』を理解なんてしたくないわ! もういい!」
責めるような声をあげ、リーズリットが徐に手袋を外すとハインリに叩きつけ……はせず、いそいそと金具を取り外した。もちろん、彼の足元に叩きつける際に金具が彼に当たってしまっては怪我をさせてしまう可能性があるからだ。
そうして全て取り外した後「この分からずや!」という罵声と共に高らかに手袋を掲げ……
ぺふん
と彼の足元に叩きつけた。――その威力は、どちらかといえば『そっと放り投げて彼の足元に添えた』に近いのだが――
そんなリーズリットに対して、ハインリヒもまた「君の気持ちはよく分かった」と呟くと、ゆっくりと周囲に見せつけるように手袋を拾い上げた。
そうして布を傷つけないよう軽く叩いて丁寧に畳んで胸ポケットに大事にしまう。
最後に互いにジッと睨み合うのは、言わずもがなこの一連のやりとり―――『手袋を叩きつけ、相手がそれを拾い上げる』というものだ。けして『足元にそっと手袋を添えて、相手が優しくそれを受け取る』というものではない――が社交界において交友断絶の意味をもっているからだ。
これには周囲も言葉を失い、いまだ睨み合う二人を眺めつつ一人また一人とその場から離れていった。
そうして四人だけが取り残される。
となればもう演技の必要はなく、「やったわ、大成功よ!」とリーズリットが表情を明るくさせた。先程までの険しい表情はどこへやら、金の髪をふわりと揺らしてハインリヒの手を取る。
彼もまたやりきったと晴れやかな表情をしており、一寸前の眉間に寄っていた皺もどこへやら。リーズリットの手を優しく握り返した。
「あれだけ俺達の意見が分かれて、絶交のやりとりまで見せたんだ。きっと周囲も察してくれるだろう」
「そうね。そして私達の不仲はすぐにお父様達の耳に届くはずだわ」
「しかし、動物を飼いたいか否かから始まり、犬派か猫派か、雄か雌か、長毛種か短毛種か……悉く趣味が合って一時は駄目かと思ったが、なんとか肉球の色で決別出来てよかった」
「えぇ、本当ね」
そう互いに奮闘を称え合いつつ台本を見つめる。
不仲を訴えるためにはやはり意見の不一致だと考え、その不一致する意見を探し出したのが数日前のこと。
話し合いに話し合いを重ね、時々はうっかり猫話に盛り上がり、「お嬢様、犬も可愛いですよ」というルーナの意見に心を動かされ、「……ウサギ」とポツリと呟かれたディークの意見に心を動かされ……そしてようやく埋めようのない溝を見つけたのだ。
きっと野次馬していた者達は言い争う姿に不仲を感じ取り、「あそこまで意見が合わない二人の婚約は無理だろう」と察してくれるに違いない。そして不穏な噂というものは得てして関係者の耳に届きやすい、きっとすぐさま互いの両親に届き、「意見の不一致で拗れるのが分かっているなら……」と考えるはずだ。
「きっと明日にはこの婚約は破断よ!」
「やったなリーズリット!」
猫の肉球に乾杯! と喜び合う二人の声が、長閑なパーティー会場の一角に響いた。