13:円満に婚約を継続するための、彼と私の共同作業
フィシャル家の一室、『ご自由にお書きください』と書かれた札の掛かるその室内で、リーズリットは深刻な表情をしていた。――ちなみに札に関しては、もう何を書いても無駄だと察したうえでの全面降伏である。現に、今まさに通りがかったメイド達により『恋人達の甘い一時中』と書かれ、ハートで囲まれ、花を飾られ、リボンまであしらわれ、電飾が巻き付けられて今まさにスイッチを入れられ輝きだした――
そんな室内でリーズリットの向かいに座るのはハインリヒ。彼もまた重苦しい表情で座っている。
見目が良いだけに眉間に皺が寄った表情は並々ならぬ険しさを感じさせ、対面するのがリーズリットではなく他の令嬢だったならば胸を高鳴らせつつも臆してしまっただろう。
「さて、めでたく婚約関係に戻ったわけだが、俺達は新たな問題に直面している」
「えぇそうねハインリヒ。私もその件について話をしたかったの」
そう話し合う二人の声に浮かれた様子も楽し気な様子もなく、深刻な色合いを見せている。
二人の間に流れる重苦しい空気を読み、そして少しでも癒してあげようと考えたのだろう、リーズリットの後ろに座っていたルーナが紅茶の準備に取り掛かった。それを見てディークが立ち上がり、彼女のもとへと向かう。
そうしてふわりと紅茶の良い香りが室内に漂い各々の前に紅茶が置かれた。だがリーズリットもハインリヒも紅茶を飲んでも表情を和らげず、空気は未だ重苦しい。
これにはルーナも力及ばずとしょんぼりとしながら椅子に戻り、ディークもそんなルーナを労いつつ彼女が椅子に座るまで手を貸し、次いでハインリヒの背後にある所定の位置へと戻っていった。
ルーナの淹れた暖かく美味しい紅茶でも癒しきれぬほど、難解な問題が今の二人の前に立ちふさがっていた。
それを考えればリーズリットの眉尻が下がる。気持ちを落ち着かせようと暖かな紅茶を一口飲むも、唇をカップから離すと共に深い溜息が漏れてしまった。
いったい何をここまで悩んでいるのかと言えば……、
「婚約者っていったい何をすればいいのかしら……」
と、こういうわけである。
今までまったくその気も無く、それどころか婚約を破談にさせようとしていたのだ。今更婚約関係を続けようと意気込んだところで何をすれば良いのかさっぱり分からない。
ゆえにこうやって悩んでいるのである。
今まではあれだけ「お似合い」と言われていたが、当人達はこれっぽっちもその気が無かったのだ。どうすれば世間に「お似合い」と言われるのか分からない、それどころか、もし下手なことしたら不仲と思われて婚約を解消されてしまうかも……と、今更こんな不安さえ過ぎっていた。
これは努力と作戦が必要である。
そして何より問題なのは、いまだお互いに恋愛感情めいたものは抱いていないということだ。それを周囲に悟られるわけにはいかない……と真剣な顔つきで頷き合う。
なにせハインリヒは鍛えてはいるが筋肉質でゴリラのようとは言い難く、リーズリットもムチムチとは言えない。お互いの理想に近付く努力を始めたばかりで、まだまだこれからなのだ。
「これからは婚約者らしくしなくちゃ駄目なのよね」
「あぁ、しかしどうしたものか……」
難しい、とリーズリットとハインリヒが眉間に皺を寄せた。
――ちなみに二人の悩みを知らぬ屋敷の者達は「今日も一緒に過ごして、お熱いこと」だの「やっぱりあのお二人はお似合いね」だのと口々に話をしていた。もちろん、当人達には届かない――
そうしてリーズリットとハインリヒが盛大に溜息を吐き……、バッ!と揃えたように勢いよく背後を振り返った。
もちろんそこには互いの使いがいる。彼等は交際したばかりの正真正銘の恋人同士、これを参考にしない手はない。
そんなリーズリットの意思を汲んだのかルーナは「お任せください!」と立ち上がり、ディークもまたハインリヒの意思を汲み……転職情報に視線を落とした。
これでもかというほどの無視である。
さすが万年反抗期……とリーズリットが眺めていると、ハインリヒが深く息を吐いてこちらに向き直った。
「木材の下敷きになっている間、しきりに俺の名前を呼ぶディークの声が聞こえたんだ。必死で、泣きそうなほど切羽詰まった声だったが……あれは俺の気のせいだったかな」
「あら、それなら私も聞いたわ。奇遇ねハインリヒ、私達どうやら一緒に幻聴を聞いていたみたい」
「まぁ、それでしたら私も聞きましたよ。それに、ハインリヒ様のお名前を呼びながら駆け寄ろうとして、危ないからと周囲に止められるディーク様の姿も見ました」
「すごいなルーナ、幻聴に幻覚か」
豪華だな、とハインリヒが冗談めかせば、ルーナがクスクスと笑う。
もちろん幻聴や幻覚等ではなく紛れもない事実だからだ。ディークは主の危機に半ば取り乱し、ハインリヒの名を呼びながら周囲の静止も聞かずに駆け寄ろうとしていたとリーズリットも後々聞いた。
となれば当然言われたディークはたまったものではなく、むぐぐと居心地悪そうに唸り、次いで「さっさと本題に入りましょう!」とハインリヒをせっついた。
ディークの頬が赤くなり、随分と悔し気に主を睨んでいる。それがまたハインリヒの優越感を擽るのだろう、ニンマリと笑みを浮かべる彼の表情は随分と意地悪だ。
そんな二人のやりとりを十分に楽しんだルーナがこれぐらいでとハインリヒを宥め、ディークを慰める。
なんて楽しい光景だろうか。
この光景が明日も明後日も、これから先ずっと続くのだ。
それを考えればリーズリットの胸に暖かな感情が湧く。それはくらくらとした眩暈とも胸の高鳴りや息苦しさとも違うが、なんとも心地好い。
だからこそリーズリットがハインリヒに向き直った。「ハインリヒ、絶対に婚約関係を続けましょう!」と意気込んで告げれば、彼もまた頷いて返してくれる。
「ねぇルーナ、何をすれば婚約者っぽいかしら? 恋人同士ってどういうものなの?」
「そうですねぇ……。まずは手を繋いでみたらいかがでしょうか」
そう提案してくるルーナに、リーズリットとハインリヒがなるほどと顔を見合わせて頷いた。
思い返してみれば、公園でも手を繋いで歩く男女がいた。その光景は仲睦まじく、そして恋人だと宣言していなくても手を繋いで歩く姿にその関係を察していたのだ。
手を繋ぐ、なるほどこれは確かに第一ステップに適している。
とりわけリーズリットとハインリヒの間にはいまだ恋愛めいたものは無く、あくまで〝恋人っぽく見える”アピールをしたいだけなのだ。そういう点でも、手を繋ぐという初歩の初歩は最適だ。
「それじゃハインリヒ、手を繋ぎましょう!」
「あぁ、そうだなリーズリット!」
さっとリーズリットが手を出せば、ハインリヒが応えて握ってくる。
正面から固く彼の手に握られ、リーズリットが満足げに頷いた。
これで第一ステップクリア、なんとも簡単ではないか。なにせ何度も繰り返してきたことである。婚約破談を目指していた時も、互いに決意を胸に抱いて固く握手を交わし合っていたのだ。
どうやらハインリヒも同じことを考えていたようで、固くリーズリットの手を握る彼の表情にも達成感が見える。
「こういう事ね、ルーナ!」
「どうだディーク、これで完璧だろう!」
と、思わず二人揃って互いの使いへと向き直る。固く手を握り合ったまま。
だというのに視線を向けられたルーナとディークはといえば、片や穏やかな苦笑を浮かべ、片や呆れの表情を浮かべ、揃えたようにふるふると首を横に振った。
「違いますよ、お嬢様」
「それは単なる握手です」
きっぱりと二人に訂正され、リーズリットとハインリヒがキョトンを目を丸くさせた。
違うの? と思わず互いに顔を見合わせてしまう。いまだ固く手を握りしめたまま。
「お嬢様、協力関係なら向かい合って握手でも構いませんが、これからは婚約者なんですから」
「そうね。確かにこれじゃ今までと同じだわ」
「えぇ、そうです。だからこれからは婚約者として、同じ方向を向いて寄り添って手を繋ぐんです」
穏やかに笑いながら話し、ルーナがディークを手招きする。
そうして彼の隣にそっと寄り添うと、己の細い手を男らしい手に絡めた。体格の差もあってかディークの手が余計に大きく見え、ルーナの細く傷跡の残る手はすっぽりと覆えそうではないか。指を互いに絡めるようにして繋げば余計にその大きさの違いが分かる。
最後にきゅっとルーナが手を握り、「こうですよ」と笑った。真っ赤になったディークもまた「こ、こう、手を、繋ぐんです」としどろもどろながらにルーナの手を握り返す。
「そうなのね。そうやって手を繋ぐのね」
「なるほど、握手より親密に見えるな。リーズリット、早速やってみよう」
「えぇ、やってみましょう!」
よし! と意気込んでリーズリットとハインリヒがそっと手を離す。
寄り添うためにハインリヒがリーズリットの隣に近付き、改めて促すように手を差し出してきた。もちろんこれに応えないわけが無く、彼の手に己の手を乗せる。
ゆっくりと指を絡めて手を握れば、リーズリットの胸になんとも言えないくすぐったさが湧いた。改めて手を繋ぐことが妙に気恥ずかしく、見ればハインリヒも照れ臭そうに笑っている。
思い返してみれば、今まで何度も向かい合って固い握手をしてきたが、こうやって隣に立って手を繋ぐのは初めてかもしれない。
見上げても目の前に彼の顔は無く、隣を見れば彼の横顔がある。寄り添って同じ方向を見ているのだから当然と言えば当然なのだが、それもまたリーズリットには新鮮に思えた。
「ハインリヒ、貴方の手って大きかったのね」
「君の手は小さいなリーズリット。握手をしてた時は気付かなかった」
「私も、今気付いたわ」
そう話しながら互いにぎゅっぎゅっと手を握り合ってみる。
今までの握手とは違う感覚。指を絡めているからか、それとも握手を交わしていた時のような闘志が無く落ち着いているからか、ハインリヒの手の大きさがより伝わってくる。
しなやかで綺麗な手だと思っていたが、こうやって触れてみると大きくて指も太くて骨ばっている。まるで包み込まれるようで、そして暖かい。
これが男の手なのか。見惚れるくらいに麗しくても、ハインリヒもやはり男なのだ。そしてこの手で、この腕で、彼はあの時ずっと木材から守ってくれた。
そう考えれば、リーズリットには今繋いでいる手がこの世の何よりも頼りがいのあるものに思えてきた。
筋肉質でガッチリしたゴリラのような男の、丸太のごとくな太ましい腕やいかつい手も頼りがいがあるのかもしれないが、いかんせんそんな男は居ないのだ。いまだ一人も出会っていない。
だけどハインリヒの手はいつだって自分の手の隣にある。少し手を伸ばして触れれば繋いでくれる。
これから先もずっと。
そう考えれば、リーズリットの胸の内にほわっと小さな熱が灯った。照明にもなりえない可愛いだけのキャンドルに火を灯したような、小さな小さな、熱とも言い切れない暖かさ。
だが胸の内に灯ったそれは風で消えることもなく、漲る闘志もないので煽られて消えることもない。リーズリットの胸の内に灯り、ほわほわと胸全体を柔らかく包んでいく。
そんな暖かさを胸に、リーズリットがハインリヒを呼んで彼を見上げた。
心なしか、普段から格好良いと思っていた彼がいつもより素敵に見える。
「ねぇハインリヒ、私きっと貴方と良い夫婦になれると思うの!」
思いのままを告げてみる。本当にそう思えたのだ。
それを聞いたハインリヒが突然のことにわずかに瞳を丸くさせ、それでも次いで嬉しそうに柔らかく笑った。
「やっぱり気が合うなリーズリット、俺も君と良い夫婦になれると思ってたんだ」
互いに未来を語り合い、どちらともなくぎゅっと強く手を握り合った。
……end……
『円満に婚約を破談させるための、私と彼の共同作業』
これにて完結です!
破談を目指して空回るリーズリットとハインリヒ、それに巻き込まれつつちゃっかり進展するルーナとディーク。
騒々しくい四人の物語、如何でしたでしょうか。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました!




