12:理想を探すのではなく理想を目指してみる
婚約解消が周知のこととなるや、リーズリットのもとにもハインリヒのもとにも山のように婚約や交際の申し出が届いた。
その量といったらなく、フィシャル家やボドレール家に並ぶ名家はもちろん、どこの家かと首を傾げてしまうほど田舎の弱小家まで。未婚の子息令嬢をもつ家は殆どと言えるだろう。
直接的な申し出こそせずともせめて名を覚えて貰おうと考えているのか、手紙や花を贈って消極的なアプローチに出る者もいる。
もっとも、麗しのカップルとまで言われていた二人が婚約を解消したのだから社交界が騒然となり誰もが行動に出るのは当然と言えば当然で、その動きを探ることこそが両家の目的なのだ。ゆえに誘いや贈りものを無碍にすることも出来ず、リーズリットもハインリヒも、お茶の誘いに応じ時に手紙の返事を出して……と多忙な日々を送っていた。
「この方は五日前にもお手紙をくれた方ね。一昨日それに返事を出して……もう次を書いてきたの。もうちょっと待ってくれてもいいのに」
「お嬢様、こちらの方は三日前に手紙をくださってますよ。まだお嬢様が返事を出していないのにもう二通目なんて、せっかちな方ですねぇ」
「そんなにぽんぽん手紙を出されても返事に書くことがないわ。ねぇルーナ、返事代わりにルーナ特製タルトのレシピを送るのはどう?」
「あれは門外不出です。たとえお嬢様の頼みといえど、他家に教えるわけにはいきません」
きっぱりと断ってくるルーナに、リーズリットが「名案だと思ったのに」と唇を尖らせた。
そうして机の上で山をなす菓子の袋を眺める。これもまたアプローチの品々だ。手紙に添えられていたり花と菓子を交互に贈られたり……リーズリットの負担になるまいと考えられているのだろう一つ一つは小さく邪魔にはならないが、いかんせん量が量である。
これが単品であったならリーズリットも瞳を輝かせていただろう――なにせ手軽で小さな包みと言えど、どれもが有名店の高価な一品なのだ――だがこうやって積まれてしまうと食欲よりも気圧されてしまう。そしてこれにも返事を……と考えると溜息も出る。
それでも贈り物だ、感謝の気持ちはある。だからこそリーズリットが「嬉しくないわけじゃないのよ」と言い訳をしつつ菓子の山を突っつき……パッと表情を明るくさせた。
「ねぇルーナ、見て! これ隣国で有名なパティシエのクッキーよ! 凄く人気ですぐ売り切れちゃうの。私、彼の焼いたクッキーなら何枚だって食べられるわ!」
「それでしたら美味しい紅茶を用意いたしましょう。お砂糖は多めに二杯ですね」
嬉しそうに話すリーズリットにあてられ、ルーナもまた微笑んでいそいそと紅茶の用意にかかる。
それを横目にリーズリットはクッキーの袋を大事そうに抱え、贈り主は誰かと眺め……「やっぱり貴方だと思った」と笑みをこぼして呟いた。
リーズリットがせっせと手紙の返事を認めている間、ハインリヒもまた手紙の返事に翻弄されていた。
付き合いのある他家の子息から見舞いの手紙と、そして令嬢達からの仄かに恋心を漂わせる手紙……。とりわけ令嬢達はまめに手紙を贈ってくれるので、感謝の気持ちを示しつつ、それでも恋心に期待を持たせないよう返事を書くのに頭を悩ませていた。
足も完治し明日には安静という名の退屈生活から解放されようとしているが、今度は腱鞘炎で安静を言い渡されるかもしれない……と、そんなことを手を揉みながら思う。
「腕がつりそうだ……」
そう溜息混じりに呟けば、傍らに置かれた椅子に座って転職情報を眺めていたディークが「腕ですか」と呟いた。
次いで彼が立ち上がり、ハインリヒの寝ているベッドへと近付いていく。もちろん書き終えた手紙を受け取り、使いに渡すためだ。
だがその途中で「おっと」とわざとらしい声をあげてベッドの端にぶつかった。
ガタッと音がしてベッドが揺れ、次いでゴトンと豪快な音が続く。
何かが布団から転がり落ちたのだ。それもある程度の重さがあると音を聞けば誰でも分かるだろう。
もちろんハインリヒはそれが何かを分かっている。そもそも彼が布団の中に隠し持っていたのだ。一時間程前に見舞いの令嬢達が訪れ、そのときに咄嗟に隠してそのままである。
床に落ちたそれをチラと一瞥し、ハインリヒが忌々しげにディークへと視線を向けた。ギロリと睨みつけるも、今日も今日とて反抗期のこの護衛はクツクツと笑うだけだ。
「なに笑ってるんだ。さっさと手紙を持って行け」
「失礼いたしました」
そうハインリヒが咎めて命じれば、ディークがわざとらしく深々と頭を下げて部屋を出ようとし……その直前に、床に落ちたダンベルを拾い上げ、「腕を痛めないよう程々に」と忠告して出て行った。
シンと静まった部屋の中、ハインリヒの唸り声だけが小さく続く。
ここにリーズリットが居れば「相変わらず生意気だ」と愚痴れるのに。そうすれば彼女は苦笑と共に頷いてくれるだろう。
そんなことを考え、ハインリヒは布団の上に置かれたダンベルに手を伸ばした。
山のような申し出や手紙の返事を出し、時に見舞いに……行くも必ず誰かが付き纏う。そんな日々のおかげでリーズリットはハインリヒとろくに話をすることも出来ずにいた。
それはハインリヒが完治した時も変わらず、そのお祝いすらもそれぞれ異性に囲まれながらの慌ただしいものになってしまった。
「治って良かったわハインリヒ。あの時は守ってくれてありが……あら、ねぇちょっと待って皆さん」
「ありがとうリーズリット。君が無事でよか……え、先日の? ちょっと待ってくれまだ話が」
と、終始こんなところである。
そんなある日、リーズリットはルーナに誘われて公園を歩いていた。
この道でハインリヒと熱く激しくぶつかり合ったのよね……と、思い出話に花が咲く。ここにハインリヒがいれば、あの時の互いの覚悟と健闘を称え合えるのに。
そうリーズリットが溜息をつきかけ、ふと道の先に見覚えのある姿を見つけた。
茶褐色の髪にしなやかな体つき、誰もが見惚れるその格好良さ……ハインリヒだ。他の誰を見間違えようと、リーズリットが彼を見間違えるわけがない。
「ルーナ、ハインリヒよ! ハインリヒがいるわ! ……あら、でも今日の彼は忙しいって聞いたのに、どうして公園にいるのかしら」
こちらに歩いてくるハインリヒの姿に急いでいる様子はなく、どこかに向かおうとしている様子もない。ディークと雑談をしながらのんびり歩いているあたり散歩だと分かる。だからこそリーズリットが疑問を抱くのだ。
思い返してみれば、リーズリットも今日は多忙のはずだった。母が知人とお茶をするからそれに顔を出してほしいと頼まれ、その後も父から頼まれ事をしていた。だというのに突然二人から今日の予定は延期にしてくれと言われてしまったのだ。
その結果暇を持て余し、ルーナに誘われて今に至る。
……ルーナと二人で公園を歩き、そしてディークと二人で公園を歩いているハインリヒに遭遇するという、今に。
まさか、とリーズリットがルーナに視線をやれば、彼女はどこか悪戯っぽく笑っているではないか。なにも答えないが、これは肯定の沈黙だろう。
「ほらお嬢様、ハインリヒ様が気付いてこちらに来ますよ」
「あら、足が治ったばかりなんだから無理させちゃ駄目ね。私から行かなくちゃ」
こちらに気付くや小走りに駆け寄ってくるハインリヒに、リーズリットもまた足早に近付いていく。
そんな二人の足取りは端から見れば随分と軽く、それでいて早くと急いでいるのが丸わかりだ。もちろん、当人達は「ちょっと小走りに」程度に押さえているつもりなのだが。
そうして互いを前にし、どちらともなく表情を綻ばせた。
「久しぶりだなリーズリット」
「えぇ、久しぶりねハインリヒ。最近お互いに慌ただしかったものね」
他家の子息令嬢に囲まれて一言二言交わすことはあったが、こうやって向き合って話すことは随分と久方ぶりのように思える。いつだって誰かに割り込まれ、あれよという間に離れてしまうのだ。
おかげで話そうと思っていたことが山のようにある。だがいざその時になると、リーズリットの頭の中を矢継ぎ早に話題が巡っていた。
あれも話したかったし、これも話したかった。なにから話そうか、だけど彼の話も聞きたい。
そんな中で、リーズリットがまずはこれだという話題を口にしようとし……、
「あのねハインリヒ!」
「あのなリーズリット!」
と、揃った声に目を丸くさせた。
こんなところまで気が合うのか、そう互いにはにかむ。
次いでハインリヒが苦笑と共に視線を向けてきた。きっと先を譲ってくれるのだろう。濃紺の瞳から意志を読みとり、ならばとリーズリットが改めて彼を見上げる。
「私、最近ドーナッツやマフィンを食べて、紅茶にお砂糖を二杯も入れてるのよ。食事もお肉を多めに食べてるし、あと食後と寝る前には必ず腕をこう胸の前で組んで……ぐっと力を込めてるの。これを繰り返してるのよ」
そうリーズリットが興奮気味に、そしてどことなく胸を張りながら実演してみせる。
腕を胸の高さに上げて前で手を組み、両側から力を込めるのだ。二の腕と胸元に負荷がかかるが、これがポイントなのだと馴染みのエステティシャンから教わった。
そんなリーズリットの話に、ハインリヒが「それは楽しそうだな」と笑って返す。
リーズリットの動きに何の意味があるのかハインリヒは分かっていないが、彼女がこれほど楽しげに話すのだからきっと良いことに違いない、そう考えての言葉である。
その言葉にリーズリットが少し得意げに胸を張りながら頷き、「どうぞ」とハインリヒを促した。次は彼の番だからだ。
ならばとハインリヒがリーズリットを見つめる。
――ちなみにこの時ルーナが「私もやってるんですよ」とディークを相手に胸元で手を組んで実演してみせた。それを見たディークが一瞬不思議そうにし……ルーナがぐっと両腕に力を入れる度に彼女の胸が揺れるのを見て、その動きがどこに効果があるのかを察して一瞬にして赤面した――
「リーズリット、俺は最近専門のトレーナーをつけて鍛えてるんだ。ダンベルも最初の時より重いものを使ってる。食事も肉料理を多く食べてるんだ」
そう誇らしげに、そしてどことなく胸を張りながらハインリヒが告げれば、リーズリットが「さすがねハインリヒ」と彼を称えた。
ハインリヒがどうしてダンベルの話をするのか分からないが、それでも彼が頑張っているのは純粋にさすがだと思えるからだ。
――ちなみにこの時ディークがどことなく誇らしげに「俺も一緒に鍛えてるんだ」とルーナに告げた。それを聞いたルーナが愛しそうに「頼りがいがありますね」と逞しい彼の腕へと手を伸ばし優しく擦り……そして今回もまたディークが赤面した――
そうしてリーズリットとハインリヒが互いの近況を報告し合い、
「「それで!」」
と再び声を揃えた。またもきょとんと目を丸くさせてしまう。
そうして次に譲ったのはリーズリットだ。小さく微笑んで「どうぞお先に」と告げれば、ハインリヒが小さく咳払いをして話し出した。
「俺達の婚約が解消されたと知ったとき、君と祝って、これからは理想の相手を捜し合って、もっと楽しく過ごせると思ってた」
「……私もよ。まずは婚約解消パーティーをするつもりだったの。その後は今後の作戦会議もしたかったわ」
「でも君も俺も多忙でろくに話も出来なかった。それで気付いたんだ。もし本当に婚約を解消して、君が理想通りの筋肉質でゴリラみたいな男と結ばれてしまったら、今みたいに俺と会って話をしてくれなくなるって」
「私もよ。貴女がムチムチした女性と結ばれたら、毎日その豊満さを堪能してもう私に構ってくれなくなるって気付いたの」
そう互いに切なげに告げ合い、深く息を吐いた。
会えない日々の寂しさを思い出せばリーズリットの胸が痛む。話したいことだけが募り「彼だったらこう言ってくれるのに」という考えだけが浮かぶ。楽しいことも面白いことも一番にハインリヒに話したいのに、その彼に会えないのだ。楽しさも半減してしまう。
もしも相手が理想の異性と結婚してしまったら、そんな日々がずっと続く。以前のようにお茶をすることも出来なくなってしまう、なんて物足りない日々だ。
それを考え、リーズリットが再び話し出そうとした。
だが今度も、
「「だから」」
と被さってしまうのだ、もちろん二人揃えて目を丸くさせる。これはもう笑うしかない。そのうえ、お互い落ち着かなきなきゃ、という言葉もまた被ってしまうのだから、これまた笑いを誘う。
そうしてひとしきり二人で笑い合い、リーズリットが涙目の目尻を指で拭い「それでね」と話し出した。
最初にリーズリットが先に話し、次にハインリヒが先に話した。ならば今度はリーズリットが先に話す番だ。
だからこそ話し出そうとしたのだが、ハインリヒが慌てた様子で待ったをかけてきた。
「リーズリット、俺から話をさせてくれ」
そう強引に話し出そうとするハインリヒは、普段の彼らしくない。
彼はいつだって、老若男女問わず――ムチムチか否かにも問わず――親切で、とりわけリーズリットには優しいのだ。相手を遮って無理に己の話を進めるようなことはしない。
だが今の彼は強引に話の優先権を得て、それどころかリーズリットを制するように咳払いをした。己が話し出すと訴えているのだ。
らしくないその仕草に、リーズリットがどうしたのかと伺うように彼を見つめた。
「リーズリット、君が今まで通り、俺のそばで『さすがねハインリヒ』って誉めてくれるなら、俺はこれからも鍛え続けて筋肉質な男になる。さすがにゴリラのようにとはいかないけど、もっと男らしく逞しくなるよ」
「私も同じことを考えていたわ、ハインリヒ。貴方が一緒にお茶をしてくれるなら、私たくさん食べてムチムチした女性になる。あちこちお肉がついちゃうのは困るけど、柔らかな女性になるわ」
ハインリヒの言葉に、リーズリットが感極まったと言いたげに続く。
彼もまた自分と会えない時間を同じように惜しみ、同じ事に気付き、そして同じ考えと決意に至ったのだ。これ以上嬉しいことはない。
やっぱり私達って気が合うのね、とリーズリットが表情を綻ばせながら告げれば、ハインリヒもまた同じように嬉しそうに笑って頷いた。濃紺の瞳が細められ、そんな彼の表情を見ればリーズリットの胸も弾む。
そうしてハインリヒが「それで」と話し出した。どこか少し照れくさそうに苦笑して、すっと右手を差し出してくる。
その姿はまるであの日の、彼に婚約破棄を申し立てられた時のようではないか。だけど今回は、きっと彼が言ってくれる言葉は……とリーズリットが続く言葉を待つ。
「リーズリット、もう一度、今度は破談を目指さずに君と婚約したい」
その言葉に、リーズリットは胸を高鳴らせ息苦しさと目眩を覚え……はせず、それでも満ちるような心地よさを胸に抱き、
「やっぱり気が合うわねハインリヒ、私も貴方と婚約したかったのよ!」
と、固く彼の手を握りしめた。




