便秘になると、便器の上で気絶する
便秘はつらい、という話を誰でも一度くらいはどこかで耳にしたことがあると思う。
しかし、便秘の経験がない人には何がどうつらいのか、上手く想像ができないものらしい。そこで、物心ついた頃から三十路を越えた現在に至るまで、便秘の人生を送り続けてきた私自身の経験について、少々ここで語ってみたい。
なお、以下はあくまでも私個人の症状なので、便秘に苦しむ全ての人々が同じような経験をしているとは限らない点に注意していただきたい。また、話題の性質上、頻繁にうんこうんこと連呼するので、お食事中の方にはおすすめしない。
さて、これを見ているあなたは、どれくらいの頻度でお通じがあるだろうか。一日に一度? それとも、毎食後にトイレに行く?
私の場合、三日に一度あれば「ああ、最近は快便だなあ」と思う。四日、五日、一度も排便しないことも特に珍しくはない。
これが一週間になると「ちょっとやばいな」と感じ始めて、十日になった頃には覚悟を固める。
なんの覚悟か?
もちろん、うんこをする覚悟である。
奇妙に思えるかもしれないが、世の中にはうんこをするために覚悟が必要な人間もいるのだ。
便秘十日目を過ぎたある日、お腹がきりきりと痛み出すと、これが開戦の合図となる。適当な文庫本や漫画本を手にトイレのドアを開け、便座の上に腰を下ろす。
ここで、直ぐさま「フンッ!」と気張り出すようでは、便秘の素人である。熟練者は、肛門をきゅっと締めながら腹筋に力をこめ、持ち込んだ本のページを捲りながら、うんこが腸内を降りてくるのを待つのだ。
そうやって腹の痛みに耐えながらじっと待ち続けていると、やがて直腸の奥辺りに異物感を覚える時が来る。つい、「あ、気張れば出せそう」と思ってしまう。
しかし、ここで希望を見出すのは誤りだ。むしろ、ここからが苦しみの始まりである。
息を止めて力いっぱいに気張る。しかし出ない。もう一度、息を止めて気張る。やはり出ない。
そうこうしている間に、腹痛が先ほどよりも酷くなってきているので、痛みを誤魔化すために体を前後左右にぎったんばったんと揺らし出す。フウフウ、ハアハアと、自分の口から漏れた荒い呼吸音がトイレの中に響き始める。
すごく、痛いのだ。
とても、苦しいのである。
「いっそのこと、穴の中に指を突っ込んでほじくりだしてしまおうか」なんてことを半ば本気で考え始めたり、どこかの神様に向けて祈ったりもする。それでも、うんこは出ない。出ないものは、出ない! 畜生、さっさと出てきやがれクソ野郎!
横から眺める分にはさぞかし間抜けに見えるだろうが、当人は至って真剣である。
便器の上でそんな醜態を演じ続けていると、今度は体温が急激に上がってくる。実際に計ったことはないが、体感的には38度以上、ひょっとすると39度に達しているかもしれない。とにかく熱い。皮膚が赤くなり、全身から汗が噴き出す。
ここが、苦痛の極致である。
こうなるともう、気張るだけの元気はなくなっている。うんこのことも忘れて、ただひたすら、肉体を襲う苦しみを受容することしか出来ない。
汗で滑る膝の上に肘を乗せ、背中を丸めながらぐったりとしていると次第に意識が朦朧としてきて……そのまま、気絶する。
いやいや、なんでうんこするのに気絶するんだよ! と思うかもしれないが、事実なのだから仕方ない。
私は医師ではないので、それがどういう生理学的メカニズムで起こるのかは分らないけれども、便秘のうんこを出そうとすると発熱して気絶するものなのである。少なくとも、私の場合はそうだ。
気絶して数分が経過すると、ふと目が覚める。そして、今度は逆に急速に熱が下がり始める。びっしょりと汗に濡れた衣服が肌に触れて冷たく、不快である。
気力体力が気絶前よりは多少なりとも回復しているので、徐に体を起こし、改めて「フンッ!」と気張ってみる。すると、あらビックリ、うんこがむりっと出てくる。
何故かは分らない。分らないが、一旦気絶して目が覚めると、ついさっきまではあれほど頑固に腸内に立て籠もり続けていたうんこが、割合、素直に出てきてくれるのだ。人体の不思議である。
大抵の場合、ここで最初に出てくるのは直径3センチほど、小石程度の大きさのうんこである。こいつは謂わば斥候のようなもので、その後、少し間をおいた後に本隊――幼児の腕ほどありそうな大物が姿を現し始める。
無理矢理に肛門を拡げて出てくるので、当然、痛い。しかし、これまでの苦しみに比べればまだマシと思える程度の痛みなので、そこまでつらくはない。
肛門が裂けてしまわないよう、無闇に力んだりはせずに、ゆっくりと呼吸しながら、大物が無事に通り過ぎるまで静かに排便する。これが便器の中に落ちて肛門への圧迫感がなくなった時、「ああ、一先ず終わったな」という安堵感から思わず深いため息が零れる。
そう、あくまでも「一先ず」なのだ。
この固くて太い大物うんこは、大腸の中に留まっている間、それよりも上のものを押し止める栓として機能していたことは容易に想像がつくと思う。では、その栓がこうして抜けた今、次に何が起こるだろうか。
便秘劇場第二部、下痢編の開幕である。
固いうんこの苦しみから、柔らかいうんこの苦しみへと繋がる極悪コンボ。光と闇、善と悪、便秘と下痢はワンセットなのだ。
ただし、ノロウィルスによる下痢等とは違って、腹の中に溜まっている分を出し切ってしまえばそこで終わるので、気持ち的には楽である。もちろん、肛門的にはつらい。
かくして十日分のうんこを出し切り、体重を数キロ減らしたところで漸くトイレの便座から解放される。この一度の排便に要する時間は、早くて一時間、長い時で二時間に及ぶこともある。
うんこのために二時間! 二時間あれば映画が一本観られるというのに、人生の無駄遣いにも程がある。
とはいえ、何も毎度の排便で常に上記のような苦しみを味わっているわけではない。過去の経験上、ここまでの大事になるのは精々、多い年でも三カ月に一回あるかないか程度のもので、大概はこれよりもずっと小さな苦しみを経て無事に排便を済ませている。
特に、三十路を過ぎてからは、気絶するほどの便秘にはまだ一度も遭遇してはいない。これが生活習慣を改めたことによるものなのか、あるいは加齢による影響なのかは不明である。
ともあれ、二十代の頃は「自分はその内、トイレでうんこしてる最中に脳の血管が切れて死ぬのではないか」と将来を悲観していたので、これは大変に有り難いことである。