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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

俺とヤンデレ妹の最後の交渉

作者: ちゃちゃ

注意書

・死人が出ます。

・主人公ノーネーム。

・再投稿&移転作品。

「おにいちゃん」


 暗闇の中、愛らしい声を聞く。凛と澄んだ声質で、ここがもしもトンネルならば、どんなに長くたって端から端まで駆けていくんじゃないかと思わせる程に良く通っている。所謂、鈴を転がしたようだと言われるようなものだろう。音の高さも相まって、非の打ち所が無い程に可憐な声だった。

 対する俺は、「ん……」と短く返すものの、声は愚か唇さえ動かせない状態。それどころか、瞼を開けても視界は真っ暗だし、両手は腰の後ろから全く動かせず、足は肩幅に開いた状態で膝を直角に折っている。

 まあ、椅子に座った状態で手足と胴を縛られ、アイマスクらしきもので目を、ガムテープで唇を塞がれている状態だ。呼吸の為に塞がれていない鼻は、ガムテープ特有のゴム臭さを感じているし、おそらく唇を塞ぐものはガムテープで間違い無いだろう。他は不確かだ。俺は何を確認する事も無く、『目が覚めたら』この状態だった。

 本来ならばこう言う時、聞き覚えがある声を聞けば助けを求めるだろう。もしくは、自分の置かれている状況の説明を要求したり、声を掛けてきた相手が無事か問い返すに違いない。しかし、もう既に三日はこの状態だ。俺の事を兄と呼ぶ声の主は、決して俺を解放しないだろう。


――そう、俺の妹。(いつき)こそが、俺をこんな風に拘束している犯人だ。


「待ってね。お口外してあげるよ」


 僅かに舌っ足らずな口調で、樹はそう溢す。次いで、ピとりと頬に触れる冷たい指。小振りなその指は、軽く引っ掻くようにして俺の頬からガムテープを捲っていく。産毛が抜けるのと、僅かに尖っている爪で掻かれ、少しばかり痛む。


「一気に取っちゃっていい? それともゆっくりがいい?」


 俺の痛覚を刺激している自覚はあるのか、ひとつまみ程捲った樹は態々そんな事を聞いてきた。俺としてはどちらでも構わないが、しかし答えは端っからひとつしか無い事を俺は既に知っている。


「……やっぱ一気に剥がそ。おにいちゃんと話せる時間が勿体無いよ」


――ベリッ。


 と、音を立ててガムテープが剥がされた。この三日間、剃る事が叶わなかった髭が何本か強引に引き抜かれ、激痛と言う他が無い痛みを感じる。情けない呻き声が漏れれば、彼女はさぞ満足そうにくすくすと笑った。


「ありがとうおにいちゃん。いつきの為に態々呻いてくれるなんて……」


 何でお前の為なんだよ。と、そう思うが、敢えて口には出さず。まるでさも『虐めて快感を得ています』と言うような彼女の発言は、さっさと記憶の端に捨ててしまう。

 ヒリヒリと痛む唇回り。おそらく唇の皮も剥かれてしまったのか、ジンジンとした鈍い痛みも覚える。……が、それもさておく。


「おにいちゃん喉乾いたよね? 乾いたよね?」


 何よりも先ず、俺は呼吸を止めた。


「はい。お水だよー」


 嬉々とした彼女の声と共に、俺の顔面へ大量の水がぶちまけられた。流れる水は一瞬にして俺の顔面から流れ落ち、全身を濡らしてしまう。もしも口を開いていれば、気管に入って咳き込んでいた事だろう。

 既にこれは七回目だ。バカでも覚える。息を止め、ぶちまけられた後で唇回りに滴っている水を舐める。そんな事をし始めては、もう三回目か。

 初めて水をぶちまけられた時は、樹の気が狂ってしまったのかと思ったものだ。拘束されている場に現れた希望かと思えば、何でこんな事を、なんて思っていた。


「あーあ……。もう覚えちゃったんだぁ。つまんないのぉー」


 まあ、その時は記憶が混濁していたし。全てを思い出した今となっては、改めて言える。


――樹は狂ってしまった。



『人間誰しも間違いはある』


 って言う台詞を、誰もが聞いた事があると思う。少なくとも俺は聞いた事がある。と言うか、言った事があるんだ。

 確か、中学生になってすぐの頃だ。幼馴染みの佐々木千恵美(ささき ちえみ)が、飼っていた猫に誤って玉葱が入った自分の食事を食べさせてしまい、瀕死の重症を負わせてしまった時の事だったか。まあ、よく「猫に葱は食わすな」と言うけど、千恵美は知らなかったらしい。それどころか勘違いで、その昔彼女の母親があげてたと記憶していたようだ。勿論そんな事実は無く、そして彼女はくれとせがまれるがままにやってしまい、結果動物病院に駆け込む事になった。

 間違いの無い加害者ではあれ、過失で、ましてや動物が相手じゃあ裁かれる事は無い。千恵美は自分の良心に責め立てられるだけで、翌日の学校に酷く気落ちした様子でやって来たものだ。

 当時隣に住んでいた俺は、騒ぎを姉伝いに聞いて、気落ちする彼女を励ます為に言ったんだ。


「人間誰しも間違いはある。もう二度とやらねえよな?」


 と。


 だけど、今の俺は違う。当時の彼女にだって、きっとこう言うだろう。


『取り返しのつかない事もある。そうじゃなくて、良かったな……』


――と。



 取り返しのつかない間違い。


 それは高校三年生の夏だった。進路を確定し、変更が出来なくなる季節。

 ある日の夜半、夕食と風呂を終え、もうすぐ寝ようか、はたまた勉強をしておくべきか、そう悩んでいた俺の部屋に、コンコンと小さなノックが飛び込んできた。誰だと返せば、鈴を転がしたような声が聞こえた。


「なんだ樹か……。入れよ。空いてる」

「夜遅くにごめんね。お兄ちゃん」


 枕を抱え、動物柄がプリントされたパジャマを着た姿で、樹は部屋に入って来た。

 肩までの茶色いストレートの髪はどこか湿気ていて、頬は上気しているのか薄紅の色をしていた。小柄な身体に愛くるしい格好が絶妙に似合っていて、そこらの女の子と比べても随分と色っぽい印象があった。まあ、妹相手に発情するような性癖はないので、特に気にもしなかったが。


「もう寝ちゃう?」

「……ん。樹の話聞いてやるぐらいの時間ならあるぞ?」

「そっかぁ。じゃあこれ要らないっと」


 俺の返答を聞いた樹は、枕を扉の前に置いた。どうやら俺が寝るつもりなら、添い寝宜しく布団の半分を占領するつもりだったらしい。……樹はこれでも俺の一歳下。つまり高校二年生だ。そんな年頃でそういう振る舞いは些かガードが弱いんじゃないかと思うが、前に何度か注意したのに直らないし、もう仕方ないと思う。俺と樹の姉にあたる美月(みつき)姉さんも、「イっちゃんは甘えん坊だから仕方ないよ」なんて言ってたし。

 そんな俺の思案は他所に、樹は俺がまだ寝ない宣言をしたのを良い事に、俺のベッドに勢い良く腰掛けた。トスン、と軽い音がする程度なので、まあ彼女の小柄さが良く分かる。


「……で、何だよ樹」


 ベッドの上に落ち着いた樹を確認して、俺は学習机に向き直る。どうせなら勉強するかと、鞄から教材を引っ張り出そうとした。


「お兄ちゃん、全寮制の学校受けるって本当?」


 と、すれば、樹のそんな声で止められる。

 確認された事は確かに事実だった。だが、甘えん坊な樹にはギリギリまで知らせないでおこうと、この前両親と美月姉さんの四人で話し合って決めた事だった。

 何処から漏れたのだろう。そうは思うものの、事実は事実だ。知らせないでいるのが正解かどうかは別として、嘘を吐くのは良くないだろう。

 俺は鞄から数学の教材を引っ張り出した。


「……本当だよ。ごめんな、黙ってて。兄ちゃんどうしてもやりたい事があってさ」


 そんな風に釈明する。まあ、やりたい事があったのは事実で、それをやるには全寮制の大学に通うか、住んでいる田舎からは離れた遠い大学に通うかの二択だった。結果的にはどちらも家を出なければいけなくて、ならば週一で帰って来られる全寮制の学校の方が良いかと思ったのだ。

 だが、こんな話は樹に言っても、仕方ないだろう。俺の我儘で寂しい思いをさせてしまうのは変わり無い。

 泣いてしまうだろうか……。そんな風に思いながら、数学の教材を机に広げてから、樹が座る方へ視線をやる。


「うん。分かった。仕方ないよね」


 すると意外にも、樹は真面目な顔に僅かな寂しさを思わせる程で、二つ返事でこくりと頷いてくれた。……ふう、良かった。と、俺は安堵の息を吐く。


「……んでさ」


 しかし、樹の本題はそれじゃなかった。

 改めるような言葉にハッとして、教材へ向き直りかけていた視線を再び樹へとやる。すると彼女は俯き、上気した頬を更に真っ赤にさせて、股の間に両手を挟んだ体勢でモジモジとしていた。

……何だろう? 一体。


「……お兄ちゃんさ。私好きな人いるんだけど、知ってた?」


 唐突に言われた言葉。

 初耳だった。俺はポカンと口を開けて、突然の彼女の独白に首を横に振る。


「そっかぁ。やっぱ知らなかったか……」


 なんてごちる樹。

 そりゃあそうだろう。今の今まで甘えん坊な妹と思っていたのだから、恋をしているだなんて大人びた印象を持てと言うのは些か無理がある。


「……告白とかは?」

「してない」

「……しないのか?」

「出来ればされたい」


 そこから二三言葉を交わしていく。

 いやはや、妹に好きな人がいるとは。寂しい気もするが、なんと喜ばしい事か。初恋は実らないと言うが、是非実って欲しいだなんて、俺は呑気にそう思っていた。


「アプローチはしてるのか?」


 少しばかり親心と言うか、兄心と言うか、お節介だとは思いつつもそう聞いてみる。すると妹はこくりと頷いた。

 贔屓な目線かもしれないが、樹は可愛い。目はぱっちりと大きくて、二重だし、鼻筋は小降りながらも通っている。桜色の唇だって、とても愛らしい。こんな妹がアプローチをしているのならば、きっと彼女の恋は遠からず叶うだろう。……いや、叶って欲しいと、そう思った。


――そして、俺は取り返しのつかない間違いを犯した。


「なら大丈夫だな。兄ちゃんが家を出るまでにちゃんと実らせろよ」


 そう言った俺に対して、樹はうんと花が咲いたような笑顔を見せた。



 高校三年生の冬。

 俺は学校の時間外に制服を着ていた。

 登下校の時間じゃない。俺の制服は、制服として着られていなかった。今日、この堅苦しい学ランは、『喪服』として着られていた。


『故・佐々木千恵美』


 多くの花束が作る壇に飾られた幼馴染みの写真は、何処か懐かしい顔をしていた。確かあれは、高校一年生の時のクラス写真だ。そんな風に思いながら、呆然と見詰めていた。


『つぅくん。あそぼーよー』

『えー。ちえみとあそぶとおままごとになるもん。いやだー』

『なんでよぅ。おままごとたのしーよー?』


 三歳の頃からの付き合いだった。多分家族を除けば、俺が一番言葉を交わした親友。……いや、つい先日親友でもなくなっていた。


『つぅくん。全寮制入るんだよね?』

『……ああ』

『ならさ、あたしと付き合わない? もう腐れ縁上等って感じでさ』

『……なんだそりゃ。バカか』


 なんて、ふざけた言葉の延長上で始まった新しい関係。千恵美は俺の恋人になった。

 ずっと一緒だった。思春期とか、周りの冷やかしとか、そんなのは全く気にもしなかった。『夫婦でご登校ですか』なんて、まだ親友の頃の俺達を冷やかした奴が居たけど、俺と千恵美はケラケラと笑いながら『んじゃあ結婚するか』なんて笑い飛ばせる程、恥じらいも遠慮も無い関係だった。

 恋人になったとて、それは全く変わらずで。つい一昨日に『じゃあ明日は少しカップルらしくしてみるか』なんて、漸くデートの約束をした風なもの。

 なのになんで……。


「千恵美……」


 なんで死んじまうんだろうな。

 俺は呆然と眺めるしか出来なかった。彼女の遺影も、彼女の死体も、彼女が死んでゆく様も……。


 その時は学校の帰り道だった。


『つぅくん。あのね――』


 そんな言葉を呟いた千恵美。その彼女の身体が僅かに前へ跳ねて、数歩彼女がたたらを踏めば、信じられないと言う顔付きで彼女は俺を見詰めていた。


『おい、あぶねえだろ!』


 なんて叫びながら、千恵美に後ろからぶつかった黒いパーカーを着た人物が逃げていくのを、俺は見送った。

 横でどさりと音を立てて崩れる千恵美。ハッとして膝を折れば、彼女は目を見開いてガクガクと唇を痙攣させながら、ひゅっひゅっと短い息をしていた。


『千恵美? おい、千恵美!』


 そんな言葉を投げ掛け、彼女の肩を揺らしてから気付く。彼女が地面と水平に寝ていない事に。

 なんだろうと思って、気が気じゃ無くなりながらも彼女を抱き起こし、そこで漸く気が付く。


 千恵美の腰には、斜め後ろから深々と包丁が突き刺さっていた。


 突然の出来事に思わず俺は震え上がった。息をするにも身体がショック反応を起こしているのか、痙攣してしまって息が吸えない千恵美。目を見開いたまま、呆然と空を眺める彼女は、何も言う事もなくそのまま力を失った。

 つー、と唇の端から血が流れてきて、そこで俺は初めて千恵美が死んでしまうと気が付いた。


 勿論、手遅れだった。

 深々と刺された包丁は明確な殺意があったのか、刺しては思いきり柄を捻っており、身体にとって非常に重要な臓器を確実に抉っていたらしい。それを聞いた俺は、ただただ呆然としていた。


『つぅくん』


 優しげに呼んでくれる親友が、恋人が、もう居ないだなんて、思えなかった。



――取り返しのつかない間違いは、まだ俺に刃を向け始めたばかりだった。



 千恵美が死んで、一週間が経った。俺は受験前だと言うのに勉強を投げ出して、部屋にじっと閉じ籠る日々を続けていた。食事は愚か、睡眠さえも取らず、学校にも全くもって行こうとしなかった。両親は始めこそ『ちぃちゃんが見てるぞ』なんて事を言っていたが、千恵美はもう居ない。毎朝迎えに来てくれる彼女は、もう何処にも居ない。俺はそう主張して、話し掛けないでくれと八つ当たりまがいに叫んだ。

 それからだ。両親の声がしなくなったのは。


 千恵美は俺にとって、世界の半分を占めていた。そんな事を思う。何をするにも一緒だった彼女は、どんなに尤もらしい理由を付けても、俺の行動原理そのものだった。

 全寮制の学校だって、彼女が褒めてくれた俺の趣味が転じて目標になったもの。俺が今籍を置いている学校だって、近くで楽そうだなんてこじつけた理由にして、彼女と一緒だから受験したものだ。そう、まさしく俺の中の半分は千恵美が埋めていた。

 死んでから気付いた。遅すぎた。


 大好きだなんて、死んでから言ったって仕方ないのに。今更気が付いたって、彼女の耳には聞こえないのに。



『今日はつぅくんとお出掛け。夏休みで暫く会わなかったから、夜までカラオケに行って遊んだ。つぅくんはやっぱり声が特徴的だと思う。きっと夢も叶うよね。いつかテレビで聴けたら良いなぁなんて、夢を見すぎか、あたし』


『……まだ言えないよ。この気持ち。つぅくんが進学しちゃうまでに、なんとか言えたら良いんだけど。今の関係壊しちゃいそうだし、つぅくんからしたらあたしってみぃさんとか、いっちゃんとおんなじかもだし……。フラれるかなぁ。それは嫌だよーっ!』


『……な、な、な、なんと! 冗談にかこつけて告白してみたら付き合えた!! 流石つぅくん。冗談半分で女の子と付き合うとか、ぶっ飛ばすぞこのタラシやろーが! うへへ、嬉しくって腕が震えて、胸のドキドキがおさまらないよぅ』


『で、デートの約束をしちゃいましたでございまする! て言うか、つぅくん絶対にあたしのポーカーフェイスに騙されているな、ふっふっふ。……この日記見られたらどうしよう。いっそ死のう』



 もう、何度読んだか分からない千恵美の日記。赤裸々な彼女の心情を見れば見る程、俺の心は磨り潰されそうになる。

 千恵美の最後の目が忘れられない。長い睫毛の下に映る、澄んだ黒色が頭から離れない。ふと気を捕らわれれば、彼女の声が今でも何処かから聞こえてくる気がするんだ。


「……いっそもう、殺してくれよ千恵美」


 俺は掠れた声でそう呟きながら、彼女の丸っこい字が綴られた桃色のノートを胸に抱き締めて嗚咽を漏らす。葬式の時に流れなかった涙は、もうとっくに何倍増しか分からない量を流して、既に枯れてしまったようだ。

 黒いパーカーを着た人物が誰かだなんて、そいつが千恵美を殺したとかなんて、ひたすらにどうでも良い。なんで殺すなら俺じゃないんだ。なんで二人とも殺してくれなかったんだ。俺はそう思った。


 死んでから理解するだなんて、なんでこんな残酷な事を俺にするんだ。


 千恵美が好きだ。大好きだ。愛してる。この世の誰より愛してる。……なんで今更、今まで一度も言わなかった言葉を、俺の唇はうわ言みたいに呟くのか。なんで、なんで……。

 そんな風に俺が自室の床でへたり、千恵美の日記をずっと抱いていれば、ある時不意にノックの音が飛び込んできた。規律良い二回のノックで、その音を聞いても俺はぴくりとも反応を示さなかった。

 時間の感覚すら失われて久しく、『ああ、もう食う気もしない食事の時間かな』なんて、俺は思っていた。


「ツーくん。美月よ」


 けど、ノックの主は俺に毎度食事を持ってきてくれる母さんではなく、美月姉さんだった。彼女は静かな声で告げると、深々と息を吸い込むような音を立てた。


「……そのままで良いから、開けさせてね。大事な話があるの」

「千恵美の事なら……もういい」

「違うわ」


――ガチャリ。


 音を立てて俺の部屋の扉が開かれた。

 扉の前に立つ姉さんは、両手に盆を持っていて、そこに乗ったお椀が微かな湯気をあげていた。僅かに視線をやって確認すれば、俺は千恵美の所に行きたい一心で、食事なんて取るかと胸に抱いた日記をキツく締め上げる。


「ごめんね。ご飯持ってきたけど、要らない?」

「……いい」

「そう」


 美月姉さんは残念そうに溢す。どうやら食事を取らせる事が目的ではないらしい。察した俺が怪訝そうに見詰める先で、彼女は盆を持ったまま膝を折って、俺の部屋の入口で正座した。盆をゆっくりと脇に置いて、「あのね」と口火を切る。


「……お父さんとお母さんが、亡くなったわ」


 そして、そんな事を言った。


「……は?」


 俺は掠れた声で聞き返す。

 美月姉さんは首を横に振って、真っ赤に腫れ上がった目尻に涙を流していく。毅然とした姿勢をするものの、よく見れば姉さんの美しいロングの髪は、まるでボサボサだった。


「あのね。お父さんとお母さんね。……ツーくんの為にって、チーちゃんが刺された所で目撃者捜しのチラシ配りをしてたの」


 美月姉さんの顔はどんどん歪んでいく。今年で二十歳になると言うのに、その顔はまるで幼く退行していくかのように見えた。


「そしたらね、そこの近くに停まっていた車が無人で動き出して、お父さんとお母さんを跳ねたの」

「……意味、わかんねえ」


「私だってわかんないよ!」


 美月姉さんが叫ぶ。優しい姉さんが怒鳴るだなんて、生まれて始めての経験だった。

 びくりと跳ねた身体を、姉さんから距離を置くように居直らせれば、俺のその姿を見たらしい姉さんが力無く「ごめん」と告げて、もう一度唇を開く。


「少し離れた所で停まっていた車なの。窓が割られてて、サイドブレーキが解かれてた。アクセルの所につっかえ棒がしてあって、ハンドルはぶれないようになってたの」

「……それって」

「でもね」


 まさか、千恵美を殺した犯人が、父さんと母さんも? と、思った俺の口を止め、姉さんはまたも首を横に振る。


「車のエンジン、かかってなかったの。なのにアクセルにつっかえ棒って事は、運転の仕方を知らない人がやったって事なの。車が動いたのはそこが坂道だからだった……」


 ぽつり、ぽつりと溢す美月姉さん。

 その後ろに、音も立てずに樹が現れた。……ああ、樹も泣きそうな顔をしてる。暗い、とても暗い顔。似合わない顔だな、樹。そりゃそうか、千恵美と仲良かったもんなお前。父さんと母さんも死んだとなれば、そりゃあ悲しいよな。……あれ、樹、手に何か――。


「でね。何より重要なのは、その車からイっちゃんの生徒てちょ――」


――ブシュ。


 炭酸が抜ける時のような、そんな音がした。と、同時に、姉さんの目が『あの時』に見た千恵美とおんなじものを浮かべる。


「……え」


 何を、したんだ? 樹。


 何で、美月姉さんの首から、血が出てるんだ?


「やっぱ……イっちゃ……。だった、のね」


 樹が降り下ろしたものに見覚えがあった。忘れる訳もない。千恵美の腰に刺さっていた包丁と、おんなじ形状のものだ。

 美月姉さんの首の左側を一息で裂いた彼女は、さぞ満足そうにふうと息を吐く。驚愕の目を向け、左手で首を押さえながら、姉さんは樹の服を右手で掴む。


「ツー……んは、ダメ。……殺しちゃ、メ……。よ……」


 そして、それだけ言って、姉さんの身体はどちゃりと音を立てて崩れる。ぱちゃんと跳ねる血液が、人間にはそんなにも多くの血が巡っていたんだと思わせる程に大きく跳ねた。まるで水溜まりのようだった。


「ごめんね。みぃ姉」


 ガクガクと痙攣する美月姉さんを見下ろし、樹は泣きそうな顔をしながら笑った。笑っていた。


「……いつ、き?」


 そこで初めて声が出た。


「……なんで?」


 そう聞いた。

 樹は俺の方を見ると、涙を頬に流しながら、にっこりと笑って見せた。


「おにいちゃんが一番好きだからだよ。おにいちゃん以外は、二番だからだよ」


 意味が、分からない。


「おにいちゃん言ったよね?」


 何を?


「兄ちゃんが家を出る前にちゃんと実らせろよって」


 恋愛相談だっけ。

 ああ、確かに言ったな……。


「私が好きなのはおにいちゃん」


……そういう事か。


「おにいちゃんが好きだから、ちぃちゃんも好きだったけど、邪魔だったの」


 それで千恵美が死んだのか。


「お父さんとお母さんは、おにいちゃんが邪魔に思ってるみたいだったから殺したんだよ?」


 ああ、千恵美が死んでから、そういや邪魔に思ってたよ。


「みぃ姉は……何でだろ? 気付いたからだね」


 はは。なんだそれ。



――つまり、全部俺のせいか。



 そこで、俺の意識は途絶えた。



 下が騒がしい。どうやら誰かが玄関前に来ているようだ。とは言え、この家の住人の樹は俺の目の前にいるだろう。出るつもりも無いのか、俺の前の気配は動くつもりも無いようだ。


「……警察か?」


 俺はしゃがれた声で問う。


「そうじゃない? まあ、無理矢理突入するつもりなら、悪いけどおにいちゃん人質になってね」

「ああ、良いよ」


 俺は樹の不躾な言葉に二つ返事で了解する。今更この命がどうなろうと知ったこっちゃないし、仮に樹に何とか復讐したとしても誰も帰ってきやしない。そんな事は分かりきっている。


「ただ、兄ちゃんの最後の頼みはきちんと聞いてくれるよな?」

「うん。おにいちゃんはいつきの事大好きって言ってくれたもん。ちゃんと聞いてあげるよ」

「そうか。なら良いよ」


 そう。

 俺はもう既に、全てがどうでもいい。苦しいのは願い下げだから、彼女のドエス染みた行為には何とか抵抗するものの、彼女が望むままにしてある。

 しかし三日間か。千恵美が死んでから、少なくとも十日。彼女はまだ俺を待ってくれてるだろうか?


「まあ、もうそろそろだろうね。生徒手帳落として来ちゃったし、何で三日間も放置してくれたのかが不思議だよ」

「……はは、樹はドジだなぁ」


 まあ、大方犯人の樹は未成年だし、彼女曰くはアリバイもしっかり作っていたらしいし、その裏付け調査とかに色々と手間取ったんだろう。何でも、あわよくば俺と一緒に遠くへ逃げてしまいたかったとか。


――まあ、樹には悪いがそいつは出来ない相談だ。


 俺の心は千恵美に会いたいって事が第一だし、樹を好きだと述べて見せたのはあくまでも家族としてだ。全ての原因は俺にあるだろうし、そう考えたらもう、これしか思い付かないんだ。

 外から聞こえる喧騒が、徐々に大きくなっていく。出てきなさいと叫ぶ声もあれば、俺や美月姉さんの名前を呼ぶ声もする。


「なあ、樹」

「……うん?」

「兄ちゃんがお前にあんな事言わなきゃ、良かったのか?」

「……うん。そうだよ。おにいちゃんが好きだなんていじょーだから、いつきずっと我慢してたもん」

「そうか」


 思わず笑っちまう。

 妹の応援をしたつもりが、まさかその宛先が俺だったなんて。道理で『知ってる?』なんて聞いてくるもんだよ。

 千恵美も、父さんも、母さんも、美月姉さんも、殺したのは樹じゃない。俺だ。俺が殺させたんだ。……だけど、警察に言ったところで樹が酌量されちゃくれねえだろうし、どうしようもねえよな。


「あ、おにいちゃん。そろそろ突入されるよ」

「ん。どうすりゃいい?」

「死にたくないって叫んでくれればいいよぉ」

「はいよ」

「そしたらいつきが、ふたりまとめて殺すから」


 俺は頷く。


 ほんと、どうしようもない妹だ。


 でも、もう、その気持ちも全部分かるから。


 最後の最後に、兄貴らしく頑張ろう。



 バタバタと言う足音が一階から聞こえてくれば、俺は声を大にして叫んだ。それこそ、泣き尽くして枯れた筈の喉を、自ら引き裂くかのように。


「し、死にたくない。殺される!」

「入ってきたらおにいちゃん殺すから! 誰も入ってくんな!」


 ピタリと止まる足音。すぐに声が挙がって、抵抗は止めるんだと罵声が飛んでくる。しかしもう俺も樹も気にした風はない。足を止めてくれれば、それで十分なんだ。



 不意に外される目隠し。


 まばゆいばかりの夕暮れの日差しに照らされ、妹の顔が俺の目の前に映った。近付いてくる彼女の顔に、俺は微笑みながら目を瞑る。

 最後の最後。兄貴としての仕事だから、どうか千恵美、許してくれよ。


()()()()()。嘘でもいつきは嬉しかったよ」


 どうやら全てお見通しだったようで。

 そうだよな。お前はこの三日間、俺をいたぶるだけで、決して『こういう事』は求めて来なかったもんな。



 重なる唇。

 口移しで渡される錠剤。


 やがてどちらからともなく息を吸えなくなって、吐き出す息も失って。代わりに悲鳴を挙げた臓器から、声の代わりに血が吹き上がってきて。




――流れる血は同じなのに、樹の血はとても暖かかった。

かすりもしないんだろうなー。なんて思いながら、賞に応募しなきゃはじまんねえと奮起し、再投稿。誤字、脱字ありませんように。


是非とも批評、感想、お願い致します。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 最初から監禁、拘束から入るということで、ヤンデレ物の王道。描写に関してもかなり読ませる力があるので、短編ではなく長編で読んでみたいなと思いました。 [一言] 頑張ってください!
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