真夏の恋は幻
「……はぁ、暑っ」
ぐしゃり、と片手で前髪を上げる。
電気設備の故障で図書室の冷房が停止されて三日、猛暑だった。
体まで溶けてしまうみたいに。
図書室の窓はほとんどが嵌め殺しになっていて、数少ない開閉可能な窓を開けるのは図書委員である彼の仕事らしかった。
「っ、はー……」
窓が開くと一瞬だけ風が通り抜ける。
それと同時に肺に溜まった不快な淀んだ空気を吐き出した。
「何だ、いたのか」
「いたわよ」
本棚に並ぶ本の背表紙にかけた手を止めて振り返ると、こちらを凝視する彼の姿。
ネクタイがないところを見ると暑苦しくて外してしまったんだろう。
いつまでも見つめられていると、あまりいい気分はしないので何か用なのかと問えば彼は顔を逸らす。
「こんな蒸し暑い中で、よく本なんか読めるな」
自分は図書委員だからいるだけだ、といった台詞。
私も彼から顔を逸らして手をかけていた本を引き抜く。
「ほっとけ」
投げつけた言葉に彼は鼻で笑って返す。
パラパラ、とページを捲ってふと思い出したことがある。
カウンターへ戻ろうとする彼の背中を追いかけるように、私も本棚の隙間から身を乗り出す。
「そう言えば、電気設備の修理はいつなの?」
止まった足、ゆっくりと振り返る彼。
「夏休み前としか聞いてないな」
やはりこの時期はどこも順番待ちなのだろうか。
まだこんな空間が続くのかと思うと気が滅入ってしまう。
そう、と頷き本棚の方へ戻ろうとすると私の背中に彼が声をかける。
「借りて行けば?ここで読まなくてもいいんじゃないの?」
一応気を使ってくれたんだろうが、余計なお世話だ。
肩にかかった髪を払いながら「私の勝手でしょ」と告げて本棚の方へ身を滑らす。
おい、とまだ何か言いたそうな声が聞こえて来て私は顔だけを覗かせる。
「頑張ってね」
その言葉を最後に私は今度こそ顔を引っ込めた。
こんな蒸し暑いだけの不快な空間でも、彼と同じ時間を共有することに意味があるのだ。
恋愛的な好きがあるのかと聞かれれば困るが、兎に角彼に好意を抱いているのは紛れもない事実。
可愛くない態度しか取れないが、暑さのせいにしておこう。
固く結ばれたネクタイを緩めて第一ボタンだけ開けてみたが、どんなことをしてもこの暑さは変わりそうにない。
椅子に腰掛け、本を開いても暑さで集中できないのが難点だ。
それでも内容を頭に入れようと文字を目で追い続けた。
ひたり、頬に冷たい感触。
出そうになった悲鳴を飲み込みサッ、と振り返れば彼とその手にはスポーツ飲料。
「ほら、やる」
「……ども」
お礼を言って受け取ると、彼は自分の分を開けて静かに口をつけた。
冷たくて気持ちいい。
ペットボトルの表面を指先でなぞってから、そのキャップを捻って開ける。
失われていた水分を取り戻そうと喉が上下に動く。
「今日はもう閉めるよ。物好きは君だけだから」
君、だってさ。
と言うか失礼なことを言われた気がしなくもないが内心ホッとする。
これ以上いたら熱中症にでもなりそうだった。
「何を意地になっているんだか」
肩を竦めて言った彼を私は睨み上げた。
「意地じゃない」
キャップを締めたペットボトルを強く机に打ち付ける。
それから本を閉じて重い腰を上げた。
「手伝う」
私の言葉に今度は彼が目を鋭くする。
「何をだよ」
「窓、閉めて回るんでしょう」
「要らない。顔色悪いし」
そう言いながら彼はペットボトルのキャップを締めて溜息を吐く。
顔色悪いって何だ、こんな場所に長時間いて顔色の変わらないあんたがおかしいんだ。
そう思っていると頬に熱が伝わった。
「良くやるよ、お前も」
息を呑む。
視線が交わる。
「俺に付き合って、良くやるよな」
暑さではない、別の汗が滲んだような気がした。
僅かに身を反らしながら彼から目も逸らす。
「違う、付き合ってた訳じゃ……。本が、図書室が、好きで……」
ガタン、と椅子を蹴ってしまう。
音のした方に視線を向ければ今度は腰が机にぶつかる音。
目の前には彼の顔。
机と彼に挟まれて逃げ場がなくなってしまう。
頬にあったはずの手が顎に移り引き寄せられる。
触れ合った唇は熱い。
ゆっくりと離れていくその熱。
彼の顔を見上げれば表情は変わらないものの、私から僅かに視線を逸していた。
「おかしい、よ。恋人でも、ないのに……こんな」
そう言っている私の手は彼のワイシャツ。
ぎゅっ、と掴んだワイシャツはシワになってしまうだろう。
「暑いから」
暑くて暑くて、熱い。
「何が起こっても今なら全部、暑さのせいにできるよ」
思考もきっと停止することを望んでいて、私達は何も考えられなくなった。