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悠久のハーモニカ

掲載日:2014/08/20

幼い頃から僕はよくこの桜の木を見に来ていた。


彼はいつもそこにいた。雨の日も風の日も、雪の日もそこにいた。


彼がどこから来たのか知るものはいなかったし、また聞くものもいなかった。


彼はいつもハーモニカを吹いていた。ある時はレ、ある時はソ、といったように、彼は会う度に違う音を、しかしたった一つの音だけを延々と吹いていた。


彼と僕は言葉を交わしたことも、目を合わせたことさえもなかった。いつだって僕はただ木を眺め、彼はただハーモニカを吹いていた。


彼に関心がなかったわけでもないし、彼を嫌っていたわけでもない。むしろ彼の奏でるハーモニカの音色を、僕はとても気に入っていた。


ただこれといって目を合わし、話す理由もなかった。僕は木を見、彼はハーモニカを吹くという目的があった。


だから偶然彼と目があったその日、彼が「やぁ、元気してる?」と、旧知の仲のように話しかけてきたことに対しても、僕はさほど驚きはしなかった。


「おかげさまで。今日はもうハーモニカはしまいかい」


僕は親しみを込めて彼に答えた。


「いや、まだまだこれからさ」


と、彼は肩をすくめた。そして再び「元気してる?」と問いかけてきた。


僕は「ぼちぼちね、でも…」と返し、その先の言葉を少し言い淀んだが、思い直して正直に答えることにした。


「寒くなってきたからかな。風邪を引いたのかも知れない。なんだか君のハーモニカの音がよく聴こえないんだ」


「そりゃ重症だ」と彼は笑う。そしてハーモニカを手元に置き小さくあくびをし、「全くもって重症」と続けた。


そんな彼の隣に僕は腰を下ろした。ここに来たのも随分と久々だ。


「いつぶりかな、ここに来たのは」


「いつか、を聞いているのなら私には分からないけど。前回はシの音が聴こえていたみたいだね」


「シ、ねぇ」


よく覚えていない。


「でも、前来た時も冬だった気がする」


チラチラと雪が降ってきた。彼はハーモニカを再び口に当てた。相変わらず音は聴こえない。


「あれから随分と時間がたってたみたいだ」


僕はマフラーを巻き直し、かじかむ指をポケットに突っ込んだ。


「やっぱり聴こえないみたいだね」


「悪いけどそうみたい」


そういって僕はマフラー越しに笑った。


「君はきっと今、そう、ド、なんだろう」


「ド?」


「一周回りきったってこと」


「ドレミファソラシ、ド、か」


僕はふっと息を吐く。


「そうさね、せっかく一周したんだ。聴いてみようじゃないか」


「何を?」という僕の問いかけには答えず、彼は桜の木に手を触れた。何処か聞き覚えのあるメロディが聴こえてきた。それに合わせて目の前の木には蕾がつき、早送りした映像のように膨らんでいく。


「咲いた」


「そうかい」


「あ、もう葉桜になったぞ」


「そうだろうとも」


「それにしても随分とアップテンポで変な曲だね」


はしゃぐ僕を見て、彼は「悪いね。私には何も見えないし、聴こえない」と微笑んだ


「これは君の曲さ。君の楽譜で演奏された、君の曲」


「僕の曲?」


「君は芽吹き、花咲かせ、葉を繁らせ生きてきた。考え、感じ、成長し、その度に君は変わっていった。そう、聞こえる音も変わっていった」


「これは君が今までに聞いてきた音さ。だから君の曲」


彼は木から手を離し、ハーモニカを口に当てて息を吹き込んだ。やはり音は聴こえない。


「私が吹く音は何時だって変わっていない」


「僕はこれからどうなるのかな」


「さぁ、ね。私には分からない。でも君は今、ド、じゃないか。終わりにも成り得るし、始まりにも成り得る」


そういって彼はハーモニカを僕に投げてよこした。


「ほら、自分で吹いてみなよ。今度は聴こえるはずさ」


言われるがまま、僕は吹き口に息をふきこむ。


空気を震わす確かなドの音と共に、僕は消えた。

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