悠久のハーモニカ
幼い頃から僕はよくこの桜の木を見に来ていた。
彼はいつもそこにいた。雨の日も風の日も、雪の日もそこにいた。
彼がどこから来たのか知るものはいなかったし、また聞くものもいなかった。
彼はいつもハーモニカを吹いていた。ある時はレ、ある時はソ、といったように、彼は会う度に違う音を、しかしたった一つの音だけを延々と吹いていた。
彼と僕は言葉を交わしたことも、目を合わせたことさえもなかった。いつだって僕はただ木を眺め、彼はただハーモニカを吹いていた。
彼に関心がなかったわけでもないし、彼を嫌っていたわけでもない。むしろ彼の奏でるハーモニカの音色を、僕はとても気に入っていた。
ただこれといって目を合わし、話す理由もなかった。僕は木を見、彼はハーモニカを吹くという目的があった。
だから偶然彼と目があったその日、彼が「やぁ、元気してる?」と、旧知の仲のように話しかけてきたことに対しても、僕はさほど驚きはしなかった。
「おかげさまで。今日はもうハーモニカはしまいかい」
僕は親しみを込めて彼に答えた。
「いや、まだまだこれからさ」
と、彼は肩をすくめた。そして再び「元気してる?」と問いかけてきた。
僕は「ぼちぼちね、でも…」と返し、その先の言葉を少し言い淀んだが、思い直して正直に答えることにした。
「寒くなってきたからかな。風邪を引いたのかも知れない。なんだか君のハーモニカの音がよく聴こえないんだ」
「そりゃ重症だ」と彼は笑う。そしてハーモニカを手元に置き小さくあくびをし、「全くもって重症」と続けた。
そんな彼の隣に僕は腰を下ろした。ここに来たのも随分と久々だ。
「いつぶりかな、ここに来たのは」
「いつか、を聞いているのなら私には分からないけど。前回はシの音が聴こえていたみたいだね」
「シ、ねぇ」
よく覚えていない。
「でも、前来た時も冬だった気がする」
チラチラと雪が降ってきた。彼はハーモニカを再び口に当てた。相変わらず音は聴こえない。
「あれから随分と時間がたってたみたいだ」
僕はマフラーを巻き直し、かじかむ指をポケットに突っ込んだ。
「やっぱり聴こえないみたいだね」
「悪いけどそうみたい」
そういって僕はマフラー越しに笑った。
「君はきっと今、そう、ド、なんだろう」
「ド?」
「一周回りきったってこと」
「ドレミファソラシ、ド、か」
僕はふっと息を吐く。
「そうさね、せっかく一周したんだ。聴いてみようじゃないか」
「何を?」という僕の問いかけには答えず、彼は桜の木に手を触れた。何処か聞き覚えのあるメロディが聴こえてきた。それに合わせて目の前の木には蕾がつき、早送りした映像のように膨らんでいく。
「咲いた」
「そうかい」
「あ、もう葉桜になったぞ」
「そうだろうとも」
「それにしても随分とアップテンポで変な曲だね」
はしゃぐ僕を見て、彼は「悪いね。私には何も見えないし、聴こえない」と微笑んだ
「これは君の曲さ。君の楽譜で演奏された、君の曲」
「僕の曲?」
「君は芽吹き、花咲かせ、葉を繁らせ生きてきた。考え、感じ、成長し、その度に君は変わっていった。そう、聞こえる音も変わっていった」
「これは君が今までに聞いてきた音さ。だから君の曲」
彼は木から手を離し、ハーモニカを口に当てて息を吹き込んだ。やはり音は聴こえない。
「私が吹く音は何時だって変わっていない」
「僕はこれからどうなるのかな」
「さぁ、ね。私には分からない。でも君は今、ド、じゃないか。終わりにも成り得るし、始まりにも成り得る」
そういって彼はハーモニカを僕に投げてよこした。
「ほら、自分で吹いてみなよ。今度は聴こえるはずさ」
言われるがまま、僕は吹き口に息をふきこむ。
空気を震わす確かなドの音と共に、僕は消えた。




