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冷たい手のひら

作者: 学無

 一面白に覆われたさびしい部屋。青ざめた顔で横たわる君をただ横から見つめることしかできない。

 いたわりの言葉をかけることも、明るく振舞うことも、一時の慰めにしかならなくて。それでも君は昔に戻ったようだと、皺だらけの顔をくしゃっとして笑ってくれた。

 未来を予想しながら何もしてこなかった自分を悔やむように、俺は君の手に触れた。

 点滴で摂取した栄養を垂れ流しにしてるかのように細く、骨ばった手は硬い。無意識に目じりを下げ、悲しみを表に出さないよう奥歯をかみ締める。

 一人先に行ってしまう彼女が、後悔に顔を曇らせないように、俺は勤めて笑顔を作った。

 顔の筋肉はこわばり、不細工な笑みになっているのは自覚していた。

 ああ、わかってる。こうなるだろうと、彼女が言ったのだ。俺もそれを承諾して付き合い始めたはずだった。だけど、……実際には今にも胸がつぶされてしまいそうだった。どうしようもない現実を嘆き、人語にならない叫び声をあげたい。

 そうしたところで未来は変わらないとわかっている。だからこそ、俺は一秒でも多く彼女に触れていたかった。

 知らず握る手に力が篭る。

 君の手は昔と変わらず冷たかった。 

 

 

「あづぃー」

 燦々と太陽が猛威を振るうグランドで、乾いた蛙の死骸みたいなうめきがもれる。

 ベンチにだらりと座り、額に手の甲を当てていたが、体の火照りは一向に鳴りを潜める気配がない。だらだらと汗を流し、体中の水分を浪費していく。

 地面におかれたボトルを拾い口をつける。温くなったスポーツドリンクが喉をねっとりとなで不快感が増しただけだった。慰め程度に渇きを癒すと俺は視線を前にした。

 照りつける日差しで視界が蜃気楼のように揺らぐ中、騒ぎ立てるセミの大合唱にも負けず猛々しい声をあげて練習する連中がいた。ユニフォームを汗と土で汚し、金属バットの甲高い打音が響くと、誰しもが歯を食いしばり、必死の形相で白球を追いかけた。

「今度の試合は勝ちてえなあ」

 最後の夏。3年間努力を積み重ね、苦渋を味わい続け、今年こそはと雪辱を誓う。

 そんな泥臭い熱情は嫌いじゃなくて、とかいう俺も普段の倍以上のメニューをこなしていた。

 今年こそは、勝つ。その想いに嘘はない。嘘はないが……

「にしても暑過ぎるだろ……」

 毎年どこかしこで熱中症がどうのとニュースを聞くが、今年は過去最大の被害が出るに違いない。去年のこの頃にも同じことを考えてた気がするがまあいい。

 後3分だけ休もうと、背を反らしたときだった。

 視界が暗くなった。額につめたい物があたり、続いて楽しげな声が降ってきた。

「みんな来週の地方予選に向けて必死なのに、エース君はこんなとこでサボっててもいいのかしら?」

「サボってねえし、クールダウンしてただけだ。つか誰だよ、エース君て。俺は英守だ。いい加減訂正するのも面倒だから、その呼び方やめろって」

 邪険に言い返しながら、額に当てられた手をどける気はなかった。ひんやりと冷たい手の感触が、湿った夏の暑さを幾分か解消してくれる。

「面倒なら諦めたらいいんじゃない? ほら、名実共にエースなんだし」

「うっせ。ひよりが言うと、からかってるようにしか聞こえねえの」

 それで満足したのか、ひよりが手をどけた。遮るものが取払われ、眩しすぎる日差しに、一瞬だけ立ちくらみのような感覚に襲われた。

 開けた視界に見慣れた少女の顔が逆さに見える。小麦色に焼けた顔、長いまつげの影となった黒真珠のようなきれいな瞳。後ろで三つ編みにした長い髪が尻尾のように伸びている。そのままサマーワンピースに麦藁帽子をかぶれば、避暑地に来たお嬢様のように見えなくもない整った顔立ちのひよりは、童心に返ったような無邪気な笑みを浮かべて覗いていた。

 よいしょ、と小さくつぶやき、ひよりが隣に座った。肩にかけていたクーラーボックスを地面に下ろし、十分に冷えたボトルを俺に手渡す。

「サンキュ」

 礼を言うなり、元もと持っていたボトルの残りを一気に飲みほし、ひよりから受け取った分をあおる。

「ぷはっ。やっぱ冷やしたてのがうめえ。段違いにうめえ」

 大げさに言うと、ひより呆れたように笑い、空いたボトルを受け取りクーラーボックスの端っこに入れていた。

「調子はどう? 今季勝てる見込みはありそう?」

「どうだか……。対戦カードは悪くはない。初戦は勝てるかもしれないが、その後がきついな。2回戦には確実に優勝候補が上がってくるから、いけてそこまでだろうな」

「そうよね。なかなか厳しいそうだわ」

 視線を横に向けると、ひよりは手元にオーダー表を持っていた。去年からの傾向を調べて予想した対戦高のオーダーらしく、いくつかの名前には△だの◎など印が付いていた。一枚めくると春大会までの成績が選手ごとにまとめられている。

 ひよりは真剣な目で過去の成績を見つめながら、もごもごと何事かつぶやき始める。本大会に常連な強豪でもなければ外部から監督を雇うことなんてしないし、顧問の教師も野球好きの中年よりましというレベルなので、こうしてマネージャーも一緒になって戦術を立てることもままあるのだ。

 とはいえ高校生に綿密な戦術が立てられるわけもなく、ひよりはすぐにため息を漏らし眉間を揉み解す仕草をする。

「ひとまず一勝すること。その後は玉砕覚悟でがむしゃらにやるしかないさ」

「はあ。俺が本大会まで連れてってやる、くらいは言えないの?」

「無理だな。俺は堅実派だから、欠片ほども望みのない目標は口にしねえの」

 凝り固まった肩をほぐすため軽口を叩くと、冷やかに細めた目を向けられる。薄い笑みの形を作る唇と合わさって大人びた色香を漂わせる。濡れた瞳に見つめられると、悪戯を見咎められたみたいにドキッとした。

「つまり、2回戦までは夢を見させてくれるのよね?」

 ひよりは言質をとったとばかりに誇らしく首をかしげた。すっと俺の頬にひよりは右手で触れる。冷たいひよりの手が、体の火照りを吸熱していく。おかげで前言が湯だった頭が発した妄言ではなく、れっきとした目標なのだと認識を改められた。

 だから、俺は回答の変わりに膝を打って立ち上がった。

「全力は尽くすさ」

 肩をすくめてつぶやいて、俺は練習に戻った。

 

 

 夏は瞬く間に過ぎ、若者も夢のあと。

 地方大会は大金星といっていいできだった。初戦は相手チームと力が拮抗していて、余裕とはいかないまでも、辛くも勝利した。続く2回戦が大方の予想通り、去年準優勝の雪辱を果たすと気合ばりばりの洛陽高校が上がってきた。俺らのような万年初戦敗退の弱小チームに勝ち目など皆無なのだが、それでもコールド試合にならないだけ健闘したことは誇っていい。

 試合に負けた後、近くにあった食べ放題の店で祝賀会をした。負けておいて祝賀もくそもないが、顧問の金で食べて飲んでできる好機に水を指す野暮なやつはいなかった。

 今年一年積み重ねた努力を労い、来年こそはと抱負を掲げて、大盛り上がりのうちに会は解散となった。

 そうして、引退する身として、最後に部室の片づけが残っていた。

 好き勝手に持ち込んだ私物をのきなみ焼却場に放り込み、汗と埃とその他もろもろによって樹海と化したロッカーや部室を簡単に掃除した。

 ひとしきり終えて部室を出ると日が暮れかけていた。

「ほんとに終わったんだな」

 いったん口に出すと、達成感や寂寥感、喪失感、倦怠感、掃除の疲労など、いろんな感情がどっとこみ上げてきた。

 夏の盛りほど熱気を持たない残暑の生ぬるい風が頬をなでる。

 すると、世話しなく駆け巡っていた想いが、胸にすとんと落ちた。

 終わったなら、また始めなければいけない。受験をして、大学に通って、サークルで今まで以上にバカ騒ぎして……、あるいはさっさと就職して、自分で稼いだ金で時計なり車なりを買うのもいい。

 愉快な想像を膨らませながら、肩にかけた通学鞄を持ち直しきびすを返す。

 正面には夕日を背負ったグランドがあって、その手前にひよりが立っていた。ひよりは俺に気づくと、胸の前で軽く手を振ってきた。

「待ってたのか?」

「そう。待ちくたびれてのどか沸いちゃったわ。帰りにコンビニかどこかに寄っていきましょう?」

 おどけた口調で誘いながら、振り返ったひよりは一向に歩き出すそぶりがない。懐かしむように目を細め、グランドを呆然と眺めている。

 2年と半年。修学旅行とか、学際とか他にもイベントは盛りだくさんだから、すべてがすべて野球に注ぎ込んだわけでもないが、もっとも思い入れが大きいのはここだった。事実だけを端的に述べてしまえば数行に収まってしまうのかもしれないが、胸のうちで燻る気持ちは語彙が貧弱な俺では一生かかっても語りつくせる気がしなかった。

 ひよりも似たような気持ちなのか、苦笑じみた笑みを浮かべた。

 思い入れの強い場所だからこそ、俺は青春をかけた戦場を、最後に湿っぽい場所にしたくなくて強がりを口にした。

「ひより、甲子園につれていってやれなくてやるかったな」

 はじかれたようにひよりが振り返る。驚愕の表情から、徐々に目じりがさ下がり呆れたものに変わっていく。

「別に気にしてないわ。もともとあまり期待はしていなかったから」

「うわ、ひでえな。最後くらい、感傷に浸ってる男に花を持たせてくれよ」

「あら、花なら盛ったじゃない。2回戦で負けた後の祝賀会で」

「刺身の付け合せの菊だけどな! あんなもん皿に山盛りにされて誰が喜ぶかっての」

 まったく、初戦の勝利投手だぞ? 何の嫌がらせだっつの。

 俺が憤慨すると、ひよりは容赦なく馬鹿笑いした。大皿が黄色い花で埋め尽くされた光景がフラッシュバックしたのか、しばらくつぼにはまって笑い続けた。

 ひとしきり笑いこけ、まだ笑みの余韻の残った顔でひよりが俺を見た。

「なら、今度こそ一緒に甲子園を見に行きましょう?」

 ああ、と頷きかけて、脈絡のないことが頭に浮かんだ。

 男ってのは中年になると無性に高校野球を見たくなるそうだ。現実親父も、夏休みを取ったかと思えば、どこに出かけるでも無く日がな一日ソファーに寝転がってNHKの中継を見ているくらいだ。

 ほんとにどうでもいいことだ。だからというわけじゃないが、どうせ勘違いで玉砕するなら都合よく解釈してやることにした。

「なあ、ひより。俺と付き合わねえか? それも高校卒業したら即刻結婚するくらい本気で」

 まさかこのタイミングで告白されるとは想像だにしたなかったのか、ひよりは目を丸めて驚く。

 やや、間が空いて、

「はい」

 嫌味もからかいも一切含まず、まっすぐ頷き返した。素直に喜ぶ彼女に、俺のほうが恥ずかしくなってつい余計なことまで言ってしまう。

「なら、甲子園のチケット買うまで死んだりすんなよ」

「そうね。善処するわ、あなた」

 しかし、ひよりはけろっとすまし顔で冗談を上乗せして返してきた。

 途端、おかしさがこみ上げてきて、笑い声が見事に重なった。

 

 

 それから、俺は県内の私立大学に進学し、ひよりも実家近くの短大に進学した。

 大学でも野球するのかとひよりに聞かれたが、その気は全くなかった。高校の3年で一区切りついたのに、同じように始めるのがなんとなく野暮ったい気がしたからだ。もちろん、4年しかない大学生活を野球一色にするのがもったいないという気持ちもある。

 各サークルの部員に勧誘されるままあちこち見学し、結局規則が緩々でのりのそ誘うな飲みサーに入った。

 新人歓迎会、花見、1学期の終了祝い、ことあるごとに飲み会が開かれ、合コンにもしょっちゅう呼ばれた。

「それでさ、板倉先輩って人なとにかく酒癖悪くってな。景気よくがばがば飲むんだけどさ、ジョッキ3杯くらい言ったとこで様子がおかしくなってな。んで、いきなり脱ぎだすんだよ。さすがに下まで脱ぎだしたときは慌てたな。3人くらいで押さえこんだけど、ありゃ彼女できねえわ」

 と、ひよりに近況の交換ついでに先の飲み会での笑い話を披露した。ひよりはえくぼを作り苦笑する。

「ほんとひで君は飲み会好きよね。いったい週に何回飲み会に行ってるの? それで単位落とすなんてどじは踏まないわよね」

「まかしとけっての。第一、進級できるぎりぎりしか講義入れてねえし。それに出席点がでかいから、出席をごまかせばなんとでもなるし」

「それは講義取る意味あるのかしら?」

「いいんだって。どうせ教養科目なんて趣味とか興味で選ぶもんだし」

 大学なんてそんなものだ。専門的なことを学ぶより、バイト、サークル、飲み会、と遊び優先で人脈を作っていくところだ。まあ、遊びでできたつながりが社会に出て役に立つかはいささか疑問だけどな。

 日々遊ぶことで頭いっぱいな俺と違い、ひよりが通う短大は1クラスでなにかする形式のが多いらしい。ひよりから聞く限りでは、高校時代とくらべて制服じゃない事と女子の化粧が総じて厚くなってるくらいしか違いがないとか。

 喫茶店で軽食をとってからそのままだらだら報告してたが、徐にひよりが眉をひそめて眉間の皺を濃くする。

「それで、飲み会常連のひで君はそっち方面でもエース君なのかしら?」

「まあな。俺って見てくれそんな悪くないしな。それに高校時代野球やってたっつたら、かっこいいって嬌声あげて食いつく女子が結構多いんだよな」

「へえ……それは、それは。私が地道に講義を受けている間にも、さぞお楽しみのようで」

「……冗談だって。いやほんと、冗談だから」

 速攻頭を下げた。だって、目じりが引きつりまくってて、口端なんか怪しげに吊り上げたりして、冗談抜きで怖いから。

「好ましいやつは結構いるけど、俺が好きなのはひよりだけだから」

 恥ずかしさを堪えてそう言うと、ひよりが目をしばたかせる。やべ、余計怒らせたかと懸念したら、ひよりはやけに上機嫌に口角を上げて笑った。

「そう。なら、口だけじゃないって証左がほしいわ」

「へいへい。ここは不肖英守がおごらせていただきますよ」

「うん、ありがと」

 ひよりは嬉しそうに目を閉じ不邪気に笑う。こういう時だけ年相応にかわいらしい顔つきになって、女て卑怯だなとしみじみと思った。

 

 

 喫茶店を出て、ぶらぶらと街を歩いていると、ひよりがふと足を止めた。

 数歩遅れて立ち止まり振り替える。ひよりは横を向いていて、視線の先にあるショーウィンドウに純白のドレスが飾られていた。

「ハッピーウエディングね」

 何の気なしに、結婚式のプランニングを手がけている会社のキャッチを読み上げる。しかしショーウィンドウに釘付けのひよりには聞こえてなかったらしい。

 結婚にあこがれる女性の例に漏れず呆けたように眺めていたが、いつしか瞳に諦めが混じり、口に仕掛けた言葉を飲み込むように唇をそっとかみ締める。

 素直じゃない彼女を見て、俺は鼻から息を吐くと隣に並んだ。ひよりもようやく俺に気づき、視線を前に戻しながらポツリとつぶやいた。

「私たちも、いつか結婚するのかしら」

 覇気のない声に、まるで結婚することを望んでいないのかと不安に駆られる。突如として沸いた弱さをけりつけるように、勤めて飄々とした声でひよりに言った。

「何言ってんだよ。俺は3ヶ月前から婚約届け準備してスタンバイしてんだぜ?」

 ひよりがちらりと視線をよこし、呆れた、とばかりに鼻で笑った。

「それは気が早すぎだわ」

「そうか? ああ、ちなみにひよりのご両親には承諾貰ったぜ? 何を隠そう証人の乱には孝之さんと籐子さんだし」

「……は? はああっ!? え、いいつっ? いや、それより、え……、はい? なんで!?」

 初公開の事実にひよりが目を白黒させ、あわあわを口を振るわせるも中々言葉にならない。うわ、こいつが我を忘れて慌てふためくの始めて見た。

「やべ、もっといじめたくなってきた」

「な、ここれ以上何する気? へ、へん、変な事したら本気で起こるわよ」

 顔を真っ赤にして服を掴むひより。見上げてくる目は少し涙が滲んでいた。いやこれで何もするなとか無理でしょ? 嗜虐心が黙ってないわ。

 こみ上げてくる欲求にしたがって、俺はすっと人差し指でひよりの目尻をぬぐう。あ、と驚いた隙に、一気に顔を近づけた。

 ほんの一瞬、リップでしっとり濡れた感触が唇に触れた。

 顔を離すと唖然とした表情で固まるひよりの姿がよく見えた。数回瞬きをして、事態が飲み込めたのか先ほどとは違う意味で頬が沸騰した。

 顔が真っ赤になっていることを自覚して、ひよりはものすごい勢いでうつむいた。

 やや、間が空いて、おずおずと手を差し伸べてくる。

「……、しばらく顔上げられないから」

 ぼそ、と強がりを口にする。恥ずかさを隠そうとして主文が抜けている。そんな彼女が無性にいとおしくて、俺は恭しくひよりの手を取った。

 ひんやりとした彼女の手を、しっかりと握りしめる。

 その時の俺は彼女との距離が縮まった嬉しさのあまり、大事なことを見落としていた。

 俺たちは時々喧嘩もしたが、その日のうちにメールで誤って仲直りして、仲睦まじく大学生活を楽しんだ。

 2年後彼女が短大を無事卒業した。

 そして、卒業式を境に彼女はついにごまかしきれなくなったのだった。

 

 

 ひよりは短大を卒業して程なく入院した。

 ひよりがいつの日か、私は死んでるのとからかわれたことを思い出した。俺が、ひよりの手が冷たいことを冗談めいて茶化したとき、ひよりは苦笑しながら私は英守より死に近いのだと答えたのだ。その時は冗談として軽く捉えていたが、今にしてみれば無頓着な昔の自分をなぐりたかった。

 それで将来が変わるわけでもないが、ふつふつと沸き立つ憤りを何かにぶつけてやりたかった。

 ひよりの病気は、他の人より老化が早いというものだった。

 人の細胞の分裂複製して古い細胞を新品に入れ替えるが、人の細胞が一生のうちに分裂できる回数というのは決まっている。何万だか、何億だか、正確な回数は忘れたが、通常は途方もない回数であって、80歳くらいまで生きても問題はないらしい。

 だが、ひよりの場合、細胞分裂の周期が極端に短いのだそうだ。つまり人の数倍も多く細胞分裂をする。よく言えば、常にピカピカの肌であり続けるわけだが、逆に一生のうちに仕える細胞分裂の回数を早々に使い切るし、細胞分裂を続けることで色素やら構成要素やらを磨耗してしまう。

 よってひよりは他人より何倍も早く年を取り、早く死ぬ。短大を通っている頃だって、肉体年齢は30代後半という有様だったらしい。それを化粧なり、服装なりでどうにか20代に見えるよう努力してのだ。

 事実を告げられ、ひよりの無理に気づいてやれなかったことが何より口惜しかった。

 ひよりが入院して、当初は毎日のように見舞いに訪れた。今日はどんな講義を受けたとか、新入生が彼女ほしくて女性雑誌あさってるのを見かけたとか、なんでも話した。

 どんなにくだらないことでも彼女は、俺の話を聞いて小さく微笑んでくれた。

 始めは彼女が笑ってくれるだけでよかった。けれど、日に日にやせ細っていく姿は見るに耐えなくなり、週1になり2周間に1回となり、と次第に足が遠のいていた。

「なあ、ひより。俺、内定貰ったんだ。ちっさい商社なんだけどさ、そこの社長江本先生みたいな太鼓っ腹でさ。なあ、覚えてるか江本先生。ほら、高1の時に担任だった達磨見てえな先生」

 着慣れないスーツ姿で俺はひより話しかけた。

 顔はしわくちゃで、目は落ち窪み、張りを失った頬は垂れ下がっていた。ほんの2年前まで一緒に笑いあっていたひよりの面影は、諦めの色をした瞳くらいだった。

 ひよりは俺の声に、僅かに口を開閉した。

 掠れ過ぎて、吹き損ねた縦笛のような音が漏れるだけだった。精神は22歳のいけいけだというのに、意思を伝える身体が追いつかない。

 結果、俺はひよりの言葉を掬い上げることすらできなかった。

 無性に泣きたくなった。なあ、ひより。一緒に甲子園見に行くんじゃなかったのかよ。俺が就職して、自分で稼げるようになったら結婚するんじゃなかったのかよ。どうして、善処するんじゃなかったのかよ。22歳だろ? まだまだ、ひよっこじゃねえかよ。人生これからだろ? なあ、ひより……

 あふれ出していく渇望は、しかし、口に出すことは決して許されなかった。

 なぜなら、生きられないことを最も悔やんでいるのはひよりなのだから。

「ひより、俺、就職したんだぜ? これで晴れて社会人だぜ? 自分の稼いだ金で服も靴も変える、旅行だっていける、車だって、マンションの部屋を借りることだって……、だから、さ」

 ひよりの手を握り、祈るように懇願した。

「だから、結婚しようぜ? 俺が好きなのは、後にも先にもひよりだけだ」

 俺の真摯な気持ちを受け取って……、しかし、だからこそひよりは緩慢に首を横に振った。

 再び、口が僅かに震える。

 残酷にもなぜか、この時の一言だけははっきりと聞き取れた。

「これから死ぬ私のことは忘れて幸せになって、英守」

 そして、数日のうちにひよりは息を引き取った。

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