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22 EEEP A STIFF LIP ――めげずに行こう――

モセ署長の念願成就ww

 目を開けた途端に、猛烈な吐き気が襲ってきた。

「う…!!」

 口を押さえて体を丸める。

 暫く悶絶していると、ありがたい事に、吐き気は少しずつ薄れていった。しかし変わりに、頭の中で艦砲射撃をされているような偏頭痛が、青年の神経を苛め始める。

 ドルフェスは、こめかみを押さえながら、低くうめくと、今度はゆっくりと目を開いた。

 薄暗く狭い部屋の中で、非常灯がぼんやりと浮かび上がっている。

 誰も居ない……

 誰かがずっと側に居たような気がしていたのに。

 そう言えば、アルタイルも居たような…?

 頭痛が酷くて考えがまとまらない。

 青年は、寝台の側に小さなテーブルがあるのに気が付いた。吸い殻が山盛りになった灰皿と、飲み物らしい液体の入った瓶とグラスが乗っている。

 そろそろと体を起こすと、瓶に手を伸ばした。

 淡い色のアルコールが、喉を潤していくと、気分が多少マシになった。

 小さくため息を吐き、寝台に腰掛けて改めて部屋の中を見回す。

 狭いというよりは、細長いと形容する方がぴったり来る。

 寝台の横に、今飲んだ酒の瓶の乗ったテーブルと、座り心地が良さそうな布張りの椅子が置いてある。その後ろはすぐ壁だった。

 壁にはシックな柄の壁紙が張られ、柱に木材が使われて、狭さの割には豪華な印象を与える。

「ここ…何処だ?」

 ホテルの地下で、ケット・シーと貴公子を見つけ、ウルに何かの薬を嗅がされて…そこから覚えていない。

 ここはホテルの一室だろうか?

 いがらっぽい喉に、もう一杯酒をすすって、灰皿を見る。

 フィルター近くまで焦げた煙草は、なんとなく見た事があるような気がした。

 懐を探って、自分の煙草を取り出す。

 パッケージが開けられ、ほとんど無くなっている。

「ひでぇ…」

 思わずぼやきが漏れる。

 どうやらここに居たもう一人は、ドルフェスの御守代わりの煙草を、勝手に呑んでくれたらしい。

 憮然として煙草を元に戻し、よく見ると灰だらけになっているシーツを叩

はた

いた。

「掃除ぐらいしていけよ…」

 無駄と知りつつ、もう居ない訪問者に文句を言う。

 アルコールが回って、冷えた体に血が通ってきた。

 頭痛も薄れ、青年は夢現(ゆめうつつ)に聞いた気がする、アルタイルと煙草泥棒の会話を思い出そうと、ゆっくりとこめかみを揉む。

 確か…ここから脱出しろと貴公子は言っていた。

 逃げ道を確保しておくとも言っていた様な気がする…そうそう、それに、滉か光のどちらかが、迎えに来るとも言っていたっけ。

 …滉が来るといいな、と、青年は期待した。

 夢で何度も見ていたとはいえ、殆ど初対面の光よりも、滉の方がずっと安心できるし、頼り甲斐も有る……

「何だよそれ、何考えてるんだ俺…」

 自分の考えに、いきなり腹が立った。

「冗談じゃない…俺は、お姫様じゃないぞ」

 庇われて、守られて、高い塔の上か、地下の迷宮で、ひたすら騎士(ナイト)の登場を待ちわびる。

 そんなみっともない真似が出来る訳が無い。

 病院の庭で見た夢…シャドウが竜造寺だと判じた男の言った言葉…

======何時まで津川のお荷物になっているつもりだ? 自分の事は自分でやれ======

 津川のお荷物。

 その言葉が改めて突き刺さってくる。

「くそ…!!」

 ドルフェスは舌打ちをして立ち上がった。

 途端にぐらりと体が傾く。頭から血の気が引き、頭痛が再開する。

 椅子の背もたれにしがみ付き、ゆっくりと息を整えながら、自分の短気を後悔した。

 もう少し、体の調子が落ち着いてから、ここを出た方が良さそうだ。

 そっと寝台に座り直して、こめかみを押さえる。

 何を嗅がされたのかは知らないが、かなり辛い。

 ふと、インキュバスという名が浮かんだ。煙草泥棒が使われたといっていた麻薬…

 アルタイルは自分にも(もち)いたのだろうか?

  「まさかね…」

 青年は軽く笑って首を振った。

 平気な顔をしていたらしい煙草泥棒ならどうか知らないが。普通インキュバスを使用(つか)った場合、人間がどうなるかは良く知っている。

 ダウンタウンで摘発と取り締まりをしていた時、夢魔の虜となった人々を何人も目の当たりにしたものだ。

 目覚めていても、夢魔の後ろ姿を追う様に空を見つめる者。

 見えない恋人と語り合い続ける者。

 肩に触れただけで、性的絶頂に達してしまう者までいた。

 殴ろうが蹴ろうが、ただ官能的な喘ぎを漏らすだけの使用者…

 壊れた人間達の群…

 常習者だけではなく、初めて使ったらしい者でも、どこか退廃的で淫猥な微笑みを浮かべた者がほとんどだった。

 インキュバスを使うと、痛覚が変化する。たとえ腕が千切れても、激痛は快感へと代えられて、歓喜の絶叫を迸らせるのだ。

 警察での隠語は[マゾ薬]

======マゾ薬なんぞを使うんなら。家でかみさん可愛がっていた方が、よっぽど家庭平和と社会平和に貢献できるってもんだよな======

 ゾルゲがしみじみとぼやいていたのが、思い出される。

 インキュバスはそれ程悲惨な毒薬なのだ。

 今の自分が、快楽に酔っているとは思えない。

 むしろ、地獄の不快感と表現する方がぴったりくる。

 どうせ麻酔か筋肉弛緩薬だろう。

 昔から薬が効きにくい体質で、医者に行った時など困った事が多かったが、よほどきつい薬を使ったのに違いない。だからこんなに苦しいのだ。

 結論に納得して、もう一杯グラスを傾けた。

 それにしても、あのインキュバスを0.2mgも使われて、平気な顔をしていた煙草泥棒は、いったい何者だ?常識では考えられない抵抗力である。

 煙草泥棒の体力が羨ましい。強張る首筋を揉み解しながら、ドルフェスはため息をついた。

「顔が見てみたいよな、煙草の文句も言いたいし」

 鏡を見たら早いような事をつぶやいて、寝台に体を伸ばす。

 青年は、灰皿の中に小さなアンプルが捨てられているのに気がついたが、まさかこれがインキュバスと並んで最悪といわれる覚醒剤、スネルトィが入っていた小瓶とは知らない。

 頭痛、吐き気、筋肉の強張り等は、スネルトィの離脱症状なのだが、医療知識の無いドルフェスには解かるはずか無かった。

 そして、しばらく横たわっているだけで、その症状さえも次第に回復していく自分の体の異常さにも、気がついてはいない…

 青年の体の中からは、インキュバスもスネルトィも、既に消え去ろうとしていた。


                            *


 誰かが呼んでいる…

 小さい声…幼い声…

 誰を?

 …俺を・…

「にーた…にーたん…ドコ?」

 赤ん坊に毛が生えたぐらいの幼児が、よたよたと歩いてくる。

 こっちを見て、嬉しそうにニパっと笑った。

 ふわふわとした薄茶の髪を揺らしながら、幼児は両手を広げて走り出す。

 あやふやな足元にひやひやしながら見ていると、案の定、右足に左足で躓いて鼻からスライディングした。

 慌てて駆け寄る、が、幼児はもう居ない。

「兄さん」

 振り向けば、10歳前後の少年が笑っていた。

「滉が泣いて帰ってきたよ。滉を叱ってくれたの、兄さんでしょ?」

 肉の薄い肩が竦められる。

「滉の奴、このごろ自分の力が解かって来ててさ、暴走しそうで心配していたんだ。兄さんが止めてくれたからもう大丈夫みたいだ。可哀相って 言葉を覚えたらしいよ。僕も安心したよ」

 少年は近寄ると、急に眉をひそめた。

「また怪我をしてるんだね。兄さんが実家(いえ)に帰ってから、包帯が取れたのを見た事無いよ。」

 悲し気に呟きながら、手を伸ばして腕に振れてきた、初めて自分が腕全部に包帯をしているのに気が付く。

 そう…これは実験台の証拠だ。

 身体を切り刻まれ、血液体液を採取され、あらゆる薬物を試される…時々殺されるのを望みたくなる時もある。

 だが悔いはない、自分は確かに力を付けている、自分の事も解かり始めている。

 もっと力を付けるのだ、双子を守るために、そして、この少年を守るために…

(うち)に戻って来てよ。父さんや母さんも心配してる。また、みんなで暮らそうよ」

 懇願する少年に視線を戻したが、もう居ない。

「兄さんは双子を甘やかし過ぎなんだって」

 薄茶の髪の青年が笑う。

「月絵ちゃんが言ってたよ。『危なくなったら俺に頼れ。それぐらいならやってやる。って言ってて、結局全部してるじゃない』だって」

 ロッキングチェアが気楽に揺れ、青年は脳天気に笑う。

「僕が、だって兄さんだもんって言ったら、『学ちゃんは呑気過ぎるわ』って、今度は僕が怒られちゃったよ」

 軽く肩を竦める。相変わらず肉の無い薄い肩だ。

「挙げ句の果てにさ、『兄貴達が2人掛かりで甘やかしているんだから、兄嫁として、あたしが厳しく苛めとかなきゃ』だって。思うんだけどさ、兄さん。光が怒りぽいのって、月絵ちゃんの影響じゃないかな?」

 不意に、頭上から鐘の音が降り注ぐ。

 華やかに、祝福を投げかける。

 タキシードを着て、青年というよりは多少老けた男が目を潤ませて飛びついてきた。

「兄さん、僕等やっと本当の兄弟になったね」

 後ろから女の声がする。

「妹婿よ、兄さんじゃないでしょ? 学ちゃん」

「僕には兄さんなんだよ月絵ちゃん。一生兄さんなんだ」

「じゃあ、光が姉さんになるの?」

 女の問いに、男は、困ったように眉を上げる。

「どうなんだろう・・…?」

 二度(ふたたび)鐘が鳴る・…

 鎮魂の叫びは、長く、悲しく、尾を引いていく…

 振り向くと、墓標が3つ並んでいる。

 その前に(うずくま)った喪服の男が、ゆっくりと立ちあがり振り返った。

「双子は兄さんに守られて、幸せな一生だったよ。僕だってそうさ」

 ハシバミ色の目に悲しみを浮かべたまま、男は精一杯明るい笑顔をしてみせる。

「双子は兄さんを置いていってしまったけど、僕は、ちゃんと年功序列を守るから安心してね」


 学…お前は何時も笑っている…お前の笑顔にどれほど支えられていたか…

 今はもう…何処にも居ないのだ…

 俺の…弟…



 つかの間のまどろみから、青年はゆっくりと覚醒した。

 耳の中で未だ鐘が鳴っている様な気がする。

 薄茶の髪とにこにこ笑顔が、目の端にちらついている。

 自分の中にある記憶の主には、どうやら可愛く素直な弟がいたらしい。

 何だか幸せな気分で起き上がり、不快感がすっかり消えているのにほっとした。

 思いっきり伸びをして、さて、と、扉を見つめる。

 自力で脱出しようと決めたのは変わらない。今、自分が何処にいるのかさえ解からないが、もう、誰かに助けてもらうのなんてまっぴらだった。

 しかし、果たしてあの扉は開くのだろうか…?

「やってみなきゃわからないよな」

 取りあえず、今のモットーは果敢にチャレンジだ。

 ドルフェスはグラスに残っていた酒を飲み干すと、思い切りよく立ち上がった。今度はめまいが起こらない。しかし、急に右に体が引っ張られる。

「え?」

 なにか嫌な予感がする。今のは確かに慣性がかかった時の感覚だ。

 慎重に扉に向かい、開閉スイッチを押す。

 軽い油圧音と共に、扉はあっけなく開く。だが青年には当然だという気がした。

 何故ならば…

 古風で豪華な室内とは対照的に、金属的な内装で覆われた通路は、廊下の片側、ドルフェスから見て真正面に大きく窓 が開かれている。

 窓の外は、窓の形に照明が映った壁。時折非常灯が流れるように横切っていく。

「リニアだ…」

 地下を走っているのは、住宅街に入っているからに違いない。

 監禁されていないはずである。走る監獄の中ならば、何処へ逃げられるというのだ?

「どうしよう…」

 ぐらつく決意を、頭を振って追い払った。

 弱気になってはいけない、何か対策を考えるのだ。

======………れ、それぐらいならやってやる======

 不意に、誰かの言葉が浮かんできた。

 眠っている時に、誰かが耳元で言っていた…

======危なくなったら、俺に頼れ、それぐらいなら、やってやる======

 危機的状況にある現在、実に有り難いお言葉だったが、自立を目指している青年には、"頼る" という単語が癇に障った。

「ちくしょう…」

 何処のどいつか知らないが、目の前に居もしない奴にどうやって頼るのだ?

 第一、せっかく津川を当てにせずに自力でやろうとしてるのに、お前なんかに助けられて堪るものか。

 なんとしても、自分の力でここを切り抜けよう。

 それが叶わずとも、何とか納得のいく事をしたいのだ。

 取りあえず、後列に行こう。動けばなんとかなるはずだ。

 全然根拠の無い理由で自分をなだめながら、ドルフェスはそろそろと歩き出した。

 今のところ、望みといえる事は、重要人物が乗っている(勿論アルタイルの事である)こんな大きな物が、警察機構の目に留まらないはずが無 い、という事である。

 迎えに来る(らしい)滉は、連合警察機構の警部であるし、ドルフェスの属するベースの市警察だって、負けてはいないはずだ。

 ドルフェスは、自分の所属する分署に誇りを持っている。

 なにせベースシティで、№1の検挙率なのだ。

 署長はシティのお偉方に、何故か強力なコネがある。それに、アルゴル本星とも、何らかの関わりが有るらしいのが、迎賓館の晩餐会で伺われた。

 あんな見た目をしているが、実は、ベースでも、1,2を争う切れ者だ。ついでに、モセの右腕として、セーレオ部長ほど恐い人は居ない。

 警察学校を卒業する時に、25分署に配属が決まった者達は、教官達から同情のこもった視線を投げかけられた上に、まことしやかに囁かれる、 地獄の25分署の噂を吹き込まれて、運命に戦々恐々としながら入署してくるのだ。(入ってみると、あまりにも普通なので、気抜けしたのを覚えている。)

 そんな彼等が、手を(こまね)いているはずが無い。

 たとえベースシティを出たとしても、いや、それならば路線は地上を走るのたから、それこそ絶対に、このリニアを見失うはずが無い。

 リニアとて、いつまでも走っている訳には行かないのだから、必ず警察の包囲網に、取り囲まれるはずだ。

連結部まで来て、足が止まる。

 なら、刑事として、自分は何をしておかねばならないだろう?

 ここのところの騒動で薄れがちだった職業意識が、青年の中で首をもたげ始める。

 自分が逃げる事ばかりを考えている場合ではない。

 自分と同じく、ケット・シーに誘拐されているらしいアルタイルを見つけ出し、保護(必要があるのかは知らないが)し、共に脱出する。

 たとえ、最終的に津川に助けられるとしても、それだけの行動を起こしておけば、塔の中の姫君の屈辱は味会わずに済むだろう。

 青年は、決意を込めて頷いた。

 誰でもそうだろうが、今まであまり行動していなかった人が、突然何かしようとすると、あれもこれも一遍にやろうとする傾向がある。

 今のドルフェスが正にそれで、出来るかどうか解からないが、とか、能力の及ぶ限り、などと、自分に言い訳をしながら、すっかり、無謀な計画を実行する気になっていた。

「でも、御前達は何処に居るんだろう?」

 リニアに関する情報が欲しい。どうすれば手に入るだろう?

 シネムービーの主人公が、敵を捕らえて情報を聞き出す様を思い浮かべて、苦笑しながら首を振る。

「毒されてるなぁ…」

 物語のヒーローを地で行く様な滉なら、そんな手も使えるだろうが、ここはもっと現実的に行こう。

 青年は、乗降ホールのディスプレイに歩み寄った。

「使えるのかな?」

 駄目で元々。車内案内を選んでキーを押す。

 三十五連結の全車両と現在位置が表示される。自分の居るのは10両目、アルタイル達は何処だろうか?それらしい車両を探す。

「あれ? これは…?」

 丹念に車両を確認しながら、ドルフェスは首を傾げた。

「寝台車しかない…」 先頭の車両ですら寝台車で、操縦室が見当たらない。

 本来、すべて中央管制室の操作によって動いているリニアだから、通常、操縦室が無くても別に不思議でも何でも無い、しかし、いくらなんでも、誘拐犯が走らせている(であろう)この列車で、操縦室が無いなんて…?

「当てになるのか? この車内案内」

 そもそもこんな状況下で、車内案内が見られる事自体、変かもしれない。

 ディスプレイは続いて車内のサービス施設の案内に移っている。

 車掌業務を担当するホストコンピューターとのリンク法方や、ありもしないレストランの営業時間、チケット確認のアクセス時間などが、次々 に現れ、最後にスチュワードの紹介になった。

 画面が切り替わり、さえない男が映し出される。

「!!」

 これといった特徴の無い、地味な男は、ドルフェスの背筋を冷たく凍らせる。

「ケット・シー………」

 青年の呟きに合わせて、口の両端が釣り上がり、嫌でも忘れないV時型の笑みを形作る。

「御乗車有り難う御座います。私が、貴方の旅のお供をさせて頂きます」

 慇懃な口調で化け猫の頭領が語りかけてくる。

「当車両はホテルトラディシュを、20セクレット発、魔王の(あぎと)に、25セクレット着、良い旅をお楽しみ頂けます様に、誠心誠意お世話 させて頂きます」

軽い一礼の後、あの青紫の目が、ぴたりと青年を見据える。

 人ではない視線に耐え兼ねて、我知らず足が後ろに下がり、そのまま踵を返すと、脱兎の如く逃げ出す。

 モニターの中では、青年の背中に対して、ケツト・シーが深々と頭を下げていた。



 フロントウインドウには、住宅街の中央を疾走し続けているリニアの記号が映し出されている。

 何処を目指しているのか?

 アルタイル達がリニアに乗り込んでから、既に45分(コーチ標準時間で3セル)が経過していた。

 リニア管理会社の管制センターに陣取っているモセと魅羅が、笑いながらも、的確に指示を出し、リニアは都市外苑部 を走るように誘導され、今は巨大な楕円軌道を描きつつ、出口を求めるように迷走している。

 光は、何度かリニアのデータの照合ついでに、走るリニアへの山のような愚痴と罵声をわめき散らした後、10分ほど 前に、『進入口発見。乗り込む』という連絡を寄越して沈黙した。

 通信機からは、引きつけを起こした雨蛙のような、魅羅の笑い声が漏れ続けている。

 息も切れ、だいぶ苦しそうだ。

 怒鳴り散らす光と、笑い転げる魅羅。どっちが始末に負えないだろう…?

 特にする事も無く、ぼんやりとリニアを見る。

 何よりも苦手な待機を割り振られた上に、魅羅とモセの笑い声を延々聞かされる。これは新手の拷問だろうか?

 あえて口を挟む気力も失せ、小さなため息がもれる。

「シャドウ、変化があったら起こしてくんな」

 遂に音を上げた滉は、シートをリクライニングさせて体を伸ばす。

 一つ大きく息を吐くと、たちまち軽い寝息をたて始めた。

 2秒で眠れるのは、皆が羨ましがる滉の特技である。

 彼の人生は、ある一時期を除いて、不眠症の文字とは無縁であった。

『あー!!滉ねちゃったの?』

 車内の静けさに気付いて、魅羅が不満気な声を出す。

『当たり前です。おいたが過ぎますよ、魅羅』

 母親らしい口調で小言を言うシャドウに、魅羅は通信機の向こうで、ぺろりと舌を出したようだ。

『はーい、マザー。ごめんなさい』

 素直に謝っておいて、パンパンと手を叩き出す。

『滉、滉ったらぁ。私が悪かったわ、ごめんするから起きて』

 何度か声をかけると、滉が片目だけをうっそりと開いた。

「やっと収まったか、笑い袋」

『ひっどぉい』

「何が酷いんだか…」

 ぼやきつつ起き上がる。

 姿は見えなくても、魅羅がわくわくとこちらの返事を待っているのが、手に取るように感じられた。

 伸びとあくびを一緒にしてから、娘の期待にこたえてやる。

「んで?」

 管制センターで、女2人は顔を見合わせて、小さく笑い合ったらしい。

『説明は、ナディーラから。ね』

 署長を馴れ馴れしくファーストネームで呼んでみせるのが、滉の危惧を深める。

 魅羅とモセは、『どうぞお先に』とか『恐れ入ります』などと、楽し気に譲り合っている。

 やがて、再び込み上げてくる笑いを、こほんと小さく咳払いをして押さえたモセが、口を開く。

『Mr津川、私、女性としての魅力有りますかしら?』

 意外にも、この手の話題をはぐらかすばかりだったモセから、そんな質問が出る。

「魅力が無かったら、食事に誘ったりしませんよ」

 滉が力を込めて言うと、深いため息が聞こえた。

『良かった。これで、賭けは私の勝ちですね』

「へ?」

 嬉気として、熟女は繰り返す。

『私、Mr津川との賭けに勝てて、とても喜んでおりますのよ』

 唐突な台詞に、滉は点目になった。

 いつどこ何時何処で、モセと賭けなどしたのだろう…全然覚えが無い。

『あら、お忘れですの?』

 あくまで楽しそうに、モセの声が返ってくる。

「はぁ…えーと…」

 言葉を濁す滉に、少し落胆した響きを加えたモセの声がかぶさる。

『あんなにしっかりと、お約束して下さったのに…』

「いや…はぁ…まぁ、…済みません」

 訳が解からなかったが、取りあえず謝ってみた。

 我ながら、信じられない失態である。女との約束を忘れるなんて、産まれてこのかた滅多に無い筈なのに…

『ま、そんな事だろうとは、思っておりましたけど』

 ため息交じりにそう言われて、滉の自負心はいたく傷ついた。

「面目ない」

『宜しいんですのよ、賭けには勝ったんですから。ちゃんと報酬も頂きますわ』

 再び明るい声になったモセに、プレイボーイの顔になって頷いてみせる。

「もちろん、出来る事なら何なりと」

 また、女同士の含み笑いが聞こえる。

『なら、お約束通り、"ミ・ラ・ユルク"で、ディナーを御一緒して下さいませ』

 "(ミ・ラ・)ける栄光(ユルク)"モセの言葉に滉はにんまりとする。

 アルゴル主星の最高級レストランを指定されるとは、かなり脈有りと見た。

「喜んでエスコートしますよ」

 魅羅がくすっと笑うのが聞こえた。

『嬉しいわ。こんな歳になっても、殿方にデートして頂けるなんて』

 モセの声は弾んでいる。

「こちらこそ、貴女ほどの方をエスコートできて、嬉しいですよ」

 今度はモセが喉の奥で笑う。

『本当に私は魅力がありますの?』

「貴女程の女性は、なかなか居ませんよ」

 もう一度訊ねられ、滉はしっかりと請け合った。


 が、しかし。


 口説き文句と社交辞令の、どっちにでも取れる言い方をしながら、実は、内心焦っていた。

 思わせ振りなモセの言葉は、何時もの滉になら願っても無いことなのだが。

 今はまずい。

 さっきから沈黙してはいるが、シャドウはしっかり聞いているに違いない。

 前代未聞の浮気男だの、タラシのトンデモ男と、家族中に認識されている家長だが、さすがに、自分の妻の前で、他の女性を口説くのはやりにくい。

 女2人が、またクスクスと笑いあった。

 モセが口を開く。

『ダフネ姐様の次に、でしょう?』

「え…!?」

 まるで今の心境を言い当てるような台詞に、一瞬度肝を抜かれたが、魅羅が側に居るならそれくらい気が回って当たり前だと思い直す。

「お見通しですね」

 苦笑して答えつつ、ダフネのことまで教えた魅羅に少し腹が立つ。

 しかし、モセの言い方も気になる。

 何故、奥さんという一般的な言い方をせずに名を呼ぶのだろう?

 双子の妹の光よりも、滉を理解しくれている賢夫人。彼女を名前で呼ぶ者は、実は少ない。

 しかも、「姐様」とは…そう、さっき光にもそう呼んでいた…

 眉根を寄せてから肩を竦める。

 考えるのは苦手だ、解からなかったら聞けば良い。

「署長、先ほどから仰っている姐様ってなんですか?」

 とたんに、2人は嬉しいのか悲しいのか判ら無い、深いため息を吐いた。

「は?」

『やれやれねー、我が父ながら、ここまで鈍いとは思わなかったわ』

 勝ち誇るように魅羅が言う。

「何だよそれ」

 滉の文句にモセのくすくす笑いがかぶる。

「署長…」

『本当に……全然変わってねーな、滉の兄貴』

 いきなり蓮っ葉な言葉を吐くモセに、滉は驚天した。

 いくらなんでも、モセからこんな言葉が飛び出すとは思いもしなかった。

『まだわかんないのかい?滉の兄貴』

 繰り返す言葉に、遠い記憶が蘇る。

 アルタイルと共に、双子と竜造寺がアルゴル本星を目指した時、世話係と通訳をかねて、4人に付けられた子供が居た…光やダフネはお姐様と呼ぶくせに、滉と竜造寺を兄貴と呼び、誰を真似たのか、いくら注意しても、男よりも酷い言 葉を使う、まだあどけない、クリーム色の髪の少女…そう、その少女となら、遥か昔に賭けをした。

 女扱いされない事の文句に、良い女になったら、銀河で一番高級な店でエスコートしてやると……

「まさか…ちびのナティか?」

 とたんに、魅羅が歓声を上げる。

『ピンポーン! 正解!! ヒューヒュー』

 パチパチと2人で拍手も送ってくれる。いや、一人多い。

 滉は、もう一つの通信機を睨みつけた。

「シャドウ…お前も知っていたんだな」

『済みません、光さんに口止めされていたんです』

 すうっと目を細める。

「光だとぉ?」

『はい』

 屈託の無い返事に、苦い物でも舐めたような顔になる。

 してやられた。

 おそらく、この星に来る前から、口裏が合わされていたに違いない。

 そう、この事を知らなかったのは、きっと自分だけだ。

「…シャドウ、魅羅。おめーら津川の女は、ろくでもねーな!!」

 怒鳴る父に、娘の答えは落ち着き払っていた。

『何方様かの、御教育の(たまもの)ですのよ』

 ほほっと上品に、妻と娘が笑ってみせる。

『滉の兄貴が初めて署長室にいらした時、きっと気がついてくれるって思ってましたのよ』

 モセは恨めし気に言う、

『それなのに、今まで解からないなんて』

「ナティのくせにそんな上品な言葉使うんじゃねぇ!!すっかり騙されたぜ」

 滉の文句に、女署長は笑ってみせたらしい。

『私、大戦後は、ずっと香花様の側仕えをさせて頂きましたのよ。行儀作法は、セファート王室直伝ですの。ご存知でしょ?』

「くそー」

 歯噛みする滉に、嬉し気に魅羅の声が浴びせられる。

『それにしても、苦労したわ。滉に悟られないために、D・Dの前でだって、お芝居してたんだもの』

 こいつなら、それぐらい驚く事ではない。

 人を驚かす事に命懸けになるのが、津川の人間なのだ。

「どいつもこいつも…大体、なんでナティが此処(ベース)に居んだよ」

『…私、前にお手紙をお送りしたと思いますけど。香花様が身罷られた後、御前の勧めでモセ・カルバンと結婚しましたの』

 そんな物は読んだ覚えはない。

「しらねーぞ俺」

『うん。あの時滉死んでた』

『あら、そうでしたわね。ともあれ、良人(おっと)は医師で、第3次の入植隊と共に、コーチに参りましたのよ』

 適当に誤魔化して、話しを続ける。

『残念ながら良人は5年前に亡くなりましたけど、子供達が居てくれるから寂しくはありませんのよ。それに、滉の兄貴達も来てくれたし』

 通信機の向こうのにこにこの笑顔が見えるようだ。

 子供達、と言われて、ふと閃いた事がある。

「ナティ、本部署長(コミッショナー)はあんたの息子か?」

 果たして、明瞭な答えが返ってきた。

『いいえ、孫ですの』

 道理で、自由に出来すぎた。

 それに、警官隊を配置した、モセの対応の速さがこれで納得できる。

「何時の間にか、ベースの(ぬし)になってやがったな」

『あら、人聞きの悪い事おっしゃらないで下さいな。本部署長が、たまたま娘の息子だっただけですわ』 

 アルゴル系の文化圏では、母親の力が強い。つまり、母方の祖母は血族内では、絶対権力者と言っても過言ではなのだ。

 気の毒だが、モセの言う事に、本部署長は逆らうなんて出来ないだろう。

 自分が居ない間、魅羅に嫌味を言ったと言う彼の気持ちが良く解かる。

「なにが84だよ。130歳もサバ読みやがって」

 ぼそりと呟く滉に、

『女心ですわ』

 清ましてモセが答える。

 この際何を言っても、もう後の祭りだ。

 この星でピカ1の掘り出し物の女が、寄りによって、自分の妹分だったとは…

 とんだ茶番を演じさせられたものだ。

 失恋した滉は、今度こそ、何か有るまで寝る事を心に決めて、乱暴にシートを倒した。





青年は、化け猫から逃れる為に、必死に走っていた。

 2車両ほど駆け抜けて、やっと足を止める。

「落ち着け、居て当たり前だろうが」

 自分に言い聞かせながら、息を整え、周りを見た。

 さっきと同じ、個室(コ・パートメント)のドアが並んでいる。

 窓の外の壁が後ろへと飛んでいく、どうやら前の車両の方に来たらしい。

 まあいい、どうせアルタイルを探し出さなければならないのだから、前の方から調べていく方が良い…かもしれない。

 とにかく、情報を得るには地道な捜査しかない様だ。

 地道な捜査…とは言えど、つまりはドアを一つづつ開けていくというやり方である。

 無謀と大胆といった方が良いような気もするが、開けてみなければ、何が有るかは解からないし、どうせ軟禁状態で放っておかれているのだから、自分が何をしようと、ケット・シーは気にも留めないだろう。

 ぼやぼやしていても、いつか殺されるだけだ、ならば、悪あがきの1つくらいやってみよう。

 意を決して、それでも逃げ易い、一番後ろのドアの開閉スイッチに手を当てた。

 ……………

 ロックされている。

「…はは…」

 拍子抜けして、思わず笑いが漏れる。

 見せたくないところは、見せてくれないらしい。

 少しむかついて、次々にドアに触れて行く、全部ロックされていた。

 悔しいような、ほっとしたような、妙な気分で、そのまま前の車両に移る。

 最初のドアに触れる。

 今度はすぐに開いた。

「キャーーーー!!!!」

 半裸の女が、脱ぎ掛けたドレスの前を掻き合わせて悲鳴を上げた。

 エメラルド色をした縦形の虹彩の瞳が、驚愕に震える。

 女の腰を抱いた男が、ぎらつく牙を剥き出して振り向く。

「し…失礼しました!!」

 青年は大慌てでドアの前から飛び退き、閉まるのを確認してほっと息をついた。

「あーびっくりした」

 冷や汗を拭いながら、はたと気がつく、今の2人、顔が猫と犬だった……

「嘘だろ!?」

 もう一度ドアに触れる。しかし、今度はロックされている。

 釈然としないまま、次のドアに行く。

 ドアに触れようとした時、ドアが勝手に開く。

「急がなくっちゃ。急がなくっちゃ!!」

 甲高い声と共に、白い塊が飛び出してきた。

 慌てて避けると、奇抜な格好の、女であろうと思える人物が走り出る。

「????」

 ドルフェスは声も無く、ドア際の壁に張りついた。その目が凝視しているのは、形良く小作りで、赤い目とピンクの鼻がキュートな、兎の頭。

 真っ白な毛皮に包まれた全身に、黒いトップレスのボディスーツ。首にはカラー、両手首にカフス。そして足には黒の網タイツとハイヒール。 すんなりと伸びた形の良い耳は、頭の上で可愛らしく揺れている。

 バニーなバニーガールとはこれ如何に。

 体つきはヒューマノイドだが、頭は兎の女は、たわわな胸元から懐中時計を引っ張り出すと、ぴょこんと飛び跳ねた。

再び甲高い声を張り上げる。

「キャー!!みんなァー遅れるわよーー!!」

 兎娘の声を受けて、ドルフェスの前に並ぶ扉が一斉に開く。

「大変!!」

「急がなくっちゃ」 「いやーーん待ってぇ!!」

「遅れちゃう!!遅れちゃう!!」

「早く早くぅ!!」

 騒々しく叫びながら、色とりどりの兎娘達が飛び出して来た。

 既に走り去った先頭に続いて、どうやってあの狭い部屋に入っていたのか、と思う程の大人数がどやどやと走り出てくる。

 壁を背負ったまま固まっている青年には目もくれず、兎娘の団体は地響きと共に前車両へ消えていった。

 獣頭人達が戻ってこないかゆっくりと様子を伺ってから、そろそろと壁から離れる。

「いやァん!!置いてかれちゃったァー!!」

 声と共に、後ろから突き飛ばされた。

「わ!?」

 思わず膝をついた青年の頭上を、ピョンと身軽に飛び越して、兎娘が走っていく。

「御前のパーティーに送れちゃうーーーーーー」

 半べそをかきながら、悲鳴の様に叫ぶ声に、ドルフェスはがばっと飛び起きた。

「御前だって!?」

 サイレンのような悲鳴を上げながら走って行く兎娘の背中を、ドルフェスか追いかける。

 奇妙な追いかけっこは3両分ほど続き、その間、悲鳴を上げ続ける兎娘に驚いたのか、各車室のドアが薄く開かれる。 そこから覗く様々な目は、まるで変質者でも見るような視線を、ドルフェスに投げかけている。

 酷くバツの悪い思いをしながらも、頭の隅で、いぶかしむ。

 覗いている顔も、目も、手も、全てがヒューマノイドのものではなかった。かと言って、非ヒューマノイド型の人種でもなく、非常に見慣れた、哺乳類の特徴なのだ。

 はっきり言ってしまえば、犬だの猫だの山羊だの牛だのはてはコルドラク(さい)【白鳥座61番星第4惑星原産の小型の犀標準年198年に絶滅】のような珍しいのも居た。

 それらがすべて、直立し衣服を着ている。

 まるで子供の頃に見た絵本の動物村だ。

 しかし、ディフォルメされたイラストと違い、リアルな彼等のなんと気色の悪い事。

 彼等もケット・シーの仲間だろうか…?

 訳の解からない不気味さの中で、青年は兎娘を追い続けた。

 今となっては、果たして御前と言うのが、アルタイルの事なのか判別は出来ないが、取りあえず、手掛かりなのは間違い無い(はずだ)

 3両目を通過して、連結部分へ真っ赤な網タイツが飛び込む。

 続いて駆け込んで、そこで足が止まった。

「…何だこれ…?」

 兎娘はカンカンと赤いバンプスを鳴らしながら駆け上って行く。

 そう、次の車両が有るはずのドアの向こうには、遙上方に向かって、長い階段が続いていた。



階段の向こうに何があるのか。次回はもうしばらくかかります。

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