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20 THET’S LIGHTS――その通り――

戦いの犠牲者に、閖吼の心が痛む

 見事な調度品に飾られた部屋の中に、天蓋てんがい付きの寝台が据えられていた。

 古式ゆかしいアルゴル調のそれには、アルゴル本星から取り寄せられた、豪奢なアルゴシルクの夜具が置かれている。

 ベースシティでも第一級を誇るホテル。トラディシュのロイヤルスイートルームである。

 勿論、現在来訪中のアルタイル・アルナスルの為に用意された寝室だが、今その寝台には別の人間が眠っていた。

 迎賓館で双子に捉えられたカストゥアである。

 横たえられたカストゥアから、閖吼(ゆるく)は静かに検査用の端末を取り外した。

「僕に出来る事は、今はこれで精一杯です。アースの、僕の研究室に行けば、少しは何とか出来るでしょうけど…」

 そう言いつつ、後ろに立ってじっとカストゥアを見つめている男に向き直った。 痩せぎすでひょろりと上背のある、穏やかな容貌の男は、微かに引きつった様な笑みを浮かべて見せた。

「医師殿、そのお心だけで十分です。ファントムに喰われた者で、まともに戻った者はいない…任務中の事ならば、弟も覚悟は出来ていたはず。……お気に為さらず、楽にしてやってください」

 閖吼(ゆるく)は黒い瞳を瞬いた。

「安楽死、ですか? ライファンさん、僕は医者です。患者を生かすのが仕事ですよ」

 ライファンは首を振った。

「そこを曲げてお願いしたい。弟は武人です、あれに少しでも正気が残っていれば、こんな醜態を曝すことを潔しとはしないでしょう。それに、このままにしておけば、必ず、御前や津川殿達に仇を為すでしょう」

 沈痛な面持ちのライファンに向かって、閖吼(ゆるく)はにっこりと笑って見せる。

「ライファンさん。《記憶の銘記者パラディケル》の御子息が何を弱気な。過酷な運命に、真っ向から立ち向かってこそ、あなた方の本領でしょう?」

 長い黒髪をさらさらと鳴らして、閖吼(ゆるく)はライファンを見上げた。

「僕は何度もカストゥアさんにはお会いしています。初めてお顔を見たのは、叔母の結婚式に来て下さった時でした。その時、とても強い方だと思いましたし、アレクスを見た途端にプロポーズをして、イルダナフやエゼルと大喧嘩なさった時には、大笑いをしたものです。大丈夫。彼はきっと元に戻ります。僕が戻してみせます。何時までも、ファントムに負けてはいられませんからね」

「医師殿…」

 見つめかえすライファンに、閖吼(ゆるく)は首をすくめて笑う。

「第一、父達や御前が、このまま彼を見捨てるはずがありませんよ。何しろ、平気で悪魔と踊ってみせる様な人達ですからね」

 手早く用具を片付けると、ライファンの肩に手を伸ばす。

「皆さんは、銀河大戦を切り抜けた戦友だと、母から聞かされています。それに、カストゥアさんとの酒場での大喧嘩は、父が武勇伝として何度も話してくれました。だから、僕にとっても、カストゥアさんは遠い人ではないんです」

 閖吼(ゆるく)の言葉に、ライファンは目を伏せた。

「医師殿、宜しくお願いします」

 再びカストゥアを見つめるライファンを後に残して、閖吼(ゆるく)はそっと寝室を出た。

 アンティークな手動のドアも、振り返らないように開閉する。

 昔、幼い頃。母親ダフネが珍しく厳しい顔で言ったものだ。

==愛情や優しさから、強い人が涙を流すのは、決して恥ずかしい事などありません。でも、その姿を覗き見るのは、とても恥ずべき行為よ==

 母の言葉を守っている訳ではないが、実際こんな仕事をしていると、偶然そんな場面に出くわす事も多い。

 その度に、見なければよかったと後悔する。

 今も見たくは無かった。弟の運命を呪う、打ちひしがれた兄の背など………

 母の言葉と共に思い出す背中がある。

 言葉の意味を思い知った、あの日。十二の時に見た、最も男らしい、強い人と信じていた男の、悲しみに膝を折った背中……


閖吼(ゆるく)、どうだ?」

 その男に膝を折らせた当の本人達の片割れが、青い顔をして聞いて来た。

「父さん…」

「カストゥアはとうだ? 治りそうか?」

 父の問いに、閖吼(ゆるく)は小さく首を振る。

「判りません。あれほどまでに食べ尽くされた人は初めてです。カストゥアさんが我々方の人間である事は、ファントムには判っていたんでしょうね」

 滉の顔に、暗い怒りが走る。

 日食になりかけているな、と閖吼(ゆるく)は思った。

 怒りと後悔によって、精神的に追い詰められている滉を指す言葉だ。

 この言い方も、あの男が言ったことだ。 

==滉が日食になると手がつけられなくなるぞ。お天道さんには、照っといてもらわないと困るからな==

 何時からだろう? 頭の中で彼の指示を作り出す様になったのは。苦しいにつけ、悲しいにつけ、彼の声を思い出して、自分を前に向けて叩き出すのだ。そして自分はこう答える。

――yes D・M――

「D・Vの設備を使えば何とかなるかも知れません。しかしファントムのエッセンスをD・Vに入れる事になりますから、多少の危険が伴います。最も安全で設備が整っているのは、アースの僕の研究室ですが、此処からでは遠すぎますからね」

 閖吼(ゆるく)の提案に、滉は大きく肯いた。

「構うもんか、連れていけ。お前ならそう言うと思って、シャドウには話してある。あいつも賛成している」

 滉の決断の早さは、閖吼(ゆるく)にとって嫉妬に近いほどの憧れを感じさせる。

 自分はカストゥアを診てから今まで悩んでいたというのに、滉はとっくに予想して、準備をしているのだ。

 親子だというのに、何時も迷ってばかりいる自分とは、どうしてこれほどまでに違うのだろう。

 滉は太陽だと、竜造寺は言った。 津川の家に生まれた双子の男は、太陽の筈なのだ。滉も稀胤ケイン太陽神アポロンの名に相応しい強さと明るさを持っている。

 しかし、自分は違う。 津川の双子の二代目は、太陽と月が逆さまになっている。

 天照あまてらす月読(つくよみ)のようだと。昔、祖母の弓美やもう一人の叔母の月絵が、冗談めかして言ったものだ。

 本当にそうだと思う。

 魅羅の強さと明るさに対して、何時も陰に隠れてしまう自分。

 前に出ていくことが苦手な分、魅羅をサポートするのが役目だと決めて行動してきたし、自信も持っていた。

 そう、かつて竜造寺が、滉と光を支えたように…

閖吼(ゆるく)、どうした?」

 滉に肩を叩かれて、閖吼(ゆるく)は物思いから覚める。

「あ…いえ、何でもありません」

 閖吼(ゆるく)は首を振った。

「そうか。D・Vはホテルのすぐ隣に入り口を開いているし、今、光が持って行く為のあしの手配をしている。ネプチューンを使えば良いんだが、あれが無くなると俺が困るんでな」

「判ってますよ。それに、ネプチューンは、父さんとD・Mの命令しか聞きませんしね。僕なんて、仕方なく乗せてやってるんだって態度をとられるんですよ」

 閖吼(ゆるく)の返事に、滉は小さく笑った。

「あいつも頑固だからな。覚えてるか? お前。ネプチューンにパンツ引っ張られて、オンオン泣いてたっけな」

「…五つの時の事じゃないですか…」

 肩に置かれた滉の手が暖かかった。スキンシップを大切にする滉は、何かに付けてこうして触れてくる。

 滉に触れられるのは好きだ、彼の力が流れ込んでくるから。

 でも、最も憧れた人は、滅多にそうしてはくれなかった。それは、彼の強さが、人を拒む事から作られているものだったからだ。

―――それでも、僕は貴方が好きですよ。D・M―――

==それは嬉しいな。たが、お前は何でそんなに不安定になっているんだ?==

―――多分…彼の所為でしょう―――

 自分の中の竜造寺と会話しながら、閖吼(ゆるく)は滉の後ろに居る男に一瞥をくれた。

 滉がD・Dと呼ぶ男………

 黒い直髪。鋭角的な細面の輪郭。滉程では無いにしても、上背のある長い手足のシルエット。何処も彼処も、無意識に左腕を撫ぜる仕草まで竜造寺そっくりだった。

 しかし、常に皮肉な光を浮かべていた黒い瞳は、何とも間のぬけた、御人好しとしか言い様の無いものになっており。キリッと引き締まっていたはずの口元も……

 閖吼(ゆるく)は眉を寄せた。気に入らない。腹立たしい模造品だ。

「おい、閖吼(ゆるく)。本当にどうした? ぼーっとして」

 滉に肩を揺すられて、閖吼(ゆるく)は再び我に返った。

「え? あ…済みません。考えごとをしていたので」

 いぶかしげに覗きこむ父親へ、言い訳をしながら、閖吼(ゆるく)は慌ててカストゥアのカルテを開く。

「移動させるんでしたら、なるべく早い方がいいですね。鎮静剤は射ってありますが、彼があらゆる薬剤に対して、抵抗力をつけているのは明白です。確か、アルゴル軍人の基本でしたよね」

「つまり、長い事寝てちゃあくれねぇって訳だ」

 半ばぼやいているような滉の言葉に、閖吼(ゆるく)は真剣に肯いた。

「今すぐ起きても不思議じゃありませんよ」

「勘弁してくれ。やっと伸したのに…寝付きの悪ィ男だぜ、まったく」

 訳の判らない愚痴を言いながら、滉は顔をしかめた。

 もっとも、鎮静剤が効いてくるまで、一時間近くも暴れ狂い罵り続けるカストゥアを押さえつけていたのだから、無理もないところだろう。

「ところで、父さん。トロイの木馬って何の事か判りますか?」

 ふと思い出して、父親に聞いてみた。

「へ? 何だお前ェ忘れたのか? 餓鬼のころいつもイリアスを詠んでやったろうが」

「勿論覚えてますよ。ギリシャ神話は津川家(うち)の必読本ですからね。でも、アースの神話が、パストアス人であるカストゥアさんに、どんな関りが有るのかと…」

 閖吼(ゆるく)が口にした言葉に、滉の顔が強ばった。

「どういう事だ?」

「うわ言で彼が何度も言っていました。『トロイの木馬、いけない、だめだ。仕方が無い』ライファンさんも首を傾げていましたよ」

 滉の目が何かを透かし見るように細められた。閖吼(ゆるく)は滉の説明を待ったが、それはひょこりと突き出された呑気な顔から発せられた。

「そういえば警部、テロリストが同じ様な事を言ってましたよね?」

 青年の言葉に、滉は大きくうなずき、閖吼(ゆるく)は微かに眉を寄せた。

「ああそうだ。D・D、済まねぇけど、ちょッくらネプチューンまで行って、ファイルMってのを持ってきてくれ」

「はい」

 くだんの模造品は、実に素直なお返事を残して部屋を出ていった。その足音を、目を伏せて聞いていた閖吼(ゆるく)であるが、面白そうに見つめる滉の視線に気がついた。

「? 何ですか」

 息子の問いに、小さく笑う。

「お前、あいつに何やったんだ?」

「どうしてそんな事をおっしゃるんです?」

 閖吼(ゆるく)を見つめながら、滉は肩をすくめた。

「あの生真面目な男が、ホテルここに着いてからこっち、お前を見ると目を逸らして会釈の一つもしやしない。はてな…とね」

 今度は閖吼(ゆるく)が肩をすぼめた。

「さあ、僕は挨拶しただけですよ」

 金褐色の髪を掻き上げて、再び小さな笑い声をもらす。

「まったく、お前の性格は、光にそっくりだな」

「え?」

「気に入らねェんだろう? そっくりさんがよ」

 本音を言い当てられて、閖吼(ゆるく)は微かに顔を赤らめた。

「僕は、別に…」

「まぁなんだな。光よか、お前の方が素直だよ。あいつは見栄張ってな〜んにも気にしてないわよってな顔してやがるが、お前ははっきり嫌だって顔してるからな」

 閖吼(ゆるく)は観念して下を向いた。

「ま、俺や魅羅みたいに、そっくりさんです、ハイそうですか。てな具合にゃあいかねぇだろうが、勘弁してやんな、顔が似てるのはあいつの所為じゃねぇんだからよ」

 閖吼(ゆるく)は苦笑しながら肯いた。

「判ってはいるんですよ…」

 滉は腕を廻らせて、閖吼(ゆるく)の肩をぎゆっとひとつ抱きしめると、ポンと背中をどやしつける。

「ま、その内慣れるって、どうせ長い付き合いになるんだからよ」

「え?」

 怪訝な息子に、悪巧みを白状するようににやりと笑う。

「ナディーラに頼んで、あいつを貰って帰るつもりなんだ」

「父さん?!」

「まだあいつの意思は聞いて無ぇが、お袋さんの反対が無かったら親父の後を継いで連邦に志願する筈だったって事だから、嫌がりゃしねぇだろ」

「またその御母さんが反対して終わりですよ」

 冷たく言い放つ息子に、首をコキコキと鳴らして、

「二十五にもなった男が、何時までもオ母ンの言いなりになってられっかよ」

と、鼻でせせら笑うように言う滉。こめかみを押さえて、閖吼(ゆるく)は唸った。

「そう言って、彼を焚き付けるわけですね…? 怨まれますよ、先方の御母さんに」

 滉は何時もこうだ。勝手に決めてさっさと実行に移してしまう。人の言う事など聞いた例は無いのだ。今回は事前に話してくれただけでも、まだましといえるかもしれない。

「でも、何で連れて行こうなんて、お考えになられたんです? 今までの現地調達の部下で、そんな風におっしゃられた事は無かったでしょう?」

 長い黒髪が肩から流れ落ちて、さらさらと音を立てる。

「やっぱり、顔ですか?」

 率直な質問に、滉は困った様に視線を泳がせた。

「マァ…何だな、否定はしねぇよ。だが、あいつはそれよりもっと面白い」

「面白い?」

「ああ、面白い。あれほど真新まっさらな奴を見たのは初めてだ。さっきの台詞じゃねェが、二十五にもなった男だってのに、少しもスレた所が無ぇ。まるで生まれたての赤ん坊みたいに、素直で真っ直だ。まったく、あいつには過去むかしなんて何にも無いんじゃないか? って気がするよ」

 照れたような笑みが滉の頬に浮かぶ。

「ホント、俺達があの顔に持ってるイメージとは正反対だぜ」

 そう言いながら肩をすくめる滉を、閖吼(ゆるく)は微笑みながら見つめていた。滉もまた、竜造寺の影を求める一人なのだ。そして、竜造寺の受けた苦しみや、悲しみ。受難の数々(それらの源因の半分は自分達であるはずなのだが)から、あの青年を守りたいと考えているのだろう。

 口を濁す滉の心中を、閖吼(ゆるく)はそんな風に解釈していた。だが、滉がどんな感傷をドルフェスに対して持っていようが、とにかく、気に入らないものは気に入らない。それがこの先ずっと続く…? 第一、竜造寺にことのほか懐いていた自分の想い人アレクスは、ドルフェスを見たらどれほど泣くのだろうか……初めは喜んで。そして次には、別人である切なさで……やめて欲しい…閖吼(ゆるく)は、こっそりため息をついた。

「ま、どーなるかはあいつ次第だけどな。けどよ、もしあいつが来たらきっと面白ぇぜ」

 息子の嘆きには頓着せずに、滉は楽しそうに窓辺に歩み寄った。地上四十階にある窓からは、ベースシティの夜景が一望の下に広がっている。

 アース系の企業の流入に因って発展した都市であるこの街も、闇に浮かび上がらせる光で縁取られた姿は、アルゴルの伝統を踏襲した、同心円と放射線を組み合わせたものだ。ホテルを取り巻く大きな同心円郡の向こうに、歓楽街であるジャクトーナ区の小振りの同心円郡が、一際華やかに浮き上がっている。

 滉の背中越しに見えるそんな光景が、閖吼(ゆるく)には、水面に広がり、互いに打ち消し会う波紋の様に思えた。

 旧都ジャクトーナ新都心ストレイナル。攻めぎあい、衝突する二つの力……古いものと新しいもの。

 今夜起こった騒動もまた、新しいものを受け付けない者が、過去からの亡霊に力を借りて、人間の尊厳を踏みにじり、己の正義を押し付けてきた事に他なら無い。狂気に血走ったカストゥアの目と、悲しみに沈んだライファンの横顔が思い出された。次いでドルフェスの呑気そのものの顔と、竜造寺の引き締まった凛々しい顔を思い浮かべ、自分のわだかまりも、変化に対応出来ない年寄りの執着だろうかといぶかしんだ。

―――D・M、僕はどうやら、頭が固くなってきた様ですよ―――

==気にすんな。一々滉に合わせていると、総白髪になるぞ==

 心の中の竜造寺の言葉に、閖吼(ゆるく)はこっそり笑みをもらした。

「D・Dの奴、遅っせぇな」

 窓から離れながら、滉が首を傾げる。

「かれこれ二十分は経ってるぜ。いくら地下までっつーたって、長すぎるよな。見てくっか?」

 歩きだす滉に、

「彼が取りに行ったファイルって、何なんですか?」

と、閖吼(ゆるく)が聞く。

「あ? ああ、こないだテロ助どものアジトを叩いた時に、連中のコンピからネレウスがもぎ取ってきたデータだ。GENから分析結果が返って来たんだ」

「GENはなんて?」

 そう聞くと、嬉しそうににやりと笑う。

「もうすぐ、百鬼夜行がはじまる。とさ」

「え?」

「お前の従弟は、俺以上に厄介事が好きらしいぜ。嬉しそうにわざわざ解説付きだ。笑えるぜ。ありゃあ、親父似だな、理屈っぽい所がそっくりだ」

 そう言いながら滉はドアを開ける。

「それにしたって、D・Dの奴、何してやがんだろうな」

「彼の事だから、何かで困ってるんじゃ無いですか?」

「かもな」

 SPに後を任せて、津川親子は笑いながら部屋を後にした。




 閖吼(ゆるく)は、自分とネプチューンの関係をあてはめて、そんな悪口を言ったのだが。それとは違った状況で、ドルフェスは今、やっぱりとても困っていた。

―――どうしようか…? 警部に連絡しなきゃ…―――

 地下駐車場の中、柱の影に張り付いて、二ブロック先に居る人影の様子を伺いながら、ドルフェスは一人焦っていた。ベースシティで第一級を誇る、ホテルトラディシュは、格式だけでなく、その規模もまた第一級を自負している。従って地下収納が好きなベースシティの常として、ホテルの地下三階層を占める駐車場は、広さに関しても半端ではない。

 10m間隔に並んだ柱を一ブロックとし、柱を五十ずつのグループで分けて一区画エリアとしてあった。直通エレベーターで降りて来たものの、ネプチューンは出口近くに行っていて、遥五区画先まで歩かなければならない。これが滉ならネプチューンの方から来てくれるのだろうが、自分ではそうもいかないので、青年は仕方なく歩きだした。ま、ここまでなら、彼に降り懸かる数々の不運に比べれば、たいした事は無い。

 本格的な不幸は、一区画程歩いた頃、眼の端に金色の光を見たと思った時にはじまった。

 車に見え隠れしながら、貴公子が歩いて来るのが見える。

「?」

 貴公子と共に、先程ウルとオイスと紹介された人達がいた。三人の前を、地味なスーツを着た小柄な男が歩いており、ドルフェスは、その姿を見た途端、肌が泡立つ思いがした。

―――ケット・シー…?!ー―――

 七三に分けた髪。これと言って特徴の無い平凡な顔。例によってのアタッシュケース。軽い猫背が貧相さを強調し、後ろを歩く貴公子の威風堂々たる豪奢さによって、彼の装う平凡さは嫌味なほど完璧に見えた。これが今、シティ中を震え上がらせている死神の頭目であるなどと、誰が想像出来るだろう?

 近づいてくる一行から咄嗟に隠れた青年は、柱を背負いながら四人の会話に神経を集中させた。 立ち止まった四人は何やら話し合っている。

 ケット・シーが二言三言ぼそぼそと喋ると、貴公子は得心したように肯く。

「では猫よ、私をそこまで連れていけ」

「御前?!」

 貴公子を守るように両脇に立っていた二人が、そろって声をあげた。それを手で止めて、貴公子は薄い微笑みを浮かべる。

「お前の主人には、会えるのだろうな」

 ケット・シーは、微かに首を振り、お馴染みの『さあ、どうでしょう』を口にした。

 馬鹿にしきった態度に、ウルが血色ばむ。

「無礼者!! 何方の御前おんまえと心得る!」

「アルタイル・アルナスル・アルゴス・ウナヌ・シリムカシク・パストアタン閣下と、存じますが?」

貴公子をわざわざフルネームで呼んで、ケット・シーは、人間には絶対出来ないVの字笑いを浮かべ、すぐに何時もの無表情に戻る。ウルが気色悪そうに眉を寄せた。

「猫よ、今は忍びだ。その名は別の者が使っておる故な…」

 確かに、アルタイル・アルナスルは他に居た。ドルフェスは、騒動の後で死ぬほど驚いた事を思い出した。

 何時の間に自分が、滉と一緒に居たのかよく判らないが、貴公子が中庭に降りて来るのを待っていた時に、賑々しく着飾り、お供を引き連れた老英雄が現れた。

 滉以外の総ての人々が頭を下げて礼を取ったが、ふわりと着地した貴公子は軽く肯いただけで、それどころか、膝を折り深々と頭を下げたのは老英雄の方であった。

 眼を見張る青年に滉がにたにたしながら説明してくれた。

 実は、貴公子こそ、本物のアルタイル・アルナスルであると。

 純血種のパストアス人は、外見を望みの年齢に保つ事が出来るのだそうだ。 しかし、二百年前から生きている有名人が若いままでは世間は信用しないし、かといってそんな特技を公表する気もない。ついでに、姿をイメージ通りにするなんて、真っ平御免である。 従って、影武者を仕立てて、表の顔としているという事だった。 今アルタイルを名乗る人物。本名をタウルといい、貴公子の母君に仕えていた侍従長であり、貴公子の生まれた時からの側仕えなのだそうだ。 彼は総てを懸けて貴公子に忠誠を誓っており、今もアルタイル・アルナスルとして人々の眼を集めて、貴公子に自由をもたらしている。

 迎賓館の上空で、パストアスとメトセラの説明を受けた時に感じたちぐはぐさは、その為だった。

 ケット・シーと貴公子の会話は続いていた。しかし、声を落としているために、ドルフェスの位置からではよく聞こえない。

「何を話しているのかな?」

 恐る恐る首を伸ばした時、後ろでエレベーターのドアが開く音が聞こえた。

 振り返ると(あきら)閖吼(ゆるく)が出てくるのが見える。

「警部……」

 ほっとして二人のところに行こうとした。が、柱の陰から不意に人影が飛び出し、行く手を阻む。

「? オイスさん……」

 貴公子の近衛隊を指揮するオイスは、深い紺色の髪と緑の目を持つ大柄な男だ。その大きな身体で、青年の前を塞いでいた。

「オイスさん、あいつは化け猫の親玉ですよ。御前が危ないですよ。今警部が来たんです、早くあいつを捕まえましょう」

 声をひそめて話し掛ける青年に、オイスは軽く頭を下げる。

「御曹司、申し訳無い」

「え?」

 何を言っているのか判らず、聞き返そうとした。が、口を開いた途端オイスが何かスプレーの様な物を吹き付けてきた。

「な……何を……?」

 ぐらりと視界が傾く。回りがぐるぐる回りだす。かすれ始めた意識の中で、誰かが貴公子への呪詛の言葉を吐き出しているのが聞こえたような気がした。

 それは自分が言っているのか、頭の中で誰かが言っているのか……



 遠くでネプチューンが鳴き出した。その声がどんどん近づいて来る。

「ネプチューンですね」

 判りきった事を閖吼(ゆるく)が言う。

「そだな」

 滉はあたりをきょろきょろと見回しながら、上の空な返事を返してきた。

「どうなさったんですか?」

 黒髪を揺らして、父親の顔を覗きこむ。

「んー? D・Dはどこ行ったんだ?」

「迷っているんじゃ無いですか? そこら辺で」

 閖吼(ゆるく)の声には嫌味が滲んでいる。

 滉は苦笑した。

「子供じゃあるめぇし、こんな見通しの良いだだっ広いとこで迷子になるか?」

―――彼ならやりかねませんよ―――

 心の中で、閖吼(ゆるく)は皮肉を言ってみた。

 ネプチューンが激しく鳴きながら走ってきた。鳴き方が妙に忙しない。

「様子がおかしい。ネプチューン、どうした?!」

 ネプチューンはスピードを落としながらドアを開けた。明らかに普通ではない。

閖吼(ゆるく)!! お前は戻れ、ライファン達を頼む!!」

 ネプチューンのシートに飛び込みながら滉が叫ぶ。

「父さんは?!」

「D・Dがさらわれた!! 追いかける!!」

 叫びつつネプチューンはスピードを上げた。その赤いシルエットに、誰かが飛び付く。

「光ママ……」  

 見送っていた閖吼(ゆるく)は小さく呟き、踵を返してエレベーターに飛び込んだ。


「滉! 窓開けて!!」

「光か!! 早く入れ!」

 滉が命じる前にネプチューンは窓を開けて光を入れている。

「ポイント233“5‘66よ」

 前置きも無く光が言う。滉がうなずくのと、ネプチューンが言われた方向に進路を向けたのは同時だった。

「アルは一緒か?」

「ええ、ウルとオイスがドルフェスを抱えてエアキャリーに乗せたわ。あんた達が降りてきたのと一緒ぐらいよ。もうすぐ飛んでるのが見える筈だわ」

 空を見上げながら光が言う。

「後は、あんたのメモリフォトで送られてきたケット・シーとか言う化け物が乗ってたわ。坊っちゃんは何を考えてるのかしら、ドルフェス手土産にあんな奴について行くなんて……」

 光の声を聞きながら、滉は黙って空を睨んでいた。

―――あいつが言っていた通りになりやがった……―――

 ギリっと奥歯を噛みしめる。

―――早い事絞めあげておきゃァ良かった―――

 滉は、警告を与えてくれた、短い再会の時を思い出していた。



 あの時、抱きつきたいような気持ちを押さえて、滉はこう言ってやった。

「それにしたって、まー騙されたぜ」

 竜造寺は微かに片方の眉を上げた。

「何の事だ?」

「シャドウが言ってたぜ。あんたの身体は、あんたでなけりゃおかしいってね」

「だから?」

 あくまで聞いてくる竜造寺に、滉は口を曲げる。

「ド・ル・フ・ェ・スだよ。あんたの性格で、よくまァあんな好青年が演じられたもんだ」

 そう言いつつ、手摺に身体を預けて空を見上げた。

 暗い夜空の中央に、あたかも星の如くアルタイルの発する光が見える。

「あの野郎。高みの見物か? 良い御身分だぜ」

 ぼやく滉の横に、同じ様に竜造寺が並んだ。懐をまさぐり、煙草を取り出して火を付ける。

 紫煙が揺らめきながら昇っていく。

懸胤ケイン達の計画は成功したようだな」

 ぼそりと竜造寺が呟いく。

「あ? ああ。お陰で墓の中から叩き起こされて、この体たらくだ」

「そうか………」

 再び黙り込む旧友に、滉は小さく笑った。

 古い友が、昔と変わらずにいるのは、何と嬉しい事だろう。

 長い年月の隔たりを忘れて、二人は黙って夜空を見ていた。

「滉…」

 しばらくして竜造寺が口を開いた。

「ほいよ」

 空を見上げたままで滉が答える。

「ドルフェス…だがな。俺じゃない」

「え?!」

 驚いて竜造寺を見ると、彼は紫煙の煙幕に包まれながら、何かを探るように空を睨んでいた。

「俺じゃねえって…D・D、どう言うこった?」

「お前は俺がドルフェスの振りをしている。又は、ドルフェスと名乗って此処に居た。と考えたようだが、残念ながらどちらでもない。ドルフェスはドルフェスだ。俺とは違う」

 意外な答えに、滉は茫然と竜造寺の顔を見つめた。

 表情は別として、服は魅羅が見立てたものだったし、靴もそうだ。ついでに今持っている煙草とライターは、今朝魅羅が、助手席で眠りはじめた青年の懐に入れてやった物だ。

==お守り、忘れちゃ駄目よ==

 魅羅はそう言っていた。

 そう、ドルフェスは煙草をまない。しかし竜造寺のヘビースモーカー振りは尋常ではない。

「どうなっているんだ?」

 首を傾げた滉に、竜造寺は肩をすくめて見せた。

「さぁな、俺にも解らん。何せ自分のことを思い出したのは、つい先刻さっきなんでな。その時はドルフェスが居座っていて出ていけなかった」

「まるで二重人格だな」

「俺がこいつの前世かもよ」

 冗談めかす竜造寺に、滉は首を振った。

「いや、あんたの身体はシャドウが調べた。D・Vに泊まっている間にな。答えは先刻言ったろ?」

 短くなった煙草を踏み消して、新しい物を取り出しながら、竜造寺は片眉を上げた。

「なら、ドルフェスという男は何者だ?」

 滉は混乱して頭を抱えた。竜造寺が更に言葉を続ける。

「ドルフェスは今、どこか奥の方で眠っている。頭を殴って伸す具合に俺が出てきたからな。だがすぐに目を覚ますだろう。そうしたら俺は奴の後ろにいかざるを得ない。これが俺の身体なら、何故奴が主導権を持っている? 何故俺の自由にならない?」

 滉に謎の答えが解るはずが無かった。

 D・Vに居た三日間、青年はほとんどうとうとと眠っていた。

 話し掛けても答えず、そのくせ寝室にはちゃんと歩いていく。

 ただし、用意した客室ではなく、教えてもいないのに真っすぐに竜造寺の部屋に入って眠っていた。

 そしてシャドウは、青年のDNAその他すべてを調べて、竜造寺であると言い切った。

 今日一日、やっとまともに話すようになったドルフェスを、探りを兼ねてからかいながら、この男が仮面を脱ぐときを待った。そして、待ち望んだ男は現れた。

 これでそっくりさん事件は解決の筈だった。何故ドルフェスなどと名乗ってここに居たのか、二百年経っても変わらぬどころか、若返ったのは何故か。すべて聞き出すつもりだった。そうして後は、彼を待つ家族の元へ二人で帰る。これで全て元に戻るのだと考えていた。

 だが、当の本人はドルフェスと自分は違うと言い出した。挙げ句の果てに自分を指して『何者だ?』とはどういうことか……

「すまん、旦那。俺、訳がわかんねぇ」

 降参のポーズをする滉に、竜造寺は笑い掛けた。昔から、津川の兄弟にだけ見せる優しい笑い方だ。

「俺にも解らん。どうしてここに居るのか、何故今になって生きているのか。……俺は、アンナシェーラに殺された筈だった」

「アンナシェーラ?」

「俺の秘書だった女だ。どういう経緯いきさつだったかは、今はよく思い出せない。取り敢えず覚えているのは、レーザーがこう、身体を切った事だな」

 親指で左肩から袈裟掛けに体をなぞる。

「真っ二つになったあたりで記憶が終わっているから、多分死んだんだろう」

 相変わらず他人事の様に言う。  滉はため息をついた。

「何か怒らせるような事したんじゃねぇか?それとも……しなかったからか?」

 竜造寺の性格を考えてそう言うと、青年の姿の相棒が頷く。

「彼女は、俺の女房になりたがっていた」

「え゛?」

「希望に沿う気はかけらも無かったんで、申し出を断った」

 相変わらず女性に対して、情のかけらも持たない返答に、滉は相手の女性に同情した。

「可哀想に……そりゃぁ殺したくもなるわなぁ」

 ため息交じりに納得する。

「で、どんな女?」

「お前の女好きは相変わらずだな。またダフネに家出されるぞ」

 途端に滉が唸り声を上げた。

「ああ、今していたな」

「うるせえ! 家出じゃねェ!! 誘拐だ。シャドウは居るぞ」

「影は居ても、ダフネじゃなけりゃ抱けもしないだろう?」

 滉は大袈裟に肩を落として見せた。

「たまんねェよな、絵姿女房じゃあるまいし、目の前にいて話しもするのに、触れねぇんだぜ」

「本体はファントムとか言う化け物と一緒だったな」

「知っているのか?」

 火のついた煙草を化け猫の血の池に投げ棄て、三本目を取り出す。火を付けながら竜造寺は首を振った。

「お前と出会ってからこっちのドルフェスの記憶が多少有る。何でか知らんが、懸胤の姿をしていたな」

 滉は、血を吸って赤くなっていく吸い殻を見つめながらうなずいた。

「ああ、あれは懸胤の身体だ。クソ婆ァマザーリーナがろくな記録も残していかなかった御影で、あの化け物の事を知らなかったんだ」

 ギリっと滉が奥歯を噛み閉めた。

「後でゆっくり話すよ。とても手短に説明できるこっちゃねぇからな……」

 およそ滉には似合わない、暗い怒りの炎が立ち昇る。

 ドルフェスが煉獄の炎と感じ、かつて竜造寺が日食と呼んだ暗い怒り……

 記憶の中で滉がこんな顔をしたのは、ダフネを殺された時だった。

 それだけに、この事態がどれほど深刻なものか、痛いほど解る。

 そして、自分の手で育てた懸胤ケイン慧魅里エミリの顔が、脳裏をよぎる。

「そうか……」

 滉以上に激しく冷たい怒りを浮かべながら、竜造寺は天空に登りはじめたセカンドゥアを睨みつけた。

「化け猫の糸を手繰れば、奴に行き着くな……」

「ああ、そうだ。ところで旦那。ドルフェスについて、まだ何か知ってんじゃねェのか?」

 黒い瞳にからかうような光が浮かぶ。

「疑り深いな」

 金褐色の瞳が、こちらはジト目で受けて立つ。

「こういう時のあんたに関してはな。昔、敵の黒幕を知っていたくせに、ずーっと黙ってやがっただろう?」

「極悪非道とはいえ、実の父をチクるのは忍び無かったんでな」

「嘘付け、謎解きさせて面白がっていたくせに」

 二人はしばらく見つめ合い、次いで同時に笑い出した。

 化け猫の死骸が散乱するテラスの上、未だ硝煙の匂いを含んだ煙がたなびく夜の空に、二人の笑い声が響いていく。

「滉、アルタイルを絞めあげろ」

 ようやく笑いが収まると、竜造寺がそう言った。

「へ?」

 まだ上空に居るアルタイルの光に目を移しながら、竜造寺は冷笑を浮かべる。

「あの狸。何か企んでいるぞ」

 金褐色の瞳が、困惑したように見つめてきた。

「そりゃぁ、あの坊やが何か腹に一物持っているらしいってのは感じていたけどよ・・」

「ドルフェスの正体を奴は知っている」

 滉の眉がはねあがる。

「何だと?!」

「奴はこいつの事をトゥア・ドルフェスと呼んでいた」

「何だそりゃ?」

 親友の勉強不足に、以前のように皮肉を言いたくて竜造寺は苦笑した。

「よくまぁ、そこまで阿呆で今まで生きてこれたな」

「喧しい。さっさと蘊蓄たれやがれ、糞親父」

 嬉しそうに滉が罵倒を返す。

「トゥアは、パストアス語だ。[親愛な]という意味だ。いや、むしろ[我が]とか、[私の]という使われ方をする単語だな。トゥア・ルミナ、とあいつは香花を呼んでいただろう? あれは『私の恋人』って意味さ」

「ってことは……私のドルフェスぅ? 確かに意味深だぁな」

 滉が首を傾げていると、竜造寺はだるそうに手すりに寄り掛かった。だらりと下げられた手から煙草が抜け落ちる。

「D・D?」

 苦しげな息をしている竜造寺を、滉が覗きこむ。

「もう終わりだ、ドルフェスが目を覚ます……」

 ゆっくりと閉じられていく黒い瞳を引き止めようと、取りすがる様に竜造寺の両肩を掴む。

「こ……今度いつ話せる?」

 気だるい顔に、困ったような微笑みが浮かんだ。

「何て顔してる? 阿呆。俺はどこにも行かん。ドルフェスが眠れば、出てくるさ」

「そうか……」

 ほっとしたようなため息が洩れる。

「じゃあ、さっさとドルフェス寝かしつけてやらァ……光も喜ぶぜ」

 消えかけていた目の光が不意に強まった。

「光には言うな」

「え? 何でだよ。あいつの方があんたをずっと待ってたんだぜ」

 肩を揺さぶる両手を竜造寺が掴み返す。

「言うな……こんな不確かな状態で、あいつに会いたくない……」

 言外に、ぬか喜びをさせたら可哀想だ。という声が聞こえる。

 世の中のどんな女にも興味が無いくせに、こと光に対しては全身全霊をもって愛情を注いでいる。光が少しでも悲しむようなことは絶対にしない。

「解ったよ……」

 腕を掴んだ手から力が抜けた。だらりと下げられ、一緒にカクンと頭が下がる。

 別れも言わずに、彼は行ってしまったらしかった。

 それでも滉は息を殺して、ぐったりと手摺に寄り掛かった黒髪の青年を見つめていた。


                         *


「滉、どうしたのよ?」

 光に覗き込まれて、滉は物思いからさめた。

「ああ? いやD・Dがさ……」

 うっかり言いかけて口籠る。

 竜造寺は光には言うなと言った、確かに今ここで、ドルフェスの中に誰が居るのか光に教えれば、この片割れは逆上して我を忘れるに違いない。

「何よ、あの坊やがどうしたの?」

 幸い光は、ドルフェスの事と勘違いした。滉はほっとして小さく笑った。

「お前なァ、そりゃお前は年食ってるだろうけどよ、大の男を坊や呼ばわりは可哀想だぜ」

 横からパンチが飛んできた。

「誰が年食ってるですって?」

「……悪かった…」

 見事に決まったストレートに頬をさすりながら、滉は、前方の上空に小さく見えはじめたエアキャリーの噴射光を見つけた。

「あれだな」

「そうよ」

 むすっとしながら光はサイドの窓を開け、ネプチューンと併走していた二匹の猫を入れる。

「ンナアァァァウーー」

「マアァァァァウ」

 短距離スプリンター達は、長時間の追跡を強いられた事に対する不満を口々に言いながら飛び込んできた。

「光、猫入れんなよ。毛が飛ぶじゃねぇか」

 滉が口を尖らせる。

「何よ犬キチ。昔はネプがずーっと乗ってて、毛だらけだったじゃない」

「ネプチューンを縮めて呼ぶなよ、旦那の言い方みてぇだぜ、お前」

「夫婦だもん、似てくるわよ」

 滉の文句などどこ吹く風とばかりに、光は素知らぬ振りで二匹の猫達を撫ぜた。

 白い方の猫が、喉を鳴らしながら滉に擦り寄う。

「マウー」

 甘い声が洩れる。

「おー、ジュノーか、お前なら良いんだぜ乗ってても」

 目を細めて滉が笑いかける。媚を売る連れ合いを鼻で笑うような音を出して、黒猫が滉を睨みつけた。嫌悪に満ちた緑の目と、受けて立つ金褐色の目が激突する。

「あんたって、初代以外のジュピターと、どうしてこう仲が悪いのかしら」

 呆れた光が、ため息をつく。

「うるせェ、馬があわねぇンだ」

 ビルの狭間をネプチューンは疾駆する。エアキャリーの光が近くなってきた。

「ドルフェスなら、そっちのバカ猫にも好かれるだろうぜ」

 滉の憎まれ口に、光は怪訝な顔をした。

「そう言えば、あの子、D・Dの銃を持ってたわね」

 迎賓館の上空で、アルタイルに抱きかかえられながら、もたもたと取り出していた拳銃を思い出して、光が言う。

 テラスでの銃撃戦は見る余裕が無かったが、あの音は確かに夫の物だと確信していた。

「あれって確か、ネプが預かっていた筈よね」

「オン!!」

 返事はネプチューンがした。

 その嬉しそうな声に、内心ひやりとする。

 ネプチューンは初めから感づいていたのだ。ドルフェスの中に竜造寺がいる事を、いや、あの身体が竜造寺そのものである事を……

「そーみてェだな、顔が同じだから気に入ったんだろう。ナ、ネプチューン?」

 業と呑気な口調でそう言ってやる。しかし、寄せられた光の眉は解かれない。

「犬って、顔で判断したっけ?」

 疑る様な声音に、滉は本格的な危機を感じていた。光に隠し事をするのは、昔から滉の最も苦手とする事だ。どんなに胡麻化しても、ほんの少しの目の動きで察知して詰め寄ってくる。

 このままでは、かなりヤバイ。

 外側はあくまでも平静を装いながら、滉は冷や汗を掻いていた。

 天の助けか、エアキャリーが降下しはじめる。

「光、降りてるぞ」

「この先には、リニアラインのターミナルがあったはずだわ」

 ディスプレイに地図を出して確認する。

「ラインの行き先を見てくれ。ネプチューン、俺にハンドルを寄越せ」

 返事と共に計器類が点灯した。ハンドルを握ると同時にアクセルを目一杯踏み込む。まばらな車の流れを縫って、ネプチューンは滉の思うままに疾走しはじめる。

「ラインは東西に伸びてるわ。西は郊外へ出るラインよ」

「ダイヤは?」

「確認済み、今は何も走ってないわ。終電過ぎてるもの」

 ラインの高架が見えはじめる。高架に添って進路を変え、高架脇の道をひた走る。

「降りてる、あそこ!!」

 光に示されるまでもなく、リニア列車の屋根に、速度を合わせてエアキャリーが浮いていた。

「ダイヤには無い列車ね」

「ドナメトセラは金持ちだわなぁ、専用列車か?」

「派出好きなのよ」

 馬鹿にしきった声で光が言う。相手から言わせれば、津川家の人間にだけは、言われたくない台詞だろう

 その間にもキャリーは列車の屋根に着地した。

 キャリーとの接続が済むと、リニアは速度を上げはじめる。

「っきしょー、路面制約でこれ以上スピードを上げられねェ」

 少しずつリニアに遅れはじめて、滉は歯噛みをした。

 エアカー類は飛行する事も出来なくはないが、エアキャリーなどの航空専用機と違い、路面から発せられる信号パルスによって、かなりの制約を受けている。特別誂えの連邦捜査官の車と言えど例外にはならない。解除されるにはそれなりの手続きが必要である。

 もちろん既にネプチューンは、手続きを始めていた、だが、完了するにはまだ時間が懸かる。

「OK、私が行くわ」

 光が腰を浮かす。

「大丈夫か?」

 心配するのは口だけで、滉はさっさとルーフを開けた。高速によって巻き起こった風が、金褐色と黒い髪をかき乱す。

 風に逆らって光は立ち上がった。

「じゃ、先に行ってるから」

「おお、頑張れよ」

 六つの月が浮かぶ夜空へ、黒衣に身を包んだ細いシルエットが舞う。 間髪を入れずジュピターとジュノーが脇に取り付き、一気にリニアまで連れて行く。

 無事リニアに取り付き、進入口を探す。

 次第に遅れながら、夜景の仲に浮かび上がるそのシルエットを見つめ、滉はじりじりと動ける時を待った。



意外な伏兵。アルタイルの真意はどこに?そして、竜造寺とドルフェスの秘密とは

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