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17 Promise to Meet Again ──再会─

トリトンが連れて行く先には……




 トリトンは、ドルフェスの歩調に合わせて1メートル毎に振り返っては、早く来いと言いたげに顔を見つめてくる。

 小さなオコジョに追いつこうと、青年は小走りになっていた。

「トリトン、何処へ行くんだ?」

 聞いてもトリトンに返事を返す機能は無い。

 苛だたし気に2〜3度飛び上がり、廊下の曲がり角まで走っていって、再び青年の追いつくのを待つ。

 従業員用の通路をしばらく行くと、トリトンは非常口の前で立ち止まった。

「クウ」

「此処から出るの?」

「キュイ」

 そうだと言いたげに、ドアの縁を前足で引っかいてみせる。親機といい子機といい、滉の持ち物は人使いが荒い。

「判ったよ」

 素直にドアを開けて外に出る。自然の森を模した裏庭の、ひんやりとした夜気が体を包んだ。

 一見不用心に見える森だが、百を超えるセンサーと監視カメラが据えつけられ、表よりも更に厳しく警戒されている筈である。昼の説明だと、うっかり妙な所に踏み込んだら、容赦無くレーザーで撃ち抜かれると言うことだ。

 あんまり有り難くない。

 トリトンは青年の不安にはお構いなしで、どんどん森の奥に走っていく。

 ドルフェスはこわごわと周りを見回しながら後を追った。

 不意に森が開け、月明かりにトリトンの銀の体が煌く。

 ショーウトの光を受け、発光しているかの様な輝きを放ちながら、小さなオコジョは、空き地を走り抜ける。

 そして、向こう端にそそり立つ一際大きな巨木の下に佇む人物の肩に駆け登った。

 白いスーツを着た人影は、一瞬驚いたように黒い頭を巡らせて自分の肩に乗ったオコジョを見つめ、片手を上げてその頭を撫ぜた。次にゆっくりと後ろを振り向き、トリトンの後から空き地に駆け込んで来た青年を見て、そこで凍りつく。

 ドルフェスもまた、同じように止まっていたが、頭のなかでは、自分でも制御不能の嵐が巻き起こり、暴発した心臓の為に次第に体が震えてくるのを感じていた。

「け…けーぶ…?」

 辛うじてそれだけ呟くのがやっとだった。

 確かに、銀色のオコジョを肩に乗せて、驚きの表情を浮かべて立っているのは、変装のつもりか、髪を黒くした滉なのだが、頭のなかでは違うという声がするような気がし、背丈も一回り小さいような気がする。

いや、それ以上に、月の光を浴びて立つ姿の美しさに、青年は息を呑んだ。

 頬に生暖かいものを感じて、ドルフェスは慌てて顔を撫ぜた、手が濡れる。いつの間にか涙が出ている。頭の隅でいぶかしむのと同時に、この感情の嵐の正体を知った。

 歓喜。

 この人物を見て、自分は泣くほど喜んでいる。

 どうしてだろう?

 いけない、この儘では変に思われる。

 何か言おうと思うのだが、体は完全に凍りついて思うように動きそうには無い。

 月明かりを浴びながら、二人は暫くにらみ合った形となった。

 止まったような時間を最初に破ったのは、黒髪の滉だった。

 彼はやっとの思いで、束縛を振り払うように頭を振ると、つかつかとドルフェスの前まで歩み寄ってきた。

 やはり高さが違う、青年はぼんやり考えた。滉は彼より目線が高いが、この人物の目線は青年より僅かに低い。

 誰なんだろう? 呆然とその端正な顔を見つめていると、意気なり胸ぐらを捕まれ、同時に頬に激痛がはしる。

「!?」

横っ面を張り飛ばされたと気づいたのは、折り返しでもう一方の頬を叩かれた時だった。

「よくも…よくも今頃になって、のこのこと出て来れたわね!」

 聞き覚えのある女の声が、耳元で弾けた。

「え?」

「今まで何処をほっつき歩いてたのよ!!」

 両手で青年の襟首を握りしめ、渾身の力を込めて前後に揺さぶってくる。

 首を絞められたドルフェスは、必死にその腕を振りほどこうとしたが、自分よりもはるかに細い腕は、万力のようで、びくともしない。

「くっ…苦しい…」

 仕方なく両手をばたつかせてアピールすると、彼女は慌てて手を放した。

「あ、ゴメン」

 久しぶりに流れ込んでくる新鮮な空気に、激しい咳を催しながら、青年はこの途轍もなく荒っぽい、滉そっくりの女を見た。

 彼女はぐいと顎を上げて青年を睨み付けていたが、その白い頬は、何故か濡れたように光っていた。

「あのう…もしかして、津川光さんですか?」

 恐る恐る尋ねてみる。

「他の誰だってのよ。ふざけ無いで!」

「済みません」

 相手の剣幕に思わず謝ってしまった。

 青年を睨み付ける、滉と同じ金褐色の目に、始めて訝しげな光が刺した。

「? …あんた、誰?」

「そいつがドルフェス、今のところ俺の部下だよ」

 あらぬ方から滉が言った。

 二人が声のほうを向くと、さも嬉しそうなにやにや笑いを隠しもせずに、木々の間から滉が現れた。後ろにアルゴルの服装をした金髪の男が続く。

「あんたの仕業ね…」

 光の目が、剣呑な色を浮かべる。滉は、険悪な視線を平気で無視しながら、二人の前まで進み出た。

「滉、あんたこの坊やのこと、業と何にも言わなかったわね」

 今にも爆発しそうな押し殺した声で光が尋ねる。

「そーだっけ? 名前もどういう奴かも言った筈だぜ、他に特別な事も無いし…?」

 しれっとした態度で滉が答えた途端、光の手が白く閃いた。それが、頬に炸裂する寸前で軽く身を引いて受け流す。

「っとに、手の早えェ女だな」

 にやにや笑いを浮かべたまま、滉が文句を言う。

 光の怒りが爆発した。

「あんたの陰険さ加減よかましだわよ! まったく、こんな野郎と一緒に生まれたかと思うと虫酸が走るわ!! よくも人をコケにしてくれたわね! この女っ垂らしのスットコドッコイ!!」

「久しぶりに再会した兄に向かって、その言い草はねェだろう」

光の剣幕など何処吹く風で、滉はまだ薄ら笑いを止めようとはしない。

「出来ればもう少し後で会いたかったわ」

「だとさ」

光の答えを受けて、滉が後ろの男に笑いかけた。

「無論のこと、光は私との蜜月を楽しんでいたのだよ」

 純白の民族衣装の男は、優雅な仕種で肯いて見せた。

 月明かりに輝く、癖の無い黄金の髪を持った、恐ろしいほど冴え冴えとした美貌。

「坊っちゃん!! 勝手な事言わないでよね」

ぎろりと、光が睨みつける。

「私は諦めないよ、何、時間だけはたっぷりある。色好い返事を待っているよ」

滉と同じく、光の剣幕を気にも止めずに、金髪の貴公子は優し気に微笑んだ。

 ライートがこのささやかな空き地に光を投げかけ、彼の表情を顕にする。

 滉や光もかなりの美形だが、坊っちゃんと呼ばれた人物は、本当に男かといぶかしむ程に優美で気品のある美貌の持ち主だった。

 美しいが、不思議な感じのする男である。

 ドルフェスは、はじめ、彼をもっと歳をとった男だと思っていた、口調や仕草、全体から漂ってくる雰囲気が何となく老練な物を感じさせたのだが、こうして光の中ではっきりと見てみると、むしろ若々しく華やいだ印象を受ける。飛び抜けた美貌が、彼の年齢を希薄にし、シャドウの様な人外の美しさを醸し出している。

 そこでドルフェスは、改めて彼の様子に気がついた。

 形の良い唇に穏やかな微笑みを浮かべて、見ている方が圧倒されるほどの、威厳に満ち、光を湛えた彼の紺碧の瞳は、ぴたりとドルフェスに向けられている。

ドルフェスは、この金髪の貴公子の顔に、何となく見覚えがあるような気がし、微かに首をひねった。

「それにしても、いやはや、全く驚いたよ」

金髪の貴公子が溜め息と共に、呟いた。

「今頃こんな顔に出会うとは、竜造寺とはよほど強い(えにし)が有るようだな」

余裕の有る微笑みの侭、彼はしみじみと言った。ただ、言葉の割には、表情にも仕草にも、かけらも驚いた様子は感じられない。

「いくら似ているからったって、こいつで兄貴の仇は取るなよ、別人なんだからな」

冗談めかして滉が言う。貴公子は、軽い笑い声を立てた。

「ははは、うっかり仇討ちなぞをしたら、私が兄者にどやされる。第一、仇を討つならば、滉、真っ先にお前を殺しているよ」

奇麗な割には物騒な事を平気で言う。

「さァすが、殺戮兄弟の片割れだぁな。言う事が違うねぇ、ブラコンは治ってねェけど」

軽口を飛ばし合い、美形の男同士はからからと笑い合った。

「……ちょっと…そこのホモダチコンビ」

額に青筋をたてているような光の低い声が割り込んだ。

「ひでぇ事言うなよ、こいつと一緒にすんな」

「全くだ。閖吼(ユルク)やアレクスそれにアクアならば一考の価値は有るが、滉ではな。私にも好みというものがある」

「私の息子達を変な道に引き込まないでよ」

 貴公子は、さも驚いた様に首を振った。

「知らなかった。三人は君と滉の子供だったのか」

「お〜そうなると、ギュネイが孫かぁ。可愛げねえなあ」

 軽口に便乗して滉がせせら笑う。

 ぐっと光の拳が握られた。

「楽しそうね…」

 指の長い手が優美に閃き、貴公子はアルゴルの正式な礼、クシャリスタをしてみせた。

「気に障ったのならば謝ろう、我が愛しの君よ」

 かつて皇帝へのみ送られた、最高の敬意を表す流れるような動作は、話についてゆけずにぼうっとしていたドルフェスの目にも、どきりとするほど華麗だった。

 が、怒り心頭に達した光には何の効力も無かったらしい。

「誰が愛しの君よ。あんたが私を誰の身代わりにしたがってるかよ〜く知ってるわよ」

「そりゃあ、なげぇ付き合いだからなぁ」

 のんびりと滉が茶々をいれる。

「滉、私は何も香花の身代わりに光を欲している訳では無いぞ。一緒にしたら香花が気の毒だ」

「なんですって?」

「ともかく、共に遠き地に旅立った愛しい者を思い続ける者同士、一緒になるのが一番だ、そうは思わないか?」

 にっこりと光に微笑みかける。蕩けるような視線を、真っ向から睨みつけて、光は軽く息を吐いた。

「アルバム代わりも御免だわ」

「つれない事を…」

 光の冷たい言葉に、貴公子は悲しげに首を振る。

 しかしその仕草には、どことなく楽しんでいるような嘘臭さが漂っていた。

 不意に静かな鈴の音が木々の間に流れた。

 貴公子の胸元を飾っている豪奢な紋章の縁に付けられた鈴が、柔かな和音を奏でていた。

 彼の指がそっと紋章を触る。

「どうした?」

『…』

 貴公子の問いに幽かな声が答え、彼はゆっくりと肯いた。

「判った…全く、私が居らねば何も出来ぬのか。滉、光。すまないが戻らねばならない」

 先程とは打って変わって、今度は実に残念そうにため息を付いた。

「では、これで」

 軽く一礼して踵を返そうとする背中に、滉が声をかけた。

「アル、護衛も付けずに行くのはどうかと思うぜ」

 滉の言葉に振り返った貴公子は、微笑みながら小首を傾げる。

「しかし滉、お前は光に用が有るのだろう?」

「ああ。だからさ、こいつ連れてけよ」

 ぐいっ、と親指を突きつけられて、ドルフェスは途惑った。

「へ…?」

 貴公子は、戸惑っている青年に、面白がっている様な目を向けた。

「ふむ、悪くは無いが。滉、どっちの護衛だ?」

「どっちでもいいんじゃねーの。出来る方がやればいいさ」

 呑気な答えに軽く吹き出して、貴公子はドルフェスの側に歩み寄った。

「まあ、久方振りにこの顔と歩くのもいいだろう。ドルフェス、来るがいい」

「ま、そういうこった。D・Dよろしくたのまあ」

「は…はい」

 おずおずと肯いたドルフェスに、それまで業と青年の顔を見ようとしなかった光が、弾かれたように振り返った。

「何それ!!」

「どうした光?」

「D・Dって誰よ」

 今までの怒り方とは違う、酷く冷たい声音だった。

「こいつ」

 様子の違ってきた光にも、全く頓着せずに、滉がドルフェスを指差す。

「あんたが付けたの?」

 光の声はますます低くなる。

「うんにゃ、初めからそう呼ばれてたぜ」

 光はゆっくりと肯いた。

「そう。なら、あんたに少しでもデリカシーがあるんなら。…私の前で二度とこの坊やをD・Dなんて呼ばないで!」

 悲鳴にも似た叫びとともに、ぎろりとドルフェスを睨みつける。

 まるで親の敵を見るような冷たい目。

 ドルフェスの胸の奥に、固く重たい石がずしんと乗せられた。

「言いたい事はそれだけよ。滉、あんたも行ったら?」

 そう言い捨てて、光はさっさと森の中に入っていった。彼女の足元を擦り付く様にトリトンが続く。

「おい、光。待てよ」

 挨拶代わりに手を挙げて、滉は光を追って行った。

 森の中から、滉を罵倒する光の声と、のんびりと返事をする滉のそれが、ゆっくりと遠ざかっていく。


 ドルフェスは双子の声を聞きながら、その場から動けずにいた。

 この僅かな出会いの時間で、ドルフェスは、光が夢の女だ、という確信を持っていた。

 確かに髪の色は違うが、ドルフェスには、あの黒い髪の陰に、燃え上がるような金褐色の輝きが隠されているのが はっきりと解った。

 間違い無い。彼女こそ、長い間夢に見続けたあの女だ。

 死の床から幽かな微笑みを返し、良くも悪くも、青年の心を捉えてきた、自分の夢の産物だと思ってきた女。

 その彼女が、血肉を持った人間として、青年の前に立っていた。

 夢の中の生き生きとした笑顔のどれよりも、更に生命力に満ち溢れた存在感を発して、彼女はそこにいた。

 そして、彼を真正面から拒絶した…

 ドルフェスの胸の奥で大きくなりはじめた、重く固い石の冷たさが、青年の心臓に鈍い傷みを与えていた。

 自分が酷く情けなく小さな存在に感じられる。

 この辛さは何だろう?失恋?そうかもしれない。

「やれやれ、とうとう新月にしてしまったか。滉はからかい方の限度を知らんからな」

 自分も一緒になってからかっていた事など、さっさと棚に上げた貴公子が、ため息混じりに呟いた。

“新月にしてしまった”と言う奇妙な言葉に、去り際の光の、泣いている様な後ろ姿が重なって、成る程と思う。

 月の女神は悲しみの為に姿を隠してしまった。自分が現れたせいで…

 不意にドルフェスは、胸の中の石の正体に気が付いたような気がした。

 失恋の失望などではない、まして、絶望ですらない。これは…

――罪悪感…

 石が更に重く冷たくなった。

「トゥア・ドルフェス、もう行こう」

「え?」

 貴公子の声で、青年は我に返った。

「私にも余り時間が無い。光も滉も、暫くすれば戻って来ようしな」

 促すように軽く顎をしゃくり、彼は迎賓館の方へと歩き出した。

 貴公子に附いて歩き出しながら、ドルフェスはもう一度光の入っていった森を振り返った。さっきから、脳裏を離れないイメージが、木立の中に見える様な気がしたからだ。

 それは、滉に縋り付いて泣いている光の姿。無言で背中を撫ぜている滉の胸に顔を埋めて、肩を震わせている。

――ああそうだ、あの双子は何時も、どちらが泣いているのか解らなくなる迄、ああやって相手の悲しみや苦しさを 飲み込み合ってきた。人前では絶対に見せない光の涙を、滉はどれほど受け止めてきたのだろう…光もまた同じだ。

 何時から…?

 そう、二人の母親が死んだ時から、双子は互いを支えて、時には意地を張り合い、寄り添ってきた。

 …ああ…光は未だ泣いている。

 声を殺して、鳴咽さえもひそめて……

 意地っ張りめ、声を上げて泣いてしまえばいいのに、光は何時もあんな泣き方しかしない…

「何だこれ…」

 ドルフェスは、戦慄を覚えて思わず立ち止まった。今し方まで自分の考えていた事が信じられなかった。

「俺、どうしたんだ?」

 双子の今までなんて知らない。母親の事なんて知るわけが無い。光の泣き方なんて見た事無い。だのに、何故、思い出して感傷に浸っているんだ?

 第一、このイメージは何だ? 光の髪が滉と同じ色で、二人ともまるで十代の様に若く思える。こんな二人を自分が知るわけが無い。

 これは誰の記憶なんだ?!

 以前病院で、デ・ジャヴの示す、自分の物ではない記憶にぞっとした事があったが、あの時はカイマン達から受けた毒の所為だと納得していた。

 だが、今のはそうではない。

 青年は今度こそ、自分の中に別の記憶が有ることを認めざるを得なかった。

「誰が居るんだ?」

 思わず声に出して呟く。

「おや、やっぱり気が付いていたんですね、僕が居る事」

 後ろから返事がきた。

「え?」

 振り向くと、にっこりと微笑んで魅羅が立っていた。

「魅羅さん…」

「お久しぶりです」

珍しく丁寧な口調で魅羅は軽く頭を下げた。

そして、微笑みを浮かべたまま近づいて来た。

「貴方に、ずっと逢いたかった」

「え?」

気が付くと、魅羅の顔がすぐ目の前にあった。

近々と改めて見ると、実に奇麗で品があって、それに色っぽい。

――…あれ? 何か違うぞ?――

 ドルフェスは目の前の魅羅に違和感を覚えた。が、疑問を口にする前に、細い腕が首に巻き付く。

「え?!」

 奇麗な顔がぐんぐん近づいて……唇に柔らかな物が押し付けられた。

――えーー?!!!――

 心臓が爆発したみたいにテンポを早め、何時もながら突然の事態に対処しきれない青年の頭は、さっさと真っ白になってしまう。

 形の良い眉の下で軽く閉じられた目と、長いまつげが視界を独占している。

 硬直した背中に滑り降りてきた手に僅かに力が込められ、重ねられた唇から差し込まれた暖かい何かが、まるで味わう様に青年の唇の内側をくるりと撫ぜて、仕上げに一度強く唇を吸ってからゆっくりと離れていった。

 魅羅は一歩離れて、未だ硬直した儘の青年を見つめ、妖艶と言えるほど艶のある微笑みを浮かべてみせた。

 今までの、青年の知っている限りでの魅羅には無い大胆な行動である。

――うわーど…どうしよう…――

 停止した思考活動の中、目の前の魅羅から感じる違和感が、更なるパニックを引き起こし、ドルフェスは飽きずに硬直した儘じっと魅羅と見つめ合った。

「何だ、お前も出てきたのか」

 貴公子が二人の側へ歩み寄り、魅羅に優しく笑いかける。

 ついて来ない青年をいぶかしんで引き返して来たらしい。

 魅羅は、貴公子に会釈を返した。長い黒髪がさらさらと音を立てて揺れ、ドルフェスに優雅な物腰を改めて見せ付ける。

――あれ?――

 ここで初めてドルフェスは魅羅の服装が、何時ものパステルカラーのタイトスーツではなく、地味な色合いのメンズスーツだという事に気が付いた。

――似合ってるけど…――

 口さえ開かなければ、見た目はしっとりと落ち着いた大人の女性というのが魅羅である。

 加えて男物のスーツが知的な雰囲気を醸しだし、何よりも、今夜の魅羅はたおやかで色っぽい。

 そう、ここが違う。

 どうにか頭が少しずつ動き始める。

 目の前の魅羅と、いつもの彼女との違いを考える青年の横で、貴公子がにこやかに口を開いた。

「その様子だと、ドルフェスへの挨拶は済んだようだな、閖吼(ユルク)

――え…? 閖吼…?――

 改めて、目の前の人物を見る。

 やはり何処から見ても魅羅である。だが、とても色っぽい。

==閖吼は私の兄よ、お医者さんなの。==

 以前魅羅が言った言葉が脳裏を過ぎる。

==私の兄よ==

――兄っていったら…――

 再び衝撃が襲ってきた。

 背中に悪寒が走り、思わず口を押さえて後づさる。

 狼狽する青年を見て、貴公子は片眉を上げた。

「ふむ、中々情熱的な挨拶だったらしいな」

 真面目とも冷かしとも取れる言い方に、閖吼は妖艶に微笑んで見せた。

「これは、お褒めに与かり光栄です」

 そして再びドルフェスに向き直り、青年が更に2歩程後ずさるのを気にも止めずに、今度は軽く会釈をした。

「自己紹介が未だでしたね、僕は津川閖吼。魅羅の兄です。どうぞ宜しく」

 ドルフェスは、閖吼の微笑に怯えながら、小さく頷き返した。閖吼がくすりと笑う。

「ところで、どうしてこんな所までお前が出てきたのだ? エゼルはどうした?」

 貴公子の問いに、閖吼は足元に置いてあったケースから、一振りの刀を取り出した。

 半円を描く様に彎曲した円月刀である。

 このタイプの刀によく見るような派手な装飾は無かったが、柄や鞘に見事な彫刻と象眼が施されており、かなり値打ちのある物だろうと思われた。

「これを御前にと…」

 閖吼の言葉に、貴公子の顔に氷の様な微笑みが浮かんだ。

「ライファンからか…?」

「はい、すぐに御入り用になるだろうと。エゼルは彼を守ってくれています」

 奉げ持つ様にして閖吼が差し出した刀を受け取ると、貴公子はゆっくりと肯いた。

「判った。楽しみだな」

 閖吼は貴公子に礼をするとケースを持ち上げた。

「では僕は、父達に伝えてきます」

 2〜3歩歩きかけて、閖吼は未だ真っ青になっているドルフェスを見て足を止めた。

「有り難う。お陰で、永年の夢が叶いましたよ」

 再び極上に妖艶な微笑みを送ってよこし、柔らかな髪をなびかせて、閖吼は森の中に消えていく。

 惚けた様に後ろ姿を見送っていた青年は、貴公子の含み笑いで我に返った。

「あ…あの、俺…」

「トゥア・ドルフェス、お前は気にしないで良い。あれの挨拶は、竜造寺へ送られたものだ」

 その言葉で、ドルフェスは真っ赤になった。

 閖吼が、自分を竜造寺では無いと知っていながら身代わりにしたから。

「か…彼は知っていたんですね、俺の事」

「ああ。私と共に、滉からお前の映っているモニターを見せられたからな。あ奴め、余程人が驚く姿を見たかったらしい。確かに、あれほど驚いた閖吼の顔を見たのは初めてだったな」

 面白そうに肯く貴公子を見ながら、青年は頭を抱えた。

 頭の隅を、呆れた様な視線の魅羅の顔がかすめる。

 生まれて初めて男にキスされたショックから、まだ立ち直れそうに無い。

 おまけに其れが竜造寺の身代わりときた。

「いったい、竜造寺龍也って何なんだ…?」

 思わず呟いた言葉を受けて、貴公子が再び肯く。

「その気持ちはよく判る。まこと、津川の家の者達にとって、竜造寺はどれほど大きな存在になっているのやら」

「貴方は、竜造寺龍也を御存じなんですね」

 貴公子に話しかけて、ちらっと彼の名を知らない事が気になったが、今はそんな事に構ってはいられない。

「教えて下さい。彼はどんな人だったんですか? シャドウさんや魅羅さんから、色々と伺いましたが未だよく判らないんです」

 青年の真剣な問い掛けに、貴公子は軽く笑った。

「其れは二人の言う事がそれぞれ違っていて、どれが本当の奴の姿か判らぬと言う事か? 其れならばダフネの言う事が最も正確だ。あれは物事を客観的に見ることのできる女だからな。それとも、光、魅羅、閖吼。この三人が、あの男に何故に恋い焦がれているのかが判らぬのか?」

「恋…」

 貴公子に逆に問われて、思わず言葉に詰まる。魅羅の夢見る様な顔。D・Dと聞いたときの光の怒り。妖艶な閖吼の微笑み。それらが頭の中をぐるぐると回り出して、何だかむかっ腹が立ってきた。

「俺が知りたいのは、恋だのとかそんな事じゃなくて。俺…彼の所為でか何か訳判らないんですけど、ずっと命を狙われているんです。その訳が知りたい。化猫達は、俺を見る度にDragon Makerと言って殺しに来る。俺は竜造寺じゃ無い。理不尽ですよ。顔が同じってだけで何でこんな目に会うんです?! 挙げ句…」

 酷く惨めな気分になって、後は続けられ無い。

「光には竜造寺では無い事で腹を立てられ、閖吼には身代わりで口づけをされる。…確かに、竜造寺は居ても、ドラゴ・ドルフェスは何処にも居らぬな」

 優しい静かな声音で、憤りの核心を突かれて、青年は唇を噛んだ。

「猫共の事は知らぬが。津川の方は許してやる事だ、光はもとより、閖吼も悪気でした訳では無かろう。ただ竜造寺への思いが強すぎただけだ。第一、滉や魅羅は、今まで一度でも、お前を竜造寺として扱った事は有るまい?」

 確かにそうだ、二人とも、始めに驚きはしたが、後は自分をそのまま受け入れてくれた。それはシャドウも同じだった。だからこそ、青年は滉達を信じてこれたのだ。ドルフェスはゆっくり肯いた。

「津川の者達は、どう仕様も無いほどの悪戯好きな上、多少家族で纏まり過ぎて排他的な所も有るが。決して人を踏みつけたり、蔑ろにする事は無い。トゥア・ドルフェス。今までのように津川を信じてやれ。彼等に出会えた事は、お前にとって何よりの幸運だ」

 指の長い手がそっと肩に乗せられた。ドルフェスにはその手がとても暖かく感じられ、その暖かさがじんわりと心に凍み込んで来るような気がした。

 少なくとも、ここにも自分をそのまま受け入れてくれる人がいた。

「そうですね。俺、竜造寺龍也に焼き餅を焼いていたみたいです。有り難うございます、愚痴を聞いて下さって」

 ぺこりと頭を下げる青年に、貴公子は慈愛に満ちた優しい微笑みを向けた。

「それで良い、トゥア・ドルフェス」

 鷹揚に肯く貴公子の顔に、ふと、母、アンジェラを思い浮かべる。

 似ている所は髪と目の色ぐらいなのだが、青年を見つめる碧い瞳に不思議な親しみやすさを感じる。その瞳が、悪戯っぽい笑みに細められた。

「しかし、私に言わせれば、津川の者達が何故に、あれ程まで竜造寺に執着するのか判らんよ。あ奴の毒舌は、本当に(はらわた)が煮えくり返る。叩っ斬ってやろうと決心したのも、一度や二度では無かったぞ」

「そうなんですか?」

 青年が黒い目を見張ると、貴公子は再び肩に手を乗せた。

「お前の美徳は、その素直さと忍耐強さだな。それに、分を(わきま)える事も知っている。良い育ち方をしたのだな」

 不意に褒められて、ドルフェスはどぎまぎして頭を掻いた。

「あ…いえ…どうも…」

 貴公子は微笑みを深めながら、肩に乗せた手をすっと腰に滑らせた。

「え?!」

「だがまあ、過去の人間である竜造寺に思い煩うよりも、今我々が為すべき事を考えねばなるまい。トゥア・ドルフェス、覚悟は良いか?」

 腰の手にぐっと力が込められ、体が引き寄せられる。ドルフェスは貴公子に抱きかかえられる格好になった。

「え? あの、ありません! 覚悟なんて何にも無いです!」

 真っ赤になって、逃げようとする青年を、片腕でがっちりと捉えたまま、貴公子は何やら口の中で呟き始めた。

「ラス・パスティアルス…パルドアルナ……アティヤエルドオン…我の求めに応じ、扉を開け」

 碧眼がかっと見開かれ、金の髪が扇の様に広がり、次いで淡い光を放ちはじめる。

――えー――

 ドルフェスは信じられない面持ちで、貴公子と自分の体を見比べた。

 ぼんやりとした光が貴公子の全身を包んでいき、爪先まで包まれると、ふわりと浮き上がる。当然、抱きかかえられている青年も一緒に浮いて行く。

「わー!!」

 慌てて手足をばたつかせ、何とか異常事態から逃れようと試みたが、青年を捕まえた貴公子の腕は、見た目よりも筋肉質でがっしりとしており、相変わらず微動だにしない。

「トゥア・ドルフェス。余り暴れると舌を噛むぞ」

 楽しそうな貴公子の声が、耳元で囁く。

 二人の体は加速をつけて上がって行き、既に大木の梢に手が届く程迄になっていた。ドルフェスは諦めて、と言うよりは、高所への恐怖から貴公子にしがみついた。

「よし、しっかり掴まっておれ」

 梢の最も上の葉が足の下を通過した所で、二人は静かに停止しする。

「此れぐらいで良かろう。ライファン!!」

 誰かの名を呼び、胸の紋章に軽く触れる。

「客の様子はどうだ?」

『三々五々お集まりの御様子です』

 低い幽かな声が答えた。貴公子の口元に冷たいだが楽しそうな笑みが浮かぶ。

「よし、全員が入るまで何もするな。判っていようが、この晩餐会に出口はないぞ」

『もとより承知』

 貴公子は、肯きながら迎賓館に目を向けた。この高さからは、三つの月からの光を浴びている屋根の連なりと尖塔、そして建物の中央の屋上に設えられた広いテラスが見える。

 そこから奥の更に一段高くなった屋根の向こうが、ぼんやりと明るいのは、さっきまでドルフェスが見ていた、正門に詰めかけた報道陣のライトだろう。

「表の野次馬や、中の者達には気どられるな。夜会の邪魔をしては、アルタイル・アルナスル殿下に悪いからな」

『承知仕りました』

 幾分皮肉を込めた貴公子の声に、相手は冗談を聞いたと言いたげに、笑いを含んだ返事を返してくる。

『もてなしの支度は整っております、御指示を』

 ライファンの声に促される様に、貴公子は再び紋章に触れた。

「ウル、客の出立(いでたち)は如何だ?」

『賑々しく正装なさった方々が30名様、何の装いも為さってない方々が15名様程という所ですな』

 ライファンとは別の声が答えて来る。

 押し殺したような囁き声だったが、妙に楽し気に弾んでいる。

「素っピンはどうせ猫だろう。オイス達の担当だ。お前達は礼儀正しく着飾った連中の接待だ。粗相の無い様にな」

『承知仕った。御前。其方の首尾は?』

「上々だ」

 貴公子が満足そうに微笑んだ。ここへきて、ドルフェスはやっと、この会話が何か物騒な事の準備だと判ってきた。

「あのう…何が始まるんですか?」

 恐々聞いてみる。ドルフェスの声に、ウルが嬉しそうな声をあげた。

『おお、御前。其方の御方が御曹司ですな』

 いきなり妙な事を言われて、ドルフェスは面食らった。

「へ?御曹司?いえ、俺、ドラゴ・ドルフェスですけど…」

 何処ぞの坊っちゃんと間違われているらしいので、慌てて名乗ったが、相手はそれを冗談だとでも受け取ったらしく、軽い笑い声まで聞こえてきた。

『ドルフェスとは?! なんとそのままではありませんか。アンナシェ…』

「ウル」

 何かを言いかけたウルを、貴公子が遮る。

 その声音に、らしくも無く慌てた様な響きを感じて、青年は貴公子の顔をそっと盗み見た。しかし、月明かりを受け、自らも淡く光っている超然とした顔には、何の表情も現れてはいない。

「無駄口を叩いている暇は無いぞ」

『申し訳無い。御前、お許しを』

「まあ、良い。そうそう、喜べ、滉も参加するそうだ」

 小さく口笛が聞こえた。

『地獄の太陽神が手伝って下さるとは、有り難い限り。警備主任も心強いでしょうね。ま、どうせ騒ぎを知らん振り出来る人じゃ無いか』

「当たり前だ、あれは歩く騒動だからな」

 ドルフェスは貴公子の言葉に、思わず吹き出しかけた。

 どうやら滉は、何処ででも物騒だと言われているらしい。

『所で、御前。此処から拝見いたしますと、何やら得体の知れぬ物が空に浮いておりますが?』

 ライファンの声が割り込んで来た。貴公子が眉をひそめる。

「無礼者。私だ」

『左様で御座いますか、此れは御無礼を。しかし、御前は、確かこちらに御出でになって指揮を御取りになられる筈と伺っておりましたが。手前の記憶違いでしょうか?』

 慇懃に聞いて来るライファンに、貴公子はにやりと笑った。

「そんな事、信じてはおらなんだ故、閖吼に(つるぎ)を持たせたのだろう?」

『とんでもない。あれは護身用です。お客様は皆様、御前に御会いするために来られているのですからな。それに、御前はよく行方知れずになるのが得意でいらっしゃるから、素手ではあまりにも不用心と思いまして』

 貴公子は煩そうに短く息を吐いた。

「私は此処で指揮をとる。異存はあるまい」

『はい、そこで指揮を御取りになられるのですな?』

「そうだ」

 くどい、と言いたげに貴公子が眉を寄せる。

『重ねて御伺いいたします。そこで、《指揮だけ》を、御取りになられるのですな?』

 ドルフェスは、ライファンがにやついている様な気がした。

 きっと彼は、貴公子が何をしたいかなんて、最初から判っていて厭味を言っているのだろう。その証拠に、貴公子は苦い物でも口にした様な顔をしている。

「ライファン。それで、客はどうなっている?」

『皆様御入場なさったよし。ヤーユアイとイルダナフより入り口を閉めたと伝えて参りました』

 気を取り直したらしい貴公子が、ゆっくりと肯いた。

「よし、我々の夜会を始めよう」









これでメインキャラが出揃いました。

閖吼と光がやっと登場です。

Angel cry とお父さんと一緒、を読まれた方には、キャラを比べてみてください。


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