15 A Suspicion──疑惑──
矛盾した、二人の滉
火柱に赤々と照らしだされ、夜空に浮かび上がった病院の光景が、市街の建物の陰に見えなくなると、ドルフェスは自分の両肩を抱きしめてがたがたと震えだした。
血の気の失せた顔からどっと汗が吹き出し、真っ白な唇から、がちがちと歯のぶつかり合う音が聞こえる。
エミーは傍若無人に怒鳴ったかと思えば、みっとも無く怯える青年の、常軌を逸した態度に眉を寄せた。
「さあ、そろそろ説明って言葉を思い出して欲しいわね」
なるべく冷たく聞えるように、青年に向かって言い放つ。
「せ…つめ…い? してほしいのはこっちだよ。何だってあんな化物に追いかけ回されなくちゃいけないんだ? 何で殺されるんだ? あいつらは何なんだ?」
関を切ったように、ドルフェスは疑問を並べ立てる。
「俺が何したって言うんだ? ただDragon Makerに似ているってのが理由なのか? あいつは何をやったんだ」
「Dragon Makerて何よ?」
「龍造寺竜也だ、銀河警察機構の創始者だよ! あいつの所為で俺は殺されるんだ!! 教えてくれよ! 何でなんだ!!」
逆上してわめく青年に、エミーも負けずに怒鳴り返す。
「あたしに怒鳴んないでよ! 知るわけないでしょ!」
ドルフェスは血走った目をエミーに向けた。前を睨み付けて、乱暴にハンドルを切る女の白い横顔が、対向車のライトに浮かび上がる。
青年は疲れた目を閉じた。
シートに身体を沈めると、自分でもおかしいくらい震えた吐息がもれる。
「ごめん…」
やっとそれだけ言うと、まだ握り締めていた拳銃を膝の上に置こうとした。だが、白くなるほど力を入れ続けた指はすっかり固まってしまって、拳銃は身体の一部のように手に吸いついて離れなかった。
苦労して指を引き剥がし、やっと自由になったと実感した時、数台の消防車が、病院に向かって爆走して行くのとすれ違う。
病院の惨状を思い出し、滉達は無事に脱出したのか急に心配になった。
そういえば、先程からシャドウは何も言わない。落としたかと不安になり、ポケットをまさぐると、冷たく固い感触を見つけて安心した。
いや待て、冷たい?
ドルフェスは慌ててクリスタルを取り出した。透明な水晶体は走り去る街の灯りを反射してきらきらと光るが、もう薄紫の光は何処にもない。
「シャドウさん!? シャドウさん!!」
目の前が真っ暗になった。
たった一つの頼みの綱が無くなってしまった。クリスタルは内蔵エネルギーの全てを遣い果たしてしまったのだろうか?
「シャドウ…」
呆然とクリスタルを手に持って、ドルフェスはシャドウの名を繰り返した。
「何よあんた。どっかおかしいんじゃない?」
いきなりクリスタルを掴んで叫びだした青年に、エミーの冷たい声が浴びせられる。
「それ何? 子供みたいにそんなの持って何言ってんのよ」
ドルフェスは、エミーの声など耳に入らないかのように、俯いて手の中のクリスタルを見つめている。
エミーは唇を尖らせた。
「そ、あたしには怒鳴る以外何も言いたくないわけね。よーく判ったわ」
邪魔な前の車を、邪険にハンドルを切って追い越す。やっと顔を上げたドルフェスの目に入ったのは、目を怒らせて前方を睨む同僚。
「ごめん、エミー。助けてくれたのに、悪かった」
素直な詫びの言葉を聞いて、エミーはアクセルを緩めた。
「別に、助けようと思ってたんじゃ無いわ。あんたが勝手に乗り込んできたんじゃない」
言葉のわりに、声音は柔らかになっている。
「君は、どうしてあそこに?」
ぼんやりと聞き返してくるドルフェスに、エミーは苦笑をもらした。
「あんた聞いてばっかりね。あたし、チェリー・リーと一緒に、近くのカフェテリアで休憩してたのよ、そしたらいきなりドカーンでしょ? 何事かと飛んできたのよ」
少し表情を和らげて、エミーはドルフェスに答えた。
「チェリー・リーは?」
2by4のシートには、二人の他はいない。
「置いてきたわ、遅いから」
あっさりと言い捨てるエミーの言葉に、ドルフェスは彼女の相棒の苦労を思いやった。
「さあ、今度はあたしの聞くことに答えてよ。あの爆発、あんたがやったの?」
ドルフェスは、少し考えてから渋々と頷いた。
「原因は俺だろうな。ネプチューンが、化物から俺を守るためにやったんだ。いや、あの灰色の奴、俺を殺すため爆弾を仕込んでいたのかも…」
エミーは煙草を取り出して火を付けた、紫煙が車内にゆっくりと広がる。
「さっきからずっと、殺されるって言ってるわね、どういうこと?」
「判らない…あいつは主人の命令で俺を殺すとしか言わないんだ…」
再び震えだしたドルフェスの声に、エミーは慌てて質問を被せた。
「あんたのお大事の検事さんはどうしたのよ。守ってくれなかったの?」
つい声が刺々しくなる。ドルフェスは首を振った。
「魅羅さんは、あいつにやられて怪我をした。きっと警部が助けたと思う…」
そうあってほしい、ドルフェスは強く願った。魅羅の明るい笑顔がもう二度と見られなくなるなんて、耐えられない気がする。
エミーは煙とともに含み笑いを吐きだした。
「ふふっ津川けーぶさんね、あの二人、できてるって噂あるの知ってる?」
「え?」
虚を突かれてドルフェスはぽかんとエミーの横顔を眺めた。
「あたしの叉従兄弟、連合司法局にいるの。司法局じゃ有名らしいわよ、どんな時でも必ず一緒に派遣されるんですって。津川警部は女好きだから、もうただの仲じゃ無いだろうって」
聞いた途端頭に浮かんだのは、いわれのない近親相姦に腹を立てている魅羅の顔だった。彼女はきっと、如何に署長を慕っているか、力説することだろう。
ドルフェスは吹き出してしまった。
一旦笑いだすと、疲れた神経はなかなか笑いを止めてくれない。ヒステリックに笑い転げるドルフェスを、失恋のショックと取ったエミーは、勝ち誇ったような微笑みを浮かべて憐れみの言葉を投げた。
「可哀相に、遊ばれてたのね」
笑いすぎた青年は、酸素不足で咳き込みながら、手と首を同時に振った。
「違う…違うよ…。警部は魅羅さんにだけは、絶対そんな事するはずがない」
「随分信じてるのね」
「信じるも何も…はは…二人は実の親子だもの…」
「何ですって?」
エミーはドルフェスの顔をまじまじと見つめた。
「エミー、前!」
前の車に追突しそうになり、慌ててハンドルを切る。
「騙されてるんでしょ、二人とも名前どころか経歴も生まれも違うのよ」
「魅羅さんは子供のころ養子に出されたんだ。お兄さんと一緒に、龍造寺龍也の所にね。本人にも聞いたし、俺は魅羅さんの母親からも聞いた。間違いないよ」
エミーはしばらく何も言わなかった。ドルフェスは手のなかのクリスタルに目を落とした。
二人の子持ちとは思えない美少女がクリスタルの中で笑っている。
滉の宝物。
そんな気がしてそっとポケットに戻す。
「ねえD・D、あんた龍造寺竜也って言ってたわね」
「ああ、どうも俺は、その人の所為で殺されかけてるらしい」
溜め息まじりにドルフェスは頷いた。エミーの声が氷水の様に冷たくなる。
「あんた馬鹿じゃないの?」
「何だよいきなり」
むっとして目を上げた青年は、横目で睨み付けるエミーの目とぶつかった。
「警察学校で何習ってきたのよ。歴史の教科書にだって乗ってるわ」
「何が?」
「竜造寺龍也よ、銀河連合がまだ3連合っ言われてた創立期に、司法局と警察機構の原型を造った人物よ。200年前の話だわ」
ドルフェスは頭を何かで強く殴られた様な気がした。
言われてみれば確かにそうだ。知識として埋もれていたものが、ドルフェスの頭のなかを駆け回った。
今まで魅羅達の身近すぎるDragon Makerの話ばかりを聞いていて、歴史上の人物である龍造寺竜也とは全くつながらなかったのだ。
言葉を失って動揺している青年に、エミーは追い打ちを掛ける。
「それにあの二人組、物凄く変よ。あたし昼間、死体の始末をしたって言ったでしょ? あれ本当よこの目で見たんだから。2日前の夜中、あの真っ赤な車が走ってたの、あんた入院したって聞いてたし、見たことのない女が乗ってるから変だと思ってつけたのよ。そうしたら人気のない郊外まで出てトランクから何か引きずり出してた。人間だったわ、ライトに照らされた顔は、間違いなく津川警部だった。あんなハンサム忘れっこないわ。あの女、死体にキスしてたわよ。それから車に戻って、とんでもないものがボンネットから出てきたわ」
レーザーブラスターの事に違いない、ドルフェスはぼんやり考えた。
「あの車も変ね、犬みたいな警笛を鳴らして、レーザー光線で死体を蒸発させたのよ。ぼうっとしている間に、車は行っちゃうし、証拠は無くなってるし。第一見たものが信じられなかったわ。ところが、今日、署長が津川警部から連絡があったって言ってたでしょ? はじめはあの女の小細工だと思ってた。でも帰りに署長に聞いたら、間違いなく津川警部の声だったって言うじゃない、署長の電話には声紋分析機が付いているでしょ? 小細工は通用しないのよじゃあ、あの死体は何? 訳が判んなくなったわ。だからあたし、叉従兄弟に連絡して調べたの。彼は司法局の人事課にいるから、連邦のメインバンクから職員の経歴を引き出せるのよ。そこで、変なデーターまで引っ張り出しちゃったのよ」
煙草を揉み消し、怪談話でもするように、エミーは声を落として言葉を続ける。
「津川滉と龍造寺魅羅の経歴は、人事課が一寸引っ張りだして見る程度には、十分な位の薄っぺらさだったわ。でもね、同じ名前の、もっと豊富な経歴の持ち主が、200年前に居たのよ」
*
「なぁに、あの女。D・Dと心中でもするつもり? 警官ならもっと安全運転しなさいよ」
走り去るエミーの車を睨み付けて、魅羅は滉の腕に抱かれたまま憤慨していた。
「D・Dが走らせてるんだろ、ケット・シーに追いかけられてるんだ仕方ないさ」
滉はロータリーの入口に走り出て、ネプチューンが走ってくる姿を見つめながら、腕のなかの娘を宥める。
ネプチューンは炎を回り込んで滉達の所へ来ると、済まなそうに鼻を鳴らした。ドルフェスを危険なまま街に飛びださせてしまったのは、自分のせいだと言っているような態度である。
「ネプチューン、気にすんな。取り敢えず追跡だ。シャドウ、位置は判るか? 教えてくれ」
猛然と走りだしたネプチューンのスクリーンに、シャドウの姿が映し出される。
「現在東北東に直進中。ごめんなさい、私がしっかりしていなかったからこんな事になってしまったわ」
滉は恋女房に苦笑いで答えた。
「いいよ、元はと言えば俺が余計なことしてたから悪いんだ」
「そうよ、みんな滉が悪いのよ」
サブ・シートに横になった魅羅が息巻いた。
「何言ってやがる、お前のヘマも原因だ。何だってケット・シーなんぞにそこまでやられちまったんだ? お前らしくもない」
叱責する父親に、魅羅は白い目を向けた。
「滉の所為よ、看護婦抱えて出ていく滉を見て、てっきりケット・シーだと思ったの。それで、次に逢った滉に不用意に近づいてったら、そっちがケット・シーじゃない。あっと言う間に捕まったわ」
魅羅の首筋に鎮痛剤を打ちながら、滉は鼻でせせら笑った。
「ふん、お前がアホだ。光の言った事を忘れたのか? たとえ俺に会ってもうかうかと信用すんなってな。親の言うことは聞くもんだ馬鹿娘。お蔭で閖吼がいらん苦労をする」
添え木を当てられて、応急処置を受ける魅羅は、不満下に頬を膨らませた。
「自分の事は棚に上げてよく言うわ。元々、滉が一番初めにやられたんじゃないの」
都合の悪いことは知らん振りして、滉は手早く魅羅の骨を継いでゆく。痛みは閖吼まかせの魅羅は、ジト目で滉の顔を睨んでいた。
「ところで、何で看護婦なんか抱えてたのよ」
滉はふっと苦笑した。
「ケット・シーが看護婦たちを捕まえてるのを見てね、可哀相だから一人くらい助けてやろうと思ってさ」
「ふうん…」
疑り深く滉をみつめて、魅羅はにやっと笑った。
「滉、口紅が付いてるわ」
「おう、そうか?」
気楽に答えて滉は口を拭う。魅羅の目が大きく見開かれる。
「あっきれたぁ、マザーの居るところでよく出来るわね」
大げさに驚いてみせる魅羅に、滉はにやりと笑い返した。
「これはお駄賃さ、何せ命を助けてやったんだ。ガキのころお手伝いをしたら、おやつとおこずかいを貰ったろう? 同じこった」
「よく言うわ、私が普通の娘なら、お父さん不潔! お母さんが可哀相! で親子断絶よ」
スクリーンから、シャドウの忍び笑いが聞こえる。
「ほれみろ、お母さんも公認だ。第一普通の娘なんぞ、昔も今も持った覚えはない。親孝行な元気者なら、二人持ってるがね」
悪びれもせずに滉に言い返されて、魅羅は一寸言葉に詰まった。しかし、このまま引き下がるのは業腹だ。
「一つ伺いますけど。それがおやつなら、ダフネは何?」
滉が即答する。
「当然、主食」
完全に魅羅の負けだった。
おとなしく口を閉めた魅羅は、手足をぐるぐる巻きにされ、関節部に補助器具のパワーリストを取り付けてもらってやっと動けるようになってきた。
しかし感覚はまだ閖吼と交換されたままである。
「滉、ママ達と交信できる? 私はもう大丈夫だって、閖吼に言いたいの」
「魅羅、ナイスタイミングね。光さんからの通信が入っています」
シャドウの声と共に、呼びだし音が響く。
『THE MOONより、BIG SUNへ。THE MOONより、BIG SUNへ、滉聞こえる?』
「おう、光かぁ」
滉がのんびりと答えた。
『何よ呑気者。この間は素敵なプレゼント有り難う、十分堪能させて貰ったわ。死ぬ瞬間をね』
光の厭味に、滉はにっと歯を見せて笑った。
「そうか、楽しんでもらえて嬉しいよ。ところで、何の用だ?」
大きな溜め息が通信機の向こうから聞こえる。
『一家団欒のところお邪魔して申し訳ありませんけど、閖吼から伝言よ。鎮痛剤はよく効いてます、完治するまでこのままで結構。ですってさ』
魅羅は慌てて身を乗り出す。
「あら、私はもう平気よ、閖吼に扉を閉めて、って言ったげて」
諦めきった光の声が返る。
『閖吼が一旦決めたら、人の言うことなんて聞かないわ、判ってるでしょう? まったく、変なところだけ親父似なんだから。私だったらとっくに閉めてるわ』
光の言葉に滉は渋い顔をした。
「悪かったな。用はそれだけか?」
『後もう一つ。坊ちゃんが予定を変えたわ』
滉は口をへの字にした。
「何だと?」
『視察団より数日先行して一人でベースに降りるそうよ』
「お前警備主任だろう? 何でそんな我儘許したんだ? 大体イルダナフは寝てるのか? なにやってやがる」
返ってきた光の声は、話題の主との言い争いを表して刺々しい。
『あちらさんもあんたの跡継ぎ息子と同じで、てこでも動きゃしないわよ。我儘の年季の入り方が違うわ』
「いつ来る?」
『あさって、明日そっちの評議会に通達が行くはずだから、今夜は暇よ』
「バーロー!! どんな連中が何企んでるのかも判んねぇのに、今夜中に準備して先手を打つ様な芸当が出来ると思ってんのか? あの古狸、何考えてやがる!」
滉の怒声に、光は冷やかに答えた。
『知らないわ。頭が銀河大戦の時に戻ってるんじゃない? 伝家の宝刀持ち出して悦に入ってたから、いい加減歳なんだからスタンドプレーは止めなさいって言ってやったら、プロポーズされたわ』
「何だそりゃ?」
『香花とD・Dの思い出を、お茶飲みながら話す伴侶が欲しいんですってさ。あんまり馬鹿にしてるから50年待てって言ってやったわ』
「へぇ」
『100年でも待つから考えてくれって。人をアルバム扱いして、腹が立つわ』
苦々しく話す光に、滉と魅羅は爆笑した。
「いいじゃねぇか。貰い手があるうちが花ってもんだ。話は判った、今迷子を追跡中で忙しいんだ。できることなら、坊ちゃんを縄でふん縛っても予定通り来て貰いたいが、何とか手を打っておく」
『ドルフェスって子? ド素人なんだからあんまり苛めちゃ可哀相よ。じゃ、宜しく。THE MOONより以上』
通信が終わり、滉は大げさな溜め息をついた。
魅羅がにやりと笑いながら滉を見る。
「ママにD・Dの事話してないのね」
滉も同じように笑い返す。
「当たり前だろう? 見て驚きゃいいんだ。俺達だけがびっくりさせられるなんて、不公平だろ?」
「そ─よね─」
魅羅は満足げに頷き返した。
「シャドウ、迷子の車は何処に行ってる?」
「今25分署に着いたところよ。やっぱり安心できるのかしら。私はクリスタルと直結させるから連絡のときはアクセスNoを入れてください」
「OK、クリスタルは後どれくらい使える?」
シャドウはにっこりと微笑んだ。
「バリアーが2回程、後は奥の手が1つ」
「旨く行けば楽勝だが、下手を打つとちょい厳しいな。シャドウ、奥の手なんかで無理すんなよ」
夫の優しい言葉に、シャドウは嬉しそうに頷いた。
「出来るかぎりは」
スクリーンからシャドウの姿が消え、青い画面にドルフェスの位置を知らせる交点と25分署の見取り図が映し出される。
「さぁて、忙しくなってきやがった」
溜め息まじりに滉は独りごちた。
*
「さあ、これよ」
第一課のエミーのデスクにたどり着いたドルフェスは、エミーから一枚のフロッピィを渡された。
「貴方の大事な警部さん達の胡散臭さが、よーく判るわよ」
勝ち誇ったようにエミーは、戸惑いを隠せないドルフェスの目を見据えた。
おずおずと自分のデスクに行き、端末のスイッチを入れる。
スロットルに飲み込まれたフロッピィが、モニターにデーターを映し出す。
まず、連合警察機構と司法局所属の津川滉と龍造寺魅羅の経歴。
“津川滉・銀河標準年174年・アース生”アースの学校名が並び、“195年入局”それ以降は別記録参照とある。
魅羅のものも、“181年・アース生”とあり、“201年入局”とあるだけで、後は同じようなものだった。
「どう?34の男に、25の娘が居るの?9つの時の子?凄いわね」
ちくりと厭味を言ってから、ドルフェスの前に腕を伸ばしてキーを叩く。画面が変化して違う記録がスクロールされる。
「さあ、読んで。同姓同名さん達よ」
ドルフェスは画面に見入った。
“津川滉・テラ暦0074年生・テラ国J州州首都、第1中京都(通称グリーンシティ)・父、津川十学・母、ベルデ・兄、学・妹、光・0089年特殊教育課程卒”
「特殊教育課程?」
「この当時流行ってた睡眠学習の学校よ、14歳で卒業の筈だけど1年留年してるみたいね」
“0091年テラ国際警察機構入局・0094年銀河大戦別記録参照・大戦時の活躍により、セファート、アルゴルの国賓待遇を受ける・109年銀河標準年10年没・享年35”
「死因は、宇宙ステーションの事故みたいね。死体も残らなかったみたい」
遺体回収不可の文字を見ながらエミーが言った。ドルフェスはぼんやり頷いただけだった。
「さ、次はこの人」
津川魅羅(竜造寺) の項目を指して、白い指が動く。
“銀河標準年1年・アース生・J州国東生・父、津川滉・母、ダフネ・兄、閖吼・養父、竜造寺龍也・養母、光・14年特殊教育過程卒・20年高等司法過程卒・同年アース司法局入局”
「たいしたキャリアよね、この後アルゴルに招かれて、54年には司法局長としてアースに帰ってる。確か龍造寺龍也が死んだ年はこの年よね。何したか判んないけど、次の年には国から勲章を貰ってる。そして、連合司法局の初代局長就任。龍造寺龍也の遺志を継いだってところかしら」
記録の津川魅羅は、あの脳天気な魅羅とは繋がらない。
「享年は89年、もう一つ家族の記録があるわ。結婚はしてないけど子供が3人、幻、彗魅里、稀胤。父親は不明。書いて無いもの。この人なら、津川滉の娘だけど、200年前の話よね」
エミーの声がドルフェスの頭の上を通り過ぎていく。
ドルフェスは混乱していた。
200年前の津川滉、津川魅羅の記録と、魅羅やシャドウから聞いた話が一致する。こんな事ってあるんだろうか? 800年の寿命を持っていると言われるパストアス人でもないかぎり、200年前の人間が元気に歩き回っているなんてあり得ない。
待てよ、ひょっとして、コールドスリープと言うことは無いだろうか? しかし、死体が見つからなかったという滉の場合はいいとしても、魅羅には当てはまらない。
ドルフェスはふらりと立ち上がった。
「どこ行くの?」
「頭を冷やしてくる…」
歩きだそうとしたドルフェスの腕を、エミーの手が捕まえた。
「D・D、あの二人、信用しちゃ駄目よ。あんたが命を狙われてるのって、あの二人が仕組んでる事かもしれないわよ」
「まさか…? あの二人が何でこんな平刑事を殺さないといけないんだ?」
エミーは声を落としてドルフェスに擦り寄った。
「目眩ましよ、アルゴルの視察団が5日後に来るわ。それを狙ってるテロリスト達と繋がりがあって、こっちの目を胡麻化すために騒動を起こして自分たちが事に当たって、信用させるってのはどう?」
ドルフェスは強く首を振った。
「あり得ない。絶対そんな事は無い。第一無意味だよ」
ドンとドルフェスを突き放して、エミーは強い目で睨み付けた。この期に及んでまだ判らないのかと言いたげな顔である。
「とんでもないお人好しだわ」
吐き捨てるように言い放ち、エミーはそのまま部屋を出ていった。
ドルフェスは深く溜め息をつくと、よく考えようと思って、再び椅子に腰掛けた途端。
「キャー!!」
廊下で、エミーの悲鳴が上がった。声に弾かれてドルフェスは駆けだした、腰に挟んでいた拳銃を構えて廊下へ飛び出す。通路の真ん中で、エミーが腰を抜かしてへたりこんでいた。
「どうしたエミー!」
「あれ…あれ…な…に…?」
震える手で指し示す方には、何か妙なものが転がっている。
「う…!?」
息が止まった。真っ赤な血だまりのなかに、人間だと思われるもの、いや横に三分割された警官が放り出されたように転がっている。
「何てこった…」
追いかけて来たのだ。ケット・シーがこんな所まで。
壁に警官の血でアルゴル文字が書かれている。
"すぐにお目に掛かりましょう”
「ケット・シー…」
膝が笑ってきた。落ちつきなく回りを見回し、エミーの腕をひっ掴むと、思いっきり引っ張った。
「逃げるんだ!! 君も殺されるぞ!!」
「何よ何よあれ!!」
「あれが、俺を狙ってるやつらの挨拶だ!!」
腰が抜けて立てないエミーを引きずりながら、ドルフェスは部屋に入ろうとした。
しかし。
「Mr.ドルフェス、またお目に掛かれて光栄です」
背後から、聞き慣れた声が冷水の様に、ドルフェスに浴びせられる。
恐る恐る振り返ると、果して、未だ獣相のままのケット・シーが、猫のようにうずくまって青紫の目に余裕の光りを浮かべていた。
「津川の奥様はいらっしゃらない様ですね。それは重畳、私も仕事がしやすいというものです」
腹の底から震えが上がってくる。
何も考えないうちに腕が上がり、黒い獣に弾丸を放つ。
だがもう、そこにケット・シーは居なかった。
「何!? なにあれ!?」
エミーがケット・シーの姿に怯えてすがりついてきた。
「何なのあの化け物は!? 喋ってたわ!!」
「俺から離れるな!! あの死体みたいになるぞ!」
勢いでエミーにそう怒鳴ったものの、当のターゲットは自分なのだ、あの警官よりももっと酷い運命が待っているかも知れない。
たった一つの頼みの綱である拳銃を握り締め、ドルフェスはケット・シーの姿を探して辺りを見回した。
──落ちつけ、眉間を撃ち抜けばあいつだって生きちゃあいない──
目の端で何かが動いた。銃口と一緒に顔を向ける。
「キャー!!」
エミーの悲鳴をBGMに、白い死神が両手を上げて立ち上がっていた。
考える間もなく銃を撃つ。
「ミギャーウー!!」
こめかみをかすった弾が、肉を大きくえぐり、死神は悲鳴を上げて跳びすさった。
──頭だ、頭を狙えば何とかなる──
少し自信がつくと、気持ちが落ち着いてきた。ゆっくりと油断無く回りを警戒しながらエミーを半ば抱えるようにして廊下を歩きだす。
警官の本丸である警察署の中で、突如起こった血の惨劇に、エミーはすっかり度肝を抜かれて震え上がっていた。
「ねえ、教えて、どうしちゃったの?」
弱々しくドルフェスの腕を掴んで、エミーは首を振った。
この女にもこんな可愛らしい所があったのか。ドルフェスは内心驚きながら、なるべく優しくエミーの肩に手を回した。
「俺にも判らない。答えてくれるかも知れない人は、ポケットのなかで黙ったままだ」
はなはだ頼り無い答えに苦笑しながら、ドルフェスはエミーを覗き込んだ。
大きく見開かれた褐色の瞳は、訴えるようにドルフェスを見つめた。
「津川よ、津川滉がやらしてるのよ。あたしがあいつを調べてるから、あんたと一緒に殺そうとしてるんだわ」
あくまで津川陰謀説を捨てずにいるエミーに、つい溜め息が出る。
「まだそんな事言ってるのか?」
「そうに決まってるもの!!」
始めの衝撃から立ち直ってきたエミーは、持ち前の負けん気でドルフェスにくってかかった。
「それしか考えられないわ。そうよ。あんたが狙われてるのだって、ゾルゲと一緒に何か見たからだわ。気がつかないことで、でも見ちゃいけないこと。それで狙われてるのよ。だからあいつは自分で近寄ってきたのよ。何か覚えてない? きっとそうよ」
一気にまくし立てるエミーに、ドルフェスは首を振る。
「そんなことない、絶対違うよ」
反論する声にいまいち力が入らないのは、エミーの理屈に対して、自分は滉を信じている以外には何も持っていないからだった。
それでも、心のなかの声は滉を信ろと言っている。
ドルフェスはその声に従おうと思った。
「君がどう思おうと勝手だけど、俺は彼を信じてる。何を言われたって変わらないよ」
きっぱりと言い切ったとき、後ろから笑いを含んだ声が発せられた。
「おや、仲間割れですか?」
とっさに振り向いたが誰もいない。いや、居た、ケット・シーの黒い身体が、どうやってそうしているのか天井に張りついて、ドルフェス達を見下ろしていた。
「ケット・シー…何で俺を殺したい…?」
ドルフェスは力なく疑問を口にした。
「理由をお教えしましょうか?貴方は選ばれた方だからですよ。なに、すぐにこれでよかったと思われるでしょう」
何の説明にもならない事を言って、ケット・シーは片方の手を天井から離し、長い爪をこれみよがしに伸ばしてみせた。滉に切り取られた腕は、既に再生している。
「痛みも感じさせはしませんよ。貴方を苦しめるのは私の本意ではありませんから」
青紫の目が流血の悦楽を期待して細められる、ドルフェスはその目を目掛けて引き金を引いた。
しかし、撃芯は虚しくかちりと鳴るだけで、唯一の守りが、弾切れであることを知らせる。
蒼白になった青年の頭上に、ふわりと天井を離れたケット・シーが、死の爪を振り下ろした。
「キャアーー!!」
エミーが悲鳴を上げたのと、見えない壁に弾かれてケット・シーが廊下の端まで跳ねとんだのは同時だった。薄紫の閃光と共に、ドルフェスとケット・シーの間にシャドウが現れた。
「ケット・シー、ドルフェスには指一本触れることは許さないと、言ったはずです」
シャドウに向かって、ケット・シーは初めて牙を剥きだして威嚇の叫びを発した。シャドウは満足げな含み笑いで答える。
「おすまししてるより、猫はそうやって鳴いてるほうがよく似合うわ」
通路の向こうで、何か争っている様な物音と野獣の叫びが響いてきた。
「貴方のお仲間が、夫と対面した様ですわ、早く行ってあげないと、殺されてしまいましてよ」
シャドウは圧倒的な優位に立った余裕を漂わせて、ケット・シーに退散を促した。
黒い獣の青紫の瞳が屈辱に歪む。
ドルフェスの血を見なければ、この憤りは静まることは無いだろう。ほんの一瞬、隙があればあの無力な男の首が取れる。
ケット・シーは、再び襲ってきた全身の抵抗に、あくまで抗うことに決めた。
また廊下に獣の咆吼が響きわたった、そして、ばたばたと数人の廊下を走る音が聞こえた、異変に気付いた署員達がおっとり刀で駆けつけて来たのだろう。しかし、パラライザーしか持たない彼らに化け物を止める力は無い。警官を制止する滉の声と、犠牲になったらしい誰かの悲鳴が交差する。
「さあ、逃げましょう。猫は今無力です」
喧騒の中、シャドウは悠然とドルフェスに微笑みかけた。
「シャドウさん…」
「ごめんなさい、エネルギー節約のために、電源を切っていたの」
シャドウの言葉をケット・シーは聞き逃さなかった。エネルギーの節約。なるほど、何が発生源かは知らないが、ポータブルのバリアー発生機にこう何度も強力な障壁を作るエネルギーはあるまい。とすれば、後一回か二回あれに弾かれる覚悟でバリアーを張らせればこっちの物だ。
早くしたほうがいい、津川滉が部下を倒してやってくる迄には、目的を遂行していなければチャンスは無い。
廊下の向こうに数人の警官達が走り出てきた。
「どうした!」
「何事だ!?」
彼らはケット・シーの姿を認めてどよめきを発した。
「退がって、危ないわ!!」
ハラライザーを引き抜いて、ケット・シーに向かって構えはじめた警官達に、シャドウが制止の声を発する。
ケット・シーは行動を起こした。
黒い巨体が音もなく空に舞い、ドルフェスに飛び掛かる。伸ばされた爪が青年に達する前に、シャドウの腕がひらめき障壁が凶刃を弾き飛ばす。再び宙に舞ったケット・シーは飛ばされた反動を利用して、警官達の中に飛び込んだ。
「うわぁー!!」
「ぎゃ…!!」
盛んにパラライザーを撃ちはするものの、黒い獣には何の役にも立たない。瞬きする間に3人が爪の餌食となって血だまりのなかに崩れ落ちた。
生き残った警官達が散を乱して逃げてゆく。
ケット・シーにとって、ほんの少し憂さを晴らしただけのこと、逃げていく雑魚など何の関心も無い。
素早く踵を返し、血で汚れた爪を振りかざして、ドルフェスへと跳躍する。
また弾かれる、しかしその障壁が自分のぶつかった部分にしか張られなかったのをハッキリと感じ取って、猫は喉を鳴らした。
シャドウはドルフェスの脇を通り過ぎながら、そっと耳打ちした。
「次の攻撃のときには、クリスタルを床に投げて割ってください。クリスタルの質量エネルギーを還元して、貴方を短距離テレポートさせます」
「ええ!?」
驚く青年に、シャドウは鮮やかな微笑みを返した。
「私の奥の手。心配しないで、危険はありません」
笑顔に励まされて、ドルフェスはポケットのクリスタルを握り締めた。
獣が背を丸める、弓を引き絞るように毛皮の下の筋肉がぞわぞわと蠢く。それに合わせて青年も身構える。後ろ足が床を蹴り巨体が宙に舞い、ドルフェスはクリスタルを持った手を振り上げた。
その時。
「待ちな!!」
ドスの効いただみ声が、白い閃光とともにケット・シーに叩きつけられた。
「ウギャー!」
光に身体の半分を焼かれたケット・シーは、悲鳴を上げて床に落下した。焼けただれた身体を引きずるようにして起き上がった鼻先に、男が一人立っていた。
背が高く細身ではあってもしっかりと筋肉質の韋丈夫、その髪は老人のように白い。
「何をなさるのです?」
弱々しい抗議の声がケット・シーの口からもれた。男はにやりと顔を歪めると、ケット・シーを見ようともせずに、シャドウに顔を向けた。
「命を助けてやったんだ、有り難く思いな」
凶々しい冷笑をさらに深めて、下品なだみ声を発する。
「そっちの坊やが手に持っているもんを見な、あれを叩き割られた日にゃあ、てめえは異次元に放り出されていたんだぜ、津川の女房を甘く見てるととんだ事にならァ」
「私は甘く見てなど…」
言い返すケット・シーに、ぎらりと男の視線が向けられた。
「てめぇはそもそもの始めから間違ってるのさ。いい気になって津川の心臓なんぞを食っちまうから、D・Vの女主人の絶対命令を身体がきいちまうのさ」
「何ですと…?」
「根性で撥ねつけてるみてぇだが、津川の細胞を身体ん中に飼っている限り、てめぇはあの女に頭が上がらねぇって寸法だ。判ったらおとなしくしてな、俺は美人に話がある」
男はそう言い捨てると、シャドウに視線を戻した。
だみ声に似合った粗野な口調、加えて刺の生えたレザーの繋ぎに金具付きのブーツという、安物のアーティストかチンピラの様にしか見えない男だが、その顔だけは全体の雰囲気に反して、かなり整った、気品すら漂わせるものだった。
どことなく滉に似ている。ふとそう思って、ドルフェスは慌てて首を振り取り消した。
「こんな所でお目に掛かろうとは、思ってもいませんでしたわ」
シャドウが硬い声を出す。
その声に、妙に緊張した響きを感じ取って、ドルフェスはシャドウを見た。
そして、今まで見たことのない厳しい表情のシャドウに、男の正体の察しがつき、青年は不安になった。
果して、シャドウが再び口を開いた。
「わざわざ何の御用かしら? ファントム」
ファントム! 滉の宿敵。滉があれほどの憎悪を露にする相手。
それが、この男?
ドルフェスはあらためて男の顔を見つめた。ソルティドールでは遠目に見ただけで白髪頭しか判らなかった。滉達は爺ぃと呼ぶ。
それが、こんなに若いとは。
ファントムが首をすくめた。
「いやぁ、大した事じゃぁねぇんだがな。猫を拾いにきたついでに、美人の顔でも拝んで行こうかってな」
シャドウは口の端を少しだけ上げた。
「褒めていただいて嬉しいわ。でも、それなら貴方もう持っているのではなくて? それとも、ダフネに飽きたのなら返して貰おうかしら」
ファントムはパチンと指を鳴らした。手袋にまで生えている刺が、照明を反射してきらっと光る。
いつの間にかファントムの後ろに誰か立っていた。
「こいつか?」
出てこいと言うようにファントムが顎をしゃくると、栗毛の女が彼の横に進み出た。嫌らしい程身体の線を強調したレザーワンピースは、大きく胸があいてる上にあちこちに穴が開けられ、素肌を露出させている。
フェイスペインティングの施された顔は能面のように無表情だったが、紛れもなくシャドウのものだった。
つまり、これがダフネに間違いない。
グルーピーの様なダフネの姿に、シャドウは眉を寄せた。
「なんて恰好…。ファントム。貴方の服の趣味、だんだん悪くなりますね」
ファントムは大口を開けて下品な笑い声を立てた。
「げひゃひゃひゃ、可愛いだろう? 俺の人形だ。猫の飼い主からプレゼントされたのさ。俺の言うこたぁ何でもきくぜ、お望みならここでストリップさせてやろうか?」
ぐいっとダフネの腰を抱き寄せて、見せつけるようにキスをしてみせる。シャドウは嫌悪感に身体を震わせた。
「私に触らないで」
シャドウの様子にファントムは嬉しそうに手を叩いた。
「いいねぇその顔、やっぱ中身があったほうが面白そうだ。どうだ? この身体に入って、俺にかわいがられねぇか、天国の気分にさせてやるぜ」
嫌らしい視線を隠しもせずに、ファントムはシャドウを嘗めるようにみつめる。
シャドウはそれに微笑みで答えた。
「結構です。滉さんといるほうが幸せですもの」
「ベッドの上がか?」
卑猥な当てこすりに、返答の限りでは無いといった態度で、シャドウはファントムの言葉を黙殺した。
白髪の男が、ダフネの頬を舐めながら、げへげへと笑う。
「俺がそんなに嫌なら、自分の身体を作れよ。ああ、そうそう。この身体が死ななけりゃ新しいのはできねぇんだったな」
ファントムの目が見開かれる。
「てめぇも、稀胤の餓鬼も、鉄の箱のなかでわめいてりゃぁいいんだ」
シャドウは答えずに、きつい目でファントムを見据えた。ドルフェスはその目に紛れもない憎悪を感じた。
ごくりと喉を鳴らす。と、その時。
「ファントム!!」
廊下に滉の雄叫びが響きわたった。
ドルフェスが振り向くと、滉が物凄い勢いで走ってくるところだった。かなり遅れてプロテクターの様な物に身体を包んだ魅羅が見える。
「床上手な亭主のおでましだな」
にや付きながらファントムが言ったのと、到着した滉が手にしていたチェーンソーを振り上げて仇敵に飛び掛かったのは同時だった。
しかし、すさまじい唸りを上げて、ファントムとダフネを横凪にした刃は、何の手応えもなくファントムの身体を突き抜けた。
滉はスイッチを切り、にやっと笑う。
「相変わらずの姑息さだな。俺の前には本体で出る勇気も無いらしい」
「女房ごと殺そうとするような男に、生身で会えるかよ。そっちこそ相変わらずの単細胞だな」
滉はダフネの姿に一瞥をくれると、軽く口笛を吹いた。
「古女房もこうして見ると新鮮だな」
「帰ったらてめぇの人形にやってもらいな」
「止めとこう、うっかり頼んだら飯抜きで干乾しにされる。そのかわり、必ずその人形とやらを返してもらうぜ。俺のもんだ」
金褐色の瞳にぎらりと凶暴な光が宿る。
「そん時はその身体も返して貰う。稀胤が心待ちにしているからな」
下品なファントムの笑い声が廊下中に弾けた。
「そいつぁ楽しみだ。歓迎の準備をして待っててやらぁ。さて、俺は消えるぜ、てめぇが来ると喧しくっていけねぇ」
ファントムの腕のなかに居たダフネの姿がかき消すように無くなり、ファントムもまた次第に影が薄れはじめた。それがふいに元の姿に戻る。
「おっと、何しにきたか忘れるところだった」
何やらしきりに首を振りながら、ファントムは腕組みをした。
「てめぇの相棒の無愛想を殺ったのは俺じゃねぇよ」
ファントムは後ろに顎をしゃくった、ケット・シーの姿はもう無い。
「あの猫がとんだ濡れ衣をきせやがったが、俺はあいつの事は好きだったんだぜ。俺と同じように平気で人殺しができる奴だったからな」
滉はふんと鼻で笑った。
「それがどうした。お前の所為だ、何も彼もな。たとえ道で犬の糞を踏んづけても、お前の所為だ」
ファントムはおおげさに肩を竦めた。
「やれやれねちっこい野郎だぜ。いつまでも根に持ってやがる」
「たかが出来もしない濡れ衣晴らしに来たのか? 暇な野郎だ」
「悪いか? ついでにもう一つ、俺は飯を食いに来た。そう言ゃぁ何だか判るだろう? 邪魔するなよ」
「たっぷりしてやる」
ファントムは下品な笑い声を残して姿を消した。
滉はドルフェス達に背を向けたまま暫くその場を動かない。
どんな表情をしているのか見ることは出来なかったが、背中から発される空気は、以前見た煉獄の炎の様な凶暴さに満ちている。
ドルフェスは、横に立ったまま滉を見つめているシャドウに目をやった。
憂いを含んだ視線は夫の背にそそがれ、滉と同じ苦しさを分かち合っている様に見える。
次いでさっきから凍ったように動かないエミーを見ると、彼女は胡散臭げに滉とシャドウを眺めている。ドルフェスはこっそり溜め息をついた。
気まずい雰囲気を破って、魅羅がすっとんきょうな声を上げた。
「ちょっと、D・D!! 何よそれ!」
「え?」
プロテクターの様なものをがちゃがちゃいわせながら、魅羅はドルフェスとエミーを引き剥がすように割り込んできた。
「私というものが有りながら。こんな女と何してるのよ!」
本気かどうか判らないが嫉妬に燃える目をしてドルフェスを睨み付ける。
「え? あの…?」
しどろもどろになったドルフェスの横から、エミーが負けずに言い返した。
「何したって構わないでしょ、貴方みたいな胡散臭い人より、あたしの方がいいのよ、ねえD・D?」
「ああら、私の何処が胡散臭いのよ」
「さあ、御自分の胸に聞いてみたら?」
一触即発の女たちに挟まれて、ドルフェスが慌てていると、今度はシャドウが脳天来な声を出した。
「滉さぁん、お家に帰りましょう。ブイヤベースが出来てるわ」
魅羅とエミーはつんのめり、ドルフェスは脱力し、滉は何時もの笑顔で振り返った。
「そりゃ嬉しいね。腹減ってたんだ」
気勢を削がれて呆然とする魅羅達の前を、嬉しそうに献立を話しながら津川御夫婦が通り過ぎる。
ドルフェスは魅羅の前をシャドウが通ったとき、そっと「いい子ね」と言ったのを聞いた。ああそうか、と合点がいく。
魅羅はやり切れない雰囲気をなくすために、わざとエミーと喧嘩したのだ。魅羅の優しさを理解すると同時に、本気のやきもちで無いことが残念に感じる。
──俺、何期待してたんだろう──
自嘲するドルフェスの腕に、魅羅が自分の腕を絡ませてきた。
「さぁ、行きましょう。もう安心よD・D。私が守ってあげる」
赤くなったドルフェスに、にっこりと笑いかける。
と、反対側でエミーがドルフェスの腕を掴む。
「行くこと無いわよ、よっぽど危険だわ」
褐色の目と黒い目が再び火花を散らした。
「どういう意味かしら、さっきから胡散臭いだの、危険だのと。訳の判らないことばっかり言ってるわね」
魅羅を睨みながら、エミーはドルフェスの腕を引っ張った。
「さあね、知らないわ。こんな人に構わずに行きましょうよ」
魅羅の目がきりきりとつり上がる、本気で腹を立てはじめたのを察して、ドルフェスは慌てて女の戦いに割って入った。
「いい加減にしろよエミー、すまない魅羅さん、彼女ちょっと勘違いしてるんだ」
「どんな勘違いで侮辱されるのかしら、聞かせてもらいたいわね」
真顔になった魅羅が詰め寄ってくる。
恐れをなしたドルフェスが半歩後づさった時、滉ののんびりとした声がとんできた。
「おーい、魅羅。遊んでないでそっちのお嬢さんにも来てもらいな」
唇を尖らせて、魅羅は父親を睨み付けた。
「何で、何で、なぁんでぇー!? 嫌よ私!」
「ケット・シーとファントムの爺ぃに、俺達と一緒に見られちまってるんだ、他の連中よか危険度が高い」
思いっきりふくれっ面をして、魅羅は渋々エミーを見た。
「しかたないわ、いらっしゃい」
しかし、エミーは首を振ってドルフェスにしがみつく。
「嫌よ、行きたくないわ」
「嫌がってるわよ、止めときましょう?」
嬉しそうに魅羅が言う。滉はグレた目つきをして戻ってきた。
「めんどくせぇな…後で化け猫になられてたら、夢見が悪いだろう?」
言いながら素早くエミーに当て身をくらわせ、腕のなかに崩れてきた身体をひょいと抱き上げる。
「行こうかD・D」
仰天しているドルフェスに、ウインクをして、滉は悠然と歩きはじめた。
ついにファントム登場。服装はパンクロッカーですが。