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13  A・Visitor ─訪問者─

真夜中の病院は……角を曲がると何に出くわすかわかりません。



 たとえ如何に医学が進み、医療機器が発達し、看護体制が機械によって整備されていても、その治療を受けるのが人間である以上、最終的にはやはり人によって管理されなければどうにもならないものである。

 特に夜は、容体の激変する患者も出る場合が多く、常に医師や看護婦を悩ませてきた夜勤の苦役から、なかなか開放してくれそうにはない。

 ラウラはモニターを見ながら、こっそりあくびをかみ殺した。

 婦長はこちらに背を向けて、ポータブルコンピュータでカルテでも見ているようだ。他の看護婦達は巡回に出て、ナースステーションには二人だけしか居ない。

 モニターに、それぞれの病室を覗いてゆく同僚たちのハンディライトの光が、踊るようにちらちらと映る。

 退屈だった。今夜は患者たちの容体も安定しているし、今日明日の切羽詰まった患者はこのフロアーには居ない。

 昨日まで階上の集中治療室にいた怪我をした刑事と言う人も、今夜は回復してこの普通病棟に介添人と一緒に眠っている。

 何でも、特殊な毒物中毒で、あと二日は意識が戻らないはずなのに、もうすっかり回復してしまったらしい。

 あまりの速さに、あと二日は検査のため留め置かれると言う事だ。

 だが、そんな事は医者が気にしていればいいのだ。

 ラウラには、別のことが気になっている。

 介添人がやたらに美人なアース人で、刑事の男もまだ若い。しかもアース人の希望で夜も部屋に入っているのだ、何となくむずむずするような好奇心を掻き立てられてしまう。

 ラウラはそうっとその部屋のモニターに目を向けた。

 ベットの真上に据えつけられたサーモグラフモニターカメラが、眠っている患者を映し出している。

 患者の完全な看護の為に24時間の看視管理を理想とする病院と、フライバシーを主張する患者側との妥協の結果、微妙な体温変化を見続けるものの、人を映すものではないと言う訳だ。

 まあ、ラウラにとっては、単なるいつものモニターである。

──何だ、つまらない──

 ラウラは期待を裏切られて唇を尖らせた。

 ベットには患者の男が一人で眠っていた。用足しにでも立ったか、介添人の姿はない。

──サーモモニターカメラなんて外からは見えないしはっきり映る訳でもないんだから、気にせずにキスでもしちゃえばいいのに──

 不謹慎な事を考えながら、ラウラはこらえきれずにそっと欠伸をした。

 続けてもう一つ。

 そのとたん、モニターが一斉にブラックアウトした。

「婦長!!」

 ラウラの悲鳴に近い叫びに、弾かれたように婦長が振り向く。

「モニターが! どうしましょう?!」

「ラウラさん、落ちついて。消えたのはカメラモニターだけ?他のは?チエックしてください」

 冷静な声で婦長に指示されて、ラウラは慌ててその外の計器類に目を走らせた。

「心電図、脳波計その他すべて正常です。カメラだけが消えています」

「判りました。貴方は引き続き監視をしていてください。私は当直の先生に報告して、システム管理会社に修理を頼みます。いいこと、落ちついてね。映像が無くったって、たいして変わりはしないんですからね」

 そう言って婦長は電話を取り上げた。 しばらくボタンを叩いていたが、困惑したようにため息をつく。

「どうしたんですか?」

「電話が通じないの。内線も外線もだめよ」

 ラウラは体が震えてくるのを感じた。自分の所為のような気がしてきた。退屈だと言うだけで、人のプライバシーを覗きたがったから罰が当たったんではなかろうか?

「わ…私、上の階に行って先生に報告してきます。それと、上でもここと同じか見てきます」

 思わずラウラはそう進言していた。婦長がゆっくりと頷く。

「そうね、そうしてもらえる? それと、上で外線が通じるようなら、管理会社に連絡して頂戴」

「判りました」

 急患の時以外は走るな、という規則も忘れて、ラウラは廊下を駆けだした。

 エレベーターではまだるっこしい、非常階段を使うことにして廊下をダッシュする。階段でもその勢いを殺さずに、一気に駆け上がろうとして、ふと踊り場に人が居るのに気がついた。

 一瞬患者だと思ったが、そうでは無い事はすぐに判った。

 その人物はかっちりと白いスーツを着込んだ、背の高い男だった。

 ぼんやりとした非常灯の下で、彼の金褐色の髪が鮮やかに浮かび上がる。

 誰かの付添いだろうか? そう思いながら通り過ぎようとした時、男の腕がすっと目の前に伸ばされた。

「今晩は、お嬢さん」

「あの、済みません。急ぎますので通してください」

 男の腕で通せんぼをされた形になって、ラウラは立ち止まった。

「何かあったのですか?」

 男の問いに、ラウラは顔を上げた。男の金褐色の瞳が真っ直ぐに自分を見つめている。思わず鼓動が早まった。真近かで見ると何という美貌の持ち主だろう。

「あ…あの、え…と。別に何でもないんです」

 やっとの思いでそう答えると、男の目に微笑みが浮かんだ。<

「可愛い人だ」

「え?」

「花盗人は罪になりますか?」

 そう言いながら男の腕が背中に回された。

「あの、私一寸仕事が…」

 彼女の抗議に男は答えず、端正な顔が迫ってくる。

 唇が塞がれて、たくましい腕に抱きしめられながら、ラウラはぼんやりと、この人なら嫌じゃないなと思った。頭の芯がくらくらしてきて、何だか気が遠くなってくる。

 微かに、誰かの悲鳴を聞いたような気がした。


                            *


 ドルフェスは何となく慌ただしい廊下の気配で目を覚ました。

 誰かが廊下を走っていく。急患だろうか?ここのところ病院に泊まり慣れたせいか、始めのころのような不安感は感じない。ただ3日も眠っていたのと、昼間あまり動かなかった所為か、いったん目が覚めてしまうともう寝られそうになかった。

 ベッドの上に体を起こし、隣で眠っているはずの魅羅を見た。しかし、持ち込まれた簡易ベッドの上に魅羅の姿はない。

──トイレかな…?──

 はねのけられた毛布をぼんやりと眺めながら、そんな事を考える。

 床に月明かりが白く映っているのに気付き、ゆっくりとベッドから立ち上がった。さすがに長い間寝ていたせいか頭がくらくらする。しばらくベッドのパイプに掴まって立ちくらみが収まるのを待っていると、窓にコツンと何かがぶつかる音がした。

「?」

 風かと思った、だが続けてもう一度。

 誰かが窓めがけて小石の様な物をぶつけている。青年はそっと窓に近寄った。

 第7衛星のレイフトが青白い3日月の横顔を見せ、その下に第4衛星のセァカンドゥが10日月の姿を浮かべている。二つの月の光で、下界はわりと明るい。そして、第3衛星のサーアドが、金色に輝きながら東の空から駆け上がってくるのが見える。

──合が近いんだな──

 何年かに一度、それぞれ周期の違う7つの月達が一ヵ所に寄り集う時がある。今年は確か、ベースシティの真上でその天体ショーが開かれると、何かで読んだ気がする。

 再び窓に小石がぶつけられた。

 寝起きの頭でぼうっと月を見ていた青年は、何で窓まで近寄ったのか思い出して下に目をやった。

 まず木々の梢が見え、自分の病室が3階だと判った。患者の精神衛生のために、さほど背の高くない樹を林にして病院を囲んでいる。その木々の間に小さな広場が有り、月光に照らされて白い人影が立っていた。

 サーアドの光がその人物をさらに浮かび上がらせ、髪が赤く輝く。

 滉だった。

 何時ものようににっと笑いながら、何か大きなものを抱えている。

「警部…」

 夢の一場面の様に、白い三つ揃いを着込んで、滉は片手を上げて手招きしていた。

「何ですか、警部」

 窓の開閉スイッチを探して青年が慌てているうちに、滉は抱えていたものを持ち直すと背中を向けて林のなかに歩きだした。

「待ってください、警部!」

 梢に見え隠れしながら去ってゆく滉の後ろ姿に、ドルフェスは思わず叫んでいた。その声が聞こえたかのように滉が振り返った。腕に抱えている大きなものから、だらりと何かが垂れ下がっている、それが人間の手足と気が付いてドルフェスは息を呑んだ。

 滉はもう一度手招きすると、今度は振り返らずに林のなかに消えていった。

 ドルフェスは今見たものをにわかに信じられずに、窓に張りついたまま鼓動の早まった胸を押さえていた。

 あれほど見たいと思っていた滉の笑顔だったが、あの抱えていたものは何だったのか?確かに人間だった。しかも、よく思い出してみるとあれが着ていた服に見覚えがある、そうだ、あれはここの看護婦の制服だ。

 こんな夜中に、滉が看護婦を抱えて?いったい何をしていたのだろう?

 混乱した頭を抱えて窓から離れようとしたとき、どこか遠くで甲高くか細い悲鳴のような音が聞こえた。

──?!──

 人の悲鳴のような、猫の鳴き声のような、長く尾を引いて消えていく音は、不気味な静寂を残してドルフェスの不安をかきたてる。

──急患だ、きっと大怪我なんだ──

 脳裏に浮かんだ妄想を打ち消すために、ドルフェスは自分に言い聞かせる。

 もう悲鳴も、走る足音もしない。耳が痛くなる様な静けさだけが辺りを覆っている。

──もう寝よう──

 ベッドに向かって歩きだす。

 カツ−ン…

 微かに足音のような硬い音が聞こえた。

 カツ−−ン…

 規則的にゆっくりとその音は近づいて来る。

 カツ−−ン…

 間違いなく足音だ。魅羅が帰ってきたのかもしれない、しかし、その足音には何か非人間的な不気味なものがあった。

──看護婦さんだ──

 そう思いたかったが、看護婦はあんな音はたてない、面会人が来る時間ではない。

 今までに聞いた病院の怪談が、頭のなかでぐるぐる回るのを必死で抑えながら、闇のなかで体を硬くしていると。

 ポウ…

 目の端に光を見て、青年は顔を向ける。

 サイドワゴンの上のクリスタルが、微かに光りはじめていた。

──どしぇぇーーーーっ──

 追い打ちを掛けるような現象に、ドルフェスは完全に凍りつく。

 光はだんだん強まり、部屋のなかを薄紫の光で満たす。

「あ…わ…」

 廊下の足音は次第に近づき青年の恐怖をさらに煽る。

 光は部屋中に溢れると、クリスタルの前に更に強い輝きが人型を形作りはじめた。一瞬強い閃光が走り、光は長い紫色のローブをまとった女の姿になる。

「ひ…?!」

 もうだめだ。驚愕に見開いた目で、女の姿を見つめながら、青年はそう思った。

 逃げだそうとしても膝が笑って動けない、震えが全身を走り、もうそんな醜態を恥じる気力さえ沸いてこなかった。

 女がゆっくりと振り向く。

「わ…」

 目が逢いませんように。と願いながら慌てて目を閉じる。

 そんな青年の耳に、涼やかな声が響いてきた。

「D・D、怯えないで。ごめんなさい、驚かせてしまったわね」

 幽霊に話しかけられてしまった、しかも自分の名前を知っている。

「私はシャドウ、貴方のお守りです」

 何なんだいったい。名乗る幽霊なんて初めて聞いた。

「D・D、目を開いて、私を見て。私のことはご存じのはずです」

 優しい声にうながされて、ドルフェスは恐る恐る目を開いた。紫の光に包まれて、女がこちらを見て微笑んでいる。その顔に見覚えがあった。

「あ…ダフネ…」

 女はゆっくりと頷いた。クリスタルの中の彼女と同じ儚げな笑顔。

「ごめんなさい、こんな風に驚かせるつもりは無かったんですが、急がなければならなかったの。D・D、着替えてください、滉さんが待っています」

「え、警部が?」

「はい、下で貴方をお待ちしています。さあ急いで、魅羅ももう戻るでしょう」

 その言葉に頷いて、急いでクローゼットに駆け寄った。現金なもので、相手が知っている顔となるとスムーズに体が動く。

 慌てて寝巻を脱いでから、はたと気が付いてダフネを振り返った。彼女は気をきかせて後ろを向いていた。何となく安心して掛けてある服に手を伸ばす、怪物に裂かれてしまった服に代わって、センスのいいカジュアルスーツが入っていた。魅羅の見立てだろうか、サイズもぴったりで動きやすい。

 手早く着替えを済ませてダフネの側に戻ると、彼女はじっとドアを見つめていた。

「ダフネさん」

 ドルフェスが話しかけるとダフネは首を振った。

「私のことはシャドウと呼んでください。私はダフネの影です、本物はファントムと居るのをご覧になったでしょう?」

 言いながらすっと右手を伸ばし、ドルフェスの手に触れようとした。しかし、その手は青年の手を突き抜けてしまう。

「?!」

「ほらね、これはホログラムです。ある意味で言えば、貴方が驚かれた通り、私は幽霊かもしれませんね」

 そう言いながら寂しげな微笑みを浮かべて、シャドウは微かに肩をすくめてみせた。

 光で形作られた彼女は、いっそう儚い雰囲気に包まれて、まさに精霊と呼びたいような清らかな美しさを発している。

 夢の様に美しい、初めて3Dフォトを見たときの感動があらためて沸き上がってくる。3Dよりも大人びてはいるが、とてもじゃないが魅羅の様な大きな子どもがいるとは思えない。

 我を忘れて見とれていたドルフェスに、シャドウははにかんだ様に少し頬を染めて後ろを指し示した。

「D・D、お手数ですが、クリスタルを持ってください」

「え、あ…はい」

 言われるままに紫に輝いているクリスタルを持ち上げる。

 シャドウは頷くと、緊張した面持ちでドアを見つめた。 

 未だ続く足音はドアのすぐ外から聞こえる。

 カツ−−ン…カツ…

 止まった。

 開閉スイッチを操作する音がしてドアが開く。

「やあ、ここに居たのか?」

 立っていたのは滉だった。

「警部」

 ほっとした。滉が微笑みながらこちらを見つめている。

「ダフネも一緒か? 迎えにきた、さあ行こう」

 そう言って手を差し出す。ドルフェスは促されるままに一歩踏みだした。シャドウの細い腕が目の前に伸ばされ、行く手を塞ぐ。

「?」

 驚いてシャドウを見ると、彼女は口許だけで微笑みながら滉を見つめていた。

「滉さんが、私を、ダフネ、と呼ぶの?」

 奇妙に区切りながらそう問い掛ける、滉は困ったように肩をすくめる。

「どういう事だ? そんな事より早く行こう、ケット・シー達がやって来る」

 手招きするように腕を動かして、滉が答える。シャドウはほほっと小さく笑う。

「ケット・シーなら、もう来ているではありませんか」

「何?」

「貴方にしては、随分お粗末なお芝居ですね」

 滉の顔が奇妙に歪む。

「変なことを言うなよ、ドルフェス早く行こう」

 青年ははっと息を呑んだ、滉は一度もドルフェスと呼んだことは無い。それに、始めて滉の着ている服に気がついた。窓の下に居た滉は白いスーツだったのに、この滉は黒い服を着ている。

「違う、警部じゃない…」

 思わず呟いて、必然的に達した結論に血が凍る。目の前に居る者の正体が判った。

「ケット・シー…」

 力無く呟く声は、情け無いほど震えていた。

「私がついています、大丈夫」

 優しくシャドウが力付ける。

 滉が、いやケット・シーが降参したと言うように肩をすくめた。

「やれやれ、女王様には叶いませんね。いかにも私はケット・シーですよ、津川警部の真似は私には下品すぎて上手く行きませんね」

 滉の顔のまま、唇の両端が奇妙に持ち上がりあの不気味な笑い顔を作りだす。端正な顔にはあまりにもそぐわない微笑みは、悪魔のそれを思わせた。

「滉さんの魂は、貴方よりもずっと高級よ」

 シャドウは夫を擁護してかそんな反論をすると、おもむろにきっと強い目でケット・シーを見据えた。

「貴方は私を女王と呼びましたね、では女王として命じます、お下がりなさい、貴方は私の前に出られる様な者ではありません」

 凛とした声でシャドウが言い放つ。

 ケット・シーはV字の微笑みをさらに深めて首を振る。

「そうは参りません、私の主人はMr.ドルフェスを連れてくる事を望んでいます」

 シャドウなど歯牙にもかけずに、ケット・シーはドルフェスに向かって歩きだそうとした。

 不意に、その顔から不気味な笑いが消え、微かに両目が見開かれた。

「私はお下がりなさいと、言ったはずです」

 柔らかにシャドウが口を開く、その声には威厳すら感じられる。

「何をなさったのです?」

 今まで見せたことのない獰猛な目つきをして、シャドウを睨む。

「体が動かない? 後ろに下がることは出来ますよ。下がって立ち去りなさい。貴方は私の命令には逆らえないはずです」

 シャドウの言葉に従うのは業腹なのか、ケット・シーはその場を動かない。相手を睨む双眸は、金褐色から青紫に変わり、シャドウの発する光を反射して更に濃い紫となって脈動している。

ドルフェスは固唾を呑んで、シャドウとケット・シーの対決を見守っていた。だがしだいに、握りしめたクリスタルが心地よい暖かさを発して、青年の気持ちを落ちつかせ、ドルフェスは何か武器が有れば、シャドウの加勢ができると考えた。

ケット・シーに気づかれぬように目だけでベッドの回りを探していく。

 有った、自分の枕の下から、ネプチューンに渡された拳銃が覗いている。

 手を伸ばせば十分に取れそうである、そう、後一歩だけ前に出て、体で隠せば気がつかれるずに取れるはずだ。

 青年はそうっと体をずらして枕元に近づいた。

 ケット・シーは、シャドウを睨み据えながらやっと口を開いた。

「私に命令できるのは、私の主人のみ。他の方のお言葉には従いかねます」

 苦々しく言い返すケット・シーの口調には、もう人をあざ笑うような余裕の響きは消えている。

 何故なのか判らないが、ケット・シーは全身の自由を奪われていた。

 前に進もうとしても指一本動かせない、体は意思に反して後ろへ下がろうとし、その場に留まっているだけで全ての筋肉が悲鳴を上げている。

 激痛を伴う程の身体の抵抗に、ケット・シーはぎりりと奥歯を食いしばった。

 一呼吸するごとに、体がコントロールを失い人型を保てなくなっていく。

 背中の皮膚が変化し、ぞわぞわと黒い剛毛が立ち上がり、ゆっくりと体が膨張しはじめる。まるで調教師の前の猛獣だと思い、屈辱にかっと血が逆流する。

「なるほど、奥様はたいした魔法をお使いになられる…」

 せめてもの腹いせに、そんな皮肉を言ってやる。

 シャドゥは可憐な笑顔で応酬する。

「聖なる結界とでも申しておきましょう、ドルフェスに指一本触れる事は許しません。さあ、お下がりなさい!」

 ぴしりと打ち下ろされる鞭の様に、シャドウの叱咤が激痛と共にケット・シーの身体に打ちつけられた。

 必死で打開策を探していたケット・シーは、にやりと笑いながらゆっくりと後ずさりしはじめる。

「なるほど、私では女王様には役不足の様ですね。ではまた、後ほどお目どおりさせて戴きましょう…」

 ドアがケット・シーの動きに合わせて閉まりはじめ、その姿を隠してゆく。

 咄嗟に拳銃を掴み、閉まりかけたドアの隙間に数発撃ち込む。

「ククク…」

 気味の悪い笑い声が聞こえ、ドアが閉まる。青年はドアに駆け寄り、壁に背を付けて外を伺った。



 


 音が聞こえる。2ヵ月前、ゾルゲと共に聞いたあの呼吸音がドアの向こうから流れてくる。

 背中を冷たいものが流れた。しかし、同時にゾルゲの顔が脳裏をかすめ、恐怖感は腹の底から湧きだしてくる怒りに取って代わる。

 何時も旨そうに煙草を(くゆ)らしていた相棒。

 すぐにからかうくせに、何かあれば親身になって相談に乗ってくれた先輩。

 そのゾルゲを、青年の手首諸共、ぶら下げた肉塊の様に切り裂いた化け物が外にいる。

 青年はドアの開閉スイッチに手を延ばした。

「D・D、お待ちなさい」

 シャドウの制止を無視して、スイッチを押す。

 再びドアが開き、青年は引き金に掛けた指先に力を込めて、ドアに向き直った。

 ドウ!!

「ギャン!!」

 銃声とともに激しい悲鳴が上がり、ドアの向こうに立っていた人影が、後ろに吹き飛んだ。

「え…!?」

 ケット・シーを仕留めたと思って一歩踏みだしかけた青年は、倒れている人物を見て愕然(がくぜん)とした。

 虚ろに目を見開き、胸を朱に染めて大の字になっていたのは、ケット・シーではなく看護婦だった。

「身代わり…」

 慌てて回りを見回したが、非常灯が照らしだす廊下にはもうケット・シーの姿はない。

「何てこった…」

 青年はがっくりと肩を落とした。ろくに相手を確認せずに撃ったために、罪もない人を殺してしまった。刑事として、いや、人としてしてはならない殺人の罪を侵したのだ。怒りに任せてとんでもないことをしでかしてしまった。

 青年は呆然としながら、ふらふらと看護婦の死体に歩み寄った。

「D・D! 避けて!」

 悲鳴の様なシャドウの叫びに、ドルフェスははっと我に返った。

「うわ!!」

 いきなり目の前に延びてきた物に驚いて、とっさに後ろに転がる。それは今まで青年の頭が有ったところを虚しく切り裂いた。

 転がった勢いで背面回転をして、どうにか四つん這いになりながら体勢を立て直しす。その目に写ったものは、糸に引っ張られるように立ち上がる看護婦の姿だった。

「D・D! 撃って! 額を狙うのよ!!」

 後ろからシャドウの声が飛ぶ。が、ドルフェスは口を開けて看護婦を凝視していた。

 看護婦は虚ろな目のまま、ゆっくりと両手を振り上げる。その手は異様なほど延びており、五本の指からはその指よりも長い爪が、刃物の様に光を反射している。

「看護婦まで…」

「D・D!!」

 ドルフェスはシャドウの声に弾かれて引き金を引いた、看護婦の後ろの非常灯が砕け散る。死美人となった看護婦の唇に不気味な微笑みが浮かぶ。

「Dragon Maker…」

 またあの言葉だ。

 何故自分をDragon Makerと呼び殺そうとする?

 理不尽な事に対する腹立ちが沸き上がり、青年は今度は慎重に引き金を引いた。

「ギャウン!!」

 悲鳴とともに、頭の半分が砕け散った看護婦が宙に弾け、再び仰向けに転がる。

 四肢は激しく痙攣し、次第に小刻みとなり、床の上に長い腕がだらりと延びた。

「早く脱出しましょう」

 縦膝のまま看護婦の死体を見つめている青年の横に、シャドウがふわりと現れる。

「シャドウさん…何故みんな出てこないんだ? こんな大騒ぎしているのに…」

 回りの病室のドアを見回して、シャドウは首をすくめた。

「物騒な事には、誰も近寄りたくは無いでしょう?病気の時はなおさらです」

 納得していない青年の視線を受けて、シャドウは悪戯っぽく微笑んだ。

「本当は、ドアがロックされていて出てこれないんです」

「え?」

「私がやりました。病院のシステムコンピュターにハッキングして、私たちが脱出するまで開きません。他の方々に御迷惑をかけてはいけませんものね」

 少しはにかんだように笑う彼女は、魅羅の仕種と良く似ていた。そういえば、初めて魅羅を見たとき、3Dのダフネを連想したのだ。

「!? 魅羅さんは?」

「私たちの脱出路を作ってくれるはずだったんですけど、どうやら手こずっているようですね。大丈夫、あの子は自分の身は自分で守れる子です」

 自信を持った母親の顔で、シャドウは娘に対する信頼を示してみせる。

「さあ、貴方が長居するだけ、迷惑を被る人が出てきます。脱出しましょう」

 シャドウに促されて、ドルフェスは廊下の向こうに明るく浮かんでいるエレベーターホールを目指して歩きはじめた。

 しかしシャドウは、ふわふわと目の前に浮かぶと首をふってみせる。

「階下にも、恐らくケット・シーの手が回っているはずです。こちらへ…」

 片手で右の通路を示す、そのまま先導する様に動きだした。導かれるままドルフェスはシャドウについて歩きだす。

 前方には普通病棟と本館とを繋ぐ連絡通路が、窓から差し込む月明かりに明るく浮かんでみえた。

 両面がガラス張りになった通路を、中程まで差しかかったとき、シャドウが腕を延ばしてドルフェスを制止した。

「どうしたんですか?」

 答えはシャドウからではなく、本館の入口から発せられた。

「お待ち申し上げておりました。再び御目文字させて戴く光栄に浴し、恐悦至極に存じます、女王様」

 ケット・シーが、暗い通路の入口で慇懃に頭を下げていた。人形は保ってはいたものの体は既に黒い毛で覆われ、先程よりも2倍の大きさになっている、そしてその顔は人のそれではなく獰猛な野獣そのものである。

 足元に白っぽい物が在る、よく見るとそれは仰向けに転がされた魅羅だった。

「魅羅さん!?」

 通路に黒髪を扇の様にひろげ、魅羅はぴくりとも動かない。

「貴方は猫と言うよりは狐みたいですね。お名前を変えられたら?ホックス・ティルなんてお似合いよ」

 落ちつきはらった声でシャドウが皮肉を言う。

 ケット・シーは楽しそうに喉で笑うと魅羅の腕を掴んで持ち上げた。

「う…ん」

 ぶら下げられた魅羅は、薄く目を開いた。

「マザー…ごめん、しくじったわ…」

 か細い声で詫びる娘に、シャドウは優しく首を振る。

「いいのよ魅羅。ケット・シー、それ以上私の娘に手を触れないで」

「お嬢様はお転婆が過ぎるのでお仕置きをさせて戴きました。Mr.ドルフェスとご一緒に、私の主人の所へ来て戴きましょう」

 シャドウは口許に手を当ててホホッと上品な笑い声をもらした。

「嫁入り前の娘を、殿方と一緒に余所様のところへ行かせる、などということを許したら私が夫に叱られます」

 ケット・シーはやれやれと首を振った。

「それではお嬢様にも、死んでいただく事にしましょう。津川警部の様に」

「まあ、滉さんは死んでしまったの?」

 息もできないほど動揺している青年の横で、平然としたままシャドウが小首を傾げる。

「ええ、3日前にお美味く心臓を頂かせて貰いました」

 ドルフェスの脳裏に、心臓をえぐられた滉の姿がまざまざと浮かび上がった。しかしおかしい、それならさっき見た、白いスーツの滉は何だったんだ?

「そう、ところで、何故あなたの御主人は、ドルフェスが欲しいの?」

 微塵も平静さを失わず、シャドウは予てからの疑問を口にした。

「彼をDragon Makerと呼び、殺して死体を持っていきたがっているのはどうして?」

「さあ、どうでしょう」

 得意のお惚けで首を傾げる。

「答えなさい、貴方は知っているはずです」

 シャドウの口調が厳しいものになった、そのとたん、ケット・シーは後ろに飛びすさった。

 2〜3m後ろに着地したケット・シーは、片手に魅羅の頭を持ち、片手で彼女の首に長い爪を押し当てる。

 魅羅は苦悶に眉を寄せている。両腕はだらりと垂れ下がったまま奇妙な具合に歪み腫れ上がっている。ぶらぶらと揺れている両足もまた、同じように捩じれ、骨が砕かれていることを示していた。

「魅羅さん動けないんだ…」

 ケット・シーの残虐な仕打ちに、青年は奥歯をかみしめた。心の底から憎悪が沸き上がってくる。

「Mr.ドルフェス、お嬢様の命と引換えに、貴方がこちらに来てください。奥様、貴方が私に御命令なさったらどうなるか、もうお判りでしょうね」

 獣相は表情を表さないが、青紫の目が残忍な光をたたえて、楽しそうに脈動している。

「く…」

 ドルフェスは拳銃を持ち直すと、ケット・シーに狙いを付けた、しかし魅羅が邪魔になって撃つことが出来ない。ほとんど初心者の彼には、魅羅を避けてケット・シーの額に弾を撃ち込むような芸当は出来そうに無かった。諦めて銃を降ろし、シャドウを見る。

「シャドウさん、俺行きます。魅羅さんを見殺しには出来ない」

「駄目です」

 にべもないシャドウの言葉は、青年にはひどく冷淡に聞こえた。

「しかし、このままでは魅羅さんは…」

 ドルフェスの抗議には答えずに、シャドウはケット・シーに顔を向けた。

「ケット・シー、貴方の御主人はファントムではありませんね」

 返事は無い、ケット・シーは目だけでにやにや笑っている。

 シャドウは優雅な物腰で会釈をして艶然と微笑んでみせた。

「今宵は貴方に会えて、とても有意義な夜でしたわ。でもそろそろお暇いたしましょう」

「ほう、お嬢様は見殺しですか? 冷たい母上ですね」

 ケット・シーの口調には、どこへ逃げれるものか、といった嘲りが滲み出ていた。

 勿論ドルフェスも、魅羅を見捨てて逃げる気など毛頭無い。意を決してケット・シーの方へ歩きだした。

 不意に後ろで異様な気配を感じ、とっさに振り向く。

 不気味な光景が展開していた。

 虚ろな目の看護婦たちが、先程の看護婦と同様に長く延びた腕と爪を振りかざして、ドルフェスの背後に迫って来る。

「うわ!!」

 思わず悲鳴を上げてしまう。

「シャドウさん後ろ!」

 シャドウは前を見たまま頷いた。

「あちらもそうです」

「え?」

 再び前を見て、またもや驚愕する。

 魅羅をぶら下げたケット・シーの後ろに、やはり同じように変貌した看護婦たちが、わらわらと現れた。

「可哀相に…私たちのせいですわ」

 シャドウがため息まじりに呟いた。

 その声を聞きながら、ドルフェスは看護婦たちを凝視していた。知らない顔も多いが、明らかに知っている顔もある。以前入院したときに世話をしてくれた看護婦たちが、数人混じっていた。

「あの人達、知っている…何でこんな事に」

「貴方を殺すために、ケット・シーがみんな化け猫にしてしまったんです。」

 シャドウの言葉が終わらないうちに、看護婦たちは一斉に襲いかかってきた。

「Dragon Maker!!」

 掛け声のようにあの名前を叫ぶ、前後から長い爪が振り下ろされ、ドルフェスは死を覚悟した。

「ΔεΩ…」

 シャドウが口のなかで何やら呟くと、彼女の身体の輝きが強さを増し、辺りに紫の光を投げかける。

「ギャウン!!」

 看護婦の一人が、片腕を切り落とされてのたうち回った。他の看護婦たちも見えない壁にぶち当たって撥ね飛ばされる。

「D・D、その腕を拾ってください。気持ち悪いでしょうけど、大事なサンプルです」

 訳が判らないまま、足元に転がっていたまだぴくぴくと痙攣している腕を持ち上げた。血の滴る節くれだった手は、とても女のものとは思えない。

 あまりの気味悪さに直接触るのは気後れし、長い爪を指でつまむ。そこで、足元の異変に気がついた。

 自分の足の下から、太い亀裂が放射状に広がっていく。

「何だ!?」

 驚いて飛び上がり、今度は身体が宙に浮くことに驚いた。

「わ? わ!? わー!」

 身体が左右に漂うたびに、天井やガラス窓にひびが入っていく、どうやら自分の回りに球形のバリヤーが張られているらしかった。しかも重力まで遮断して。

「ほお…奥様の魔法ですね、今度はバリヤーですか」

 感心したようにケット・シーが声を掛けた。無様に漂っているドルフェスの横で、シャドウがにっこりと微笑む。

「ええ、これが私の出口ですのよ。魅羅、痛いでしょうけど、もう少しの辛抱よ、急行に乗る必要も無さそうよ」

 暗号めいた言葉を優しく娘に言うと、シャドウはバリヤーを押すような仕種をした。ぐらりと球体が揺れ、ガラス諸共壁を破って外に飛びだした。

「シャドウ! 待ってくれ、俺は魅羅を!! うわー!!」

 悲鳴とともに、ドルフェスは3階の窓から下に落下していった。


やっとダフネ=シャドウの登場です。

彼女は……猫被ってますね(笑

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