10 Cait・Sith――利口な猫――
サラリーマンは最強なのです
街のざわめきは、店々の扉から洩れる音楽や、女たちの甲高い嬌声と混じり合い、ねっとりと身体にまとわりついてくる。何時もならば心地よい薄暗がりのなかも、今は魔物が潜み自分を狙っているような気がする。カイマンは乾ききった喉をごくりと動かした。
自分たちが捕まり、全てを白状してしまったことは、もうDark Bishopの耳に入っているかも知れない。なら、これから来る奴は、きっと殺し屋のはずだ、きっと口を封じに、いやもうべらべら喋ってるんだからおとしまえを付けに来るのに違いない。
カイマンは落ち着かなく回りを見回した。ここから逃げたかった。しかし、逃げてもあの犬の化け物の様な車に追いつかれる。何処にも行き場はない、棺桶の中に片足を突っ込んでいる気がする。
「おい…」
コスタが身じろぐ。カイマンは俯いていた顔を上げた。一瞬、身体中の血が凍りつく。
客を取り込もうと媚びた笑いを浮かべて、道行く男たちに絡みつく淫売の間を避けながら、一人の男がこちらに向かって歩いてくる。きっちりと整えた髪、地味なスーツにアタッシュケースを持ったその男は、およそこんな場所には不釣り合いだった。
ビジネスマンが商談に向かうように、余所見一つせずに進む男の青白い顔は、不気味なほど無表情だ。
「Mrカイマン、それにMrコスタ、今日はご苦労さまでした」
Dark Bishopの代理人は、二人の前に立つと几帳面にお辞儀をした。
「さて、これは今日の報酬、14万クレットです」
アタッシュケースを持ち上げてみせる。
「それでは、今日津川滉が何をしたか、教えてください」
落ち着いた声でそう尋ねられ、カイマンは背中に氷の塊を入れられたような気がした。手のひらに汗が吹き出す。
何とか適当なことを言って誤魔化せるだろうか?しかし代理人のさえざえとした紺色の目は、彼に嘘をつく勇気を与えなかった。
「えー…その……」
ごにょごにょと口のなかで言葉を探していると、代理人は彼を覗き込むように首を傾ける。
「どうなさいました?何か不都合な事でもございましたか?」
どきんと心臓が跳ねた。
「い…いや…あの今日は…」
「はい?」
「今日は、俺に捕まって、全部話しちまいました」
男のすぐ後ろから滉が言った。
「おや、津川警部ですね?」
代理人はいきなり背後に現れた滉に少しも動ぜず、振り向きもせずにほんの一瞬口許に微笑を浮かべた。
その笑顔を見て、カイマンはへなへなとその場にへたりこんだ。唇の端だけをV字型に引き上げた微笑みは、この世の者とは思えなかった。
滉は無造作に男の両手を持つと、後ろ手に組ませて手錠を掛けた。
「ところで、あんた一人?」
無表情に自分を見つめる男を、元の裏路地に引き立てながら滉が聞く。
男は首を傾げた。
「さあ、どうでしょう?」
「ま、取り合えず、あんたは俺の虜だ」
そう言う滉に、再び男が首を傾げる。
「さあ、どうでしょう」
むっとした滉は、男を乱暴に押した。男はつんのめり、二三歩踏鞴を踏んだ。
「流石は爺ぃの代理人さんだ。憎まれ口の使い方が旨いね
うっかり腹を立てかけた自分を自嘲するように言いながら、また元のようにカイマン達に手錠を掛けているドルフェスと魅羅を振り返る。
「滉に厭味を言うのは、とっても楽しい事なのよ」
おどけたように魅羅が返事をする。滉は苦笑した。
「そーか、俺って温厚で怒んないからな」
うそぶきながら、男たちを路地のなかに引き入れてゆく。
滉は3人を壁際に立たせた。
Dark Bishopの代理人は、不気味なほどおとなしい。まるで何事もないような無表情を崩さずに、これまた何の感情も浮かべていない目をぴたりと滉の顔に当てている。何となく居心地が悪くなり、滉はドルフェスを振り返った。
「D・D、護送車でスタンバっててくれ、ネプチューンじゃ全員乗れないからな」
「判りました」
ドルフェスは頷いて、反対側の入口に置いた護送車へ行こうとした。
男が口を開いた。
「おや、Mr龍造寺ではないですか? 貴方もこちらにおいでとは、津川警部も御心強いでしょうね」
青年はそれを、魅羅に向けられた言葉だと思ったが、男の目はドルフェスに据えられていた。滉が顎をしゃくり、魅羅を示す。
「龍造寺さんはこっちだぜ」
滉の言葉に男は首を振った。
「いいえ、お嬢様ではありません。そちらにいらっしゃる方ですよ」
代理人は相変わらずドルフェスを見つめている。
「いつ時代の話だ。龍造寺の旦那はもういないぜ」
いらいらした様に滉が言う。龍造寺の名が出てきてから、滉の表情は奇妙に強張っていた。
男が初めて仮面の様な無表情を崩し、業とらしく驚いてみせる。
「ああ、そうでしたね。これはお人違いを致しました。お許しを。Mr龍造寺には、私の主人の希望により長い旅に出ていただいたのでした」
途端、滉の腕が伸び、男の胸ぐらを掴んで乱暴に揺さぶった。
「何だと!! 今なんて言った?!」
「確か貴方にも、同じ様に旅に出ていただきましたね。ご無事のお帰り何よりです」
「こ…この野郎!! お前等か?! お前等が殺したのか?!!!」
男の体を高々と釣り上げ、まるで篩にかけるようにがくがくと揺さぶる。魅羅までもが刀を抜いて男を睨み付けていた。
ドルフェスは、すっかり取り乱した滉達を、怪訝な表情で見つめていたが、体のなかで警報が鳴っていた。胸騒ぎがしてしょうがない。ふと、滉の剣幕に怯えたように、壁にへばりついている男たちの姿が目に入る。
何か妙だ。
カイマンが、くっついているコスタから、必死で体を離そうともがいている。
コスタはぴんと直立して大きく目を見開いていた、その体が次第にがたがたと震えだす。
「コスタ、おい、どうしたんだよぉ、コスタ」
カイマンは相棒の異変に恐れおののきながら、繋げられた体を何とか解こうと身をよじった。
コスタは全身を硬直させ、激しく震えながら、口の中で何事か呟いている。
「Dragon…Maker…Dra…on…Mak…r」
呟くたびに声は不明瞭になり、ぐるぐると喉が鳴りだす。手足の筋肉が膨れ上がり、肘に挟まれたカイマンの腕に激痛が走る。
「痛てぇ!! 痛てぇよぉコスタぁ!!」
カイマンが悲鳴を上げた。ドルフェスはパラライザーを構えて男たちの所へ走った。
「どうしたの?!」
ようやく、異変に気付いた魅羅が振り返る。
「どぉら…ぉん…めぇ…くぁ…!!…どぉ…ごぉ…ん…むぇ…くぁー!!」
コスタは口から を垂らしながら次第に声を大きくしていく。
ビシ!
何かが壊れる音が響いた。手首を押さえていたマグネット手錠が、ビスを飛ばしながらはじけ跳び、コスタは自由になった両手を頭上高く差し上げた。
「あ…わ…こ…コスタ…」
相棒から開放されたカイマンは、そのままへたり込み呆然と仲間の変貌を見つめた。逃げようにも腰が抜けてしまい、両足が力無く地面を引っかくだけである。
コスタの体は異常に膨張しはじめていた。大きく開いた目と口は、次第に左右に切れこみ、同時に鼻と顎がぐうっと前に突き出してくる。
膝が奇妙に曲がりはじめ、股と脹脛の筋肉が繋がっていく。爪先立ちになっていた足は、履いていた靴を引き裂いて甲と踵がぐうっと延び、5本の指には鋭い爪が延びはじめた。胴も引き延ばされる様に伸び上がってゆき、バランスを崩した上半身は前のめりとなり、地についた両手もまた、足と同じように指が曲がり爪が生えてくる。同時に肩の肉が盛り上がり、ビシっという音と共に突き出した骨が血を滴れさせながら、金属のような光沢のある角に変わっていった。
異様な変形は短い間だったが、それを見つめる者たちにはゆっくりと変わっていくかの様に思える。
ドルフェスはパラライザーを構えたまま、シネムービーよろしく異形の者に変わっていく男を、全身を総毛立たせながら見つめていた。
滉もまた、男の胸ぐらを掴んだまま呆然とその有り様に見入っている。
ただ一人、Dark Bishopの代理人だけが、宙ぶらりんになりながらあのV字型の微笑みを浮かべて、コスタの変身を見守っていた。
「ぐぉーあうぉー…うぇーがぁぁー…!!」
コスタの声はもはや人の声ではなく、身の毛もよだつ獣の咆哮となった。かつて人間であった事を偲ばせるのは、わずかに体に引っ掛かった服の切れ端と、変身でも変わらなかった、瞳の灰色だけだ。
てらてらとした粘膜に覆われたような肌は、爬虫類を思わせるが、全体のフォルムはその巨大さと肩の角を入れなければ毛のない猫の様である。
「なんだありゃ…」
意外な事の成り行きに呆れ返った様に呟いた滉は、はっと気が付いたように掴んでいた男の顔を見る。
「てめぇ、細工してやがったな。そうか…これがポセイドンの海蛇か?!」
男はぶら下がったまま、唇の切れ込みを深くした。
「さあ、どうでしょうか」
気の無い返事は無視して、滉は振り返った。
「ネプチューン!!」
滉が吼え、ネプチューンがそれに応じる。
「伏せろ!!」
金縛りにあったようにコスタの変身を見つめていたドルフェスは、滉の声と同時に魅羅の体当たりを受けて路上に転がった。
「うわぁ!!」
「動かないで!!」
間髪をいれず暗闇を引き裂いてネプチューンのレーザー砲がコスタであった化け物に炸裂する。
「ギグォァー!!」
咆哮が響き、壁が砕け散った。砕けた壁の向こうから、女たちの悲鳴が上がる。
化け物は胴体の半分をえぐられてのたうち回っていた。しかし、まだ死んではいない。ネプチューンの砲撃を、本能的に避けたのだ。恐ろしいほどの反射神経である。
「ちぃ!!」
滉は激しく舌打ちすると、掴んでいた男を思い切り良く壁に叩きつけた。後頭部を強打されて男は声もなく失神する。既に魅羅は、大志津を抜き放ちドルフェスを庇って、のたうち回る怪物を睨み据えている。
男をその場に放り出して、ドルフェス達の所へ駆け寄った。こんな街中ではもうネプチューンのレーザー砲は、被害が大きくなりすぎて使えない。
「魅羅、この場はD・Dを連れて逃げろ!!」
「滉は?!」
「何とかする。このままじゃ公衆の迷惑だ」
魅羅は大志津を構えなおして半歩後づさった。いきいきとした弾んだ声で言い返す。
「得物も無しであいつを殺すなんて無理よ。滉こそ早いとこネプチューンに戻って、パルスマシンガンでも持ってきてよ」
「お前、本当に俺と同じ性格してるな」
つくづく感心したと言うように滉は首を振った。魅羅が小さく笑う。
「閖吼もそう言ってたわ♪」
父娘の会話はそこで打ち切られた。深手を負った化け物は、憎悪に燃えて肩の角を振り立てて突進してくる。二人は素早く身をかわす。
再び魅羅に突き飛ばされて路上に転がったドルフェスは、背後から迫ってくる化け物の姿に、声にならない悲鳴を上げた。
「!!!!!!」
「何してるの? 逃げなさい!! 滉に武器を取ってきて!!」
腰を抜かさんばかりに恐怖におののく青年に向かって、魅羅の鞭のような叱責が飛ぶ。と、同時に化け物が凄まじい悲鳴をあげる。えぐられた傷口に滉の蹴りがたたき込まれたのだ。レーザーで焼ききられた組織で蓋をされていた傷口は、あっけなく裂けてどす黒い血を吹き出す。苦悶の悲鳴を上げる化け物の喉に、魅羅が大志津を突き刺した。
胴と喉から血を吹き出しながら、化け物は激痛に狂った目をドルフェスに向ける。
「ドァウォォン…ウェェアァァ!!」
コスタであった時と同じく、化け物は不明瞭な言葉を叫んだ。まるで始めからそれの目標はドルフェスであったかのように。
「D・D! 逃げろ!!」
滉の声に、その場にすくんでいた青年は、慌ててパラライザーを構えた。夢中でトリガースイッチを押す。しかし、化け物の突進は止まらない。
「馬鹿野郎!! なにやってんだ!!」
間一髪のところを横ざまに飛び込んだ滉の蹴りが、化け物の顔面を捕らえ、鼻を挫かれたそいつはゴロリと一回転をして、第二撃を避けた。しかし、逃げた先に待ち構えていた魅羅が、首筋に大志津をたたき込む。新たな血が吹き出した。だが、その前に切られた喉はもう血が止まっている。凄まじい回復力である。
「駄目だわこりゃ、D・D、得物持ってきてくれ、気長にしてたら腹の傷まで塞がりそうだ」
まるで世間話でもするような口調で、滉がドルフェスに言う。穏やかな声音を聞いて青年の舞い上がってしまった頭が少し冷えた。
「は、はい!!」
「よーしいいお返事だ。頼むぜ」
「はい! あ、そうだ、これ!」
走りかけた青年は、ベルトに差し込んでいた拳銃を取り出した。昨夜ネプチューンに渡された拳銃である。
「警部のですよね、お返しします」
それを見て、滉は目を見張った。
「そいつはどうしたんだ?」
「ネプチューンが寄越したんです。でも、その後返しても受け取ってくれなくて」
「そうか」
滉は頭に血がのぼっていて、ドルフェスが何を持っているかも気付かなかった昨夜の自分を内心恥じた。
「俺は射撃は下手だ。持ってろ、行け!!」
突き飛ばされるように肩を押されて、青年は走りだした。
ドルフェスを追って、再び突進を始めた化け物に、魅羅と滉が挑みかかる。
カイマンは、瓦礫に半ば埋まりながら、恐怖のため発狂寸前だった。
「コスタぁ…コスタぁ…」
力無く相棒の名を呟きながら、化け物となったコスタと、津川滉達の死闘を見つめていた。
此処から逃げたかった、しかし、瓦礫に足を潰され、もはや這うことさえ出来そうにない。失神したくても、足の痛みが目を覚まさせる。カイマンには何処からも救いの手は差し延べられそうに無かった。
どうしてこんな事になったのだろう? コスタはどうなってしまったのだろう? 何が起こっているのだろう? 頭のなかは疑問で一杯だ。
コスタとはもう5年もコンビを組んでやってきた、無口で無愛想で変な奴だったが、自分とは馬が合った。昨日だって二人で仕事を受けて、後は何にも変わってない。だのに何故、あいつはあんな化け物に変わってしまったのか。
「コスタよぉー…」
コスタは体中を何箇所も立て続けに切り裂かれ、激痛に悲鳴を上げていた。苦痛の為に伸ばした顎の柔らかい部分に、黒髪の女の刀が突き刺さる。
脳に達する程の深手を受けて、コスタの目がかっと見開かれる。
「コスタよぉ…可哀相に痛てぇだろうなぁ…」
化け物になった友を哀れんで、カイマンの目から、自分のため以外には流したことのない涙が滲み出た。
「お友達を助けないのですか? 貴方なら出来ますよ」
「ひ…?!」
不意に氷のように冷たい声がした。
瓦礫の向こうに、捨てられた人形みたいにぐったりと座り込みながら、あの男が見つめている。口許にはあの不気味な微笑みをうかべて…。
カイマンの中で、何かが弾けた。
──そうだ、あの後俺たちは女を引き合わされた──
この男が連れてきた女たちとホテルにしけこんで、そこでカイマンは素晴らしい力を手に入れたのだ。何でこんな事を忘れていたのだろう?
──女は何て言った?──
女は、カイマンと一つになりながら、何か言葉を呟いた。あれは何だった?
路地の向こうから、黒髪の男が何か抱えて走ってくる。そうだ、女はあの男を殺せと言った。あの男の名は…。
「Dragon Maker!!」
カイマンはゆらりと立ち上がった。もう何も怖くなかった。身体中から力が湧き出てくる。足も痛くない、ほら、こんなに跳べる。
「?!」
ドルフェスは、いきなりコスタと同じことを叫んで立ち上がったカイマンに、戦慄を覚えて立ちすくんだ。
カイマンは操り人形の様な、妙に生気のない動きでふわりと飛び上がった。千切れた片足だけがその場に残され、呆然と見つめるドルフェスの前に、3本足の化け物が着地する。
上から見えない糸に引っ張られるように、醜悪な腕が上がり青年の頭上に振り下ろされる。節くれだった指の先から鋭い爪が長々と伸びていた。
以前相棒のゾルゲが死んだ時のように、自分の体も引き裂かれてしまう。そう思ったとき、ドルフェスは無意識のうちに抱えていたものを頭上にかざしていた。
ガキッ! という音と、強い衝撃が両腕に伝わった。
ドルフェスはチタン製の六尺棒で、振り下ろされた爪を受けとめている自分に驚いていた。
ぐいっとその棒が持ち上げられる、青年は、そのまま力を込めて棒を頭上に放り投げると、思いっきり後ろへ転がる。何も考えてはいなかった。ただ体がそうしろと教えている。今まで彼がいた場所で化け物の爪が空を切った。
「D・D!!」
異常に気が付いた滉が、こちらへ走ってくる。ドルフェスの放り投げた六尺棒を拾い上げて、化け物に向かって振り下ろす。
棒は空中で7つの部分に分解し、化け物の首に絡みついた。ミドルアースのアジア地区に古来より伝わる武具、七節棍である。しかも手元のスイッチで節を繋ぐ鎖に電流が流れる仕組みになっている。高電圧の電流を首から流されて、化け物は魂切る様な悲鳴を上げながら跳ね上がった。
七節棍を素早く外した滉は、一動作で元の棒に戻し、即座に相手の左目にたたき込む。唯一カイマンであった名残を見せる茶色の目に、チタン製の合金棒が吸い込まれるかの如く深々と突き刺さる。
「ネプチューン!!」
ネプチューンから射出された細いワイヤーが七節棍に絡みつき、それに高圧電流が流された。
紫電一閃。
スパークした青白い光が路地の暗闇を追い払い、一瞬全てのものを白と黒のコントラストで覆いつくす。
その光の中で、化け物の断末魔の悲鳴が長く尾を引いて響きわたった。
光は唐突に消え、強い光に慣れた目に暗闇が黒い手を被せる。
ドルフェスは目を瞬かせなら立ち上がった。微かな光の中では未だ何もハッキリとは見えない。手を伸ばし、壁に触るとそれに寄り掛かって体を支える。
「グォォォォガァァァー!!!!!!」
凄まじい咆哮が上がり、不意に消えた。
表通り側の入口に仁王立ちとなっていたコスタの成れの果てが、首の有ったところから夥しい血を吹き出しながらぐらりと揺らぎ、前のめりにゆっくりと倒れていく。光で目が眩んだところに乗じて、魅羅が化け物の首を切り落としたのだった。
「D・D、血が出てるぞ!」
滉に肩を掴まれ、青年は振り返った。
太股に激しい痛みを感じて、ドルフェスは少し呻く。避けきれずに化け物の爪を足に食らったらしい。
「警部…俺、死ぬかと思った…」
手早く止血をしてくれる滉の背に手を乗せて、ドルフェスは安堵のため息をついた。
「はは、なかなかどうして、たいした逃げっぷりだったぜ」
笑いながら立ち上がった滉は、口に指を当てて短い口笛を吹いた。
小さな軽い音をたてて、ネプチューンがワイヤーを回収する。
青年は初めてカイマンであった化け物の末路を見た。左目に突き立った七節棍から薄い煙があがっている、電撃による高温で棒の回りの肉が黒く焼けただれ、まだプスプスと音をたてていた。同じように爪や角、体のあちらこちらからもうっすらと煙がたちのぼり、辺りには肉の焼ける臭いがたちこめている。
滉が無造作に七節棍を引き抜くと、焼けただれて固まった身体は、そのままの形で横態にどたりと倒れた。
「魅羅、ここら辺を縄張りして野次馬を追っ払っておこうぜ。地元が来るまでまた足止めだ」
表通りや崩れた壁の向こうから、何事かとこわごわ覗いている人々を顎で示して言う。魅羅はハンカチで丁寧に大志津を拭いながら振り返った。白い顔や、淡い色のスーツにも返り血一つ受けていない、彼女の驚異的な反射神経が伺われた。
赤い唇がにっこりと微笑む。
「私、警官じゃありませんから、縄張りの仕方を知りませんのよ」
滉は口をへの字に曲げた。
「じゃ、教えてやるから勉強しな。D・Dが怪我した、手が足りないんだよ」
「超過勤務よ、過労死しちゃうわ」
「大丈夫、お前ならすぐ生き返るよ」
まるで何事もなかったかのように軽口を飛ばしている父娘を、ドルフェスはぼんやりと眺めていた。恐怖から脱した虚脱感の為に身体が酷くだるい。
「D・D、ネプチューンに乗っていろ、後で医者に連れてってやるよ」
滉にそう言われて、ドルフェスは手を上げて礼の代わりにし、ネプチューンに戻ろうと歩きだす。しかし、壁から離れて一歩踏みだしたものの、青年の身体はそのまま崩れるように前へ倒れた。
「D・D?!」
驚いて駆け寄った父娘は、青年の身体が火のように熱いことに気付き、思わず顔を見合わせた。
「酷い熱…」
額に手を当て、魅羅が呟いた。滉はドルフェスの太股の傷を見た、傷口は紫色に変色し黒い血が固まりかけていた。原因は間違いなく化け物の爪である。何らかの毒が爪から出ていたのだ。
「おや、どうかなさったのですか?」
背後から、嘲るような冷たい声がした。二人は振り向きもしなかったが、声の主は判っている。
「てめぇには、色々聞きたいことがあるぜ…」
怒りの込もった震える声と共に滉はゆらりと立ち上がった。
V字の微笑みを浮かべて壁によりかかっていた男は、顎を蹴り上げられて強か後頭部を壁に打ちつけたが、不気味な笑みはその顔から消えない。
「八つ当たりはみっともないですよ」
平然と言ってのける男の胸倉を掴み上げて、滉は男の目を睨み据えた。
「お前等何を企んでいる…」
「早くMrドルフェスを手当てしないと大変ですよ」
相変わらず滉の問いには答えずに、男は再び無表情に戻った、ただ今度は目に面白がっている光が浮かんでいる。
「へぇ、よくD・Dの名を知ってるな」
「彼は有名人ですからね。お母上もとてもお美しい」
Dark Bishopの代理人はそう言うと喉の奥で低く笑った。
「…の野郎…!」
唸り声よりも早く、滉の拳が代理人の横っ面を一殴りする。
「滉、D・Dを早く病院に」
魅羅の言葉にはたと我に返った滉は、凄味を効かせて代理人に笑いかけた。
「引かれ者の小唄は後でゆっくり聴かせてもらうぜ。魅羅、こいつをネプチューンに連れていけ」
そう言いながら男を放り出そうとした、が、足元でカチャリと何かが音をたてた。
いつの間に外したのか、男を拘束していた手錠が転がっている。
「お嬢様のエスコートは無用に願います。私はもうお暇いたしますから」
胸倉を掴れてぶら下がっていることなど、全く意に解してはいないように男は腕時計を見ながら言葉を続けた。
「貴方様とMrドルフェスの御葬儀には、是非私も出席させて頂きます。どうぞよろしくお願いいたします」
「何だと! このや…!!」
怒り狂った滉の声は途中で途切れ、金褐色の瞳が当惑の光を浮かべて見開かれる。
「滉?!」
魅羅が悲鳴に近い金切り声を上げた。
熱で朦朧としていたドルフェスはその声で目を開け、男を掴み上げたまま凍りついたように直立している滉を眺めた
全てが夢のなかのような気がする。
アース人の細身の身体が弓なりに反り、金と黒のジャケットに包まれた背中から何かが突き出ている。それは黒い毛に覆われた腕。
指の曲がった獣の手。
その手がおもむろに開かれ、5本の指から猫科動物特有の鉤状に湾曲した爪が飛び出し、深々と滉の背中に食い込んでいった。
「お…お前は…?!」
かすれた声で滉が呟く、Dark Bishopの代理人の顔に、初めて満面の笑がひろがった。引き延ばされた薄い口は、舌なめずりをする捕食動物を思わせ、細められた紺色の目には赤い光が混じり、青紫色に変わっていた。まがまがしい死神の笑。
「私のことは、ケット・シーと御記憶ください」
力を失った滉の手を、まだ形の変わっていない方の手で払いのけながら、男は滉の耳に囁いた。
「御安心を、貴方様の旅にはMrドルフェスもすぐに御同行されるはずです。では、良い旅を」
背中に突き抜けた腕が、背骨を掴みながらゆっくりと引き抜かれる。金褐色の頭ががくんと後ろに仰け反った。
「滉ぁ!!」
絞り出すかのような魅羅の叫びが、暗い路地に響きわたった。路地の向こうでネプチューンが狂ったように吼えたてている。
半分気を失いかけながら、ドルフェスは滉の心臓を掴みだした男の青紫に脈動する瞳を見つめた。
ケット・シーと名乗った男は、滉の心臓から滴り落ちる血を楽しげに嘗めながらドルフェスを見た、残忍な光りを浮かべたその目は、あの白い死神のものと同じだった。
全身に震えが走る。
一度逃れた死神の手が、再びドルフェスを捕まえるために伸ばされたのだ。
「Mrドルフェス、そのままでは苦しむだけ無駄というものです。私が無事死神の馬車にお乗せいたしましょう」
ケット・シーは低く笑いながら青年に向かって歩きだした。胸に大きな穴を 穿たれて、全身を血で染めた滉の身体が藁人形のように仰向けに転がる。
焦点を失った滉の金褐色の目が虚空を見つめていた。虚ろな視線がドルフェスのそれと合う、死相が浮かんだ顔が、夢の女の死に顔と重なる。
ドルフェスの中で何かが弾けた。
喉の奥から、号泣とも、悲鳴ともつかない叫び声が迸る。
──モウ、二度トアイツガ死ヌノハ見タクナイ──
目の端で魅羅が大志津を抜くのが感じられた。彼は何も考えられなかった。腰に手を伸ばし、指先に触れたものを掴み出す。大型の拳銃がしっくりと手に馴染む、そのまま無造作に構えて、死神の目を見た。
悲鳴のような犬の鳴き声と共に、路地に横たわる暗闇を引き裂いて銃声が轟いた。
滉が、死んだ?