第9話「呪いの森」
森に入った瞬間、空気が変わった。
瘴気とは違う。もっと粘りつくような、肌に張りつく冷たさ。息を吸うだけで肺の奥が痺れる感覚がある。
魂視を展開した。
見えた光景に、足が止まった。木々の魂が黒く染まっている。根から幹、枝の先端に至るまで、黒い筋が走っていた。地面の虫も、草も、何もかもが呪いに侵されている。森全体が一つの呪いの中にいた。
「これは……」
リリスの声が硬い。
「呪いの発生源が相当強いということじゃ。森ごと侵食しておる。わらわでも長時間は持たぬかもしれぬ」
真祖の吸血鬼がそう言うのだ。Bランクの冒険者三組が全滅するのも無理はない。
魂魄支配で二人の周囲に魂の結界を張った。呪気を遮断する薄い膜。空気が少しだけ軽くなる。だが完全には防げない。結界の外から、じわじわと呪気が染み込んでくる。
「長居はできないな。急ごう」
奥に進むにつれて、森は変容していった。
最初は木の幹に黒い筋が走っている程度だった。だが進むほどに、筋は太くなり、枝が歪に曲がり、葉が黒く縮れていく。地面から紫色の霧が立ち昇り、足元が見えにくい。
鳥の声がしない。虫の音もない。風すら止まっていた。音の消えた森は、墓場より静かだった。
その沈黙を破るように——茂みが揺れた。
飛び出してきたのは狼だった。三頭。だが、普通の狼じゃない。目が紅く濁り、口から黒い泡を吹いている。体表に呪いの紋様が走り、毛が所々抜け落ちていた。呪いで凶暴化している。
先頭の一頭が跳躍した。俺を目がけて。
リリスの血の茨が二頭を拘束する。残りの一頭が俺の喉元に牙を向けた。
避けなかった。
魂鎮を展開し、狼の魂に直接触れた。呪いの層を——暴走している部分だけを——指先で丁寧に剥がしていく。牙が首の寸前で止まった。
狼の目から、紅い濁りが消えた。
紅から、元の琥珀色に戻る。狼は混乱した様子で俺を見つめ、低く鳴いた。恐怖でも敵意でもない、困惑した声だった。それからゆっくりと身を引き、森の外に向かってふらふらと駆けていった。
拘束した二頭にも同じ処置を施す。一頭ずつ、呪いだけを剥がし、本来の魂に戻す。二頭目を解放した時、その狼が振り返って一度だけこちらを見た。それから仲間を追って消えた。
「ぬし……殺さぬのか?」
リリスが問うた。驚いた顔をしている。
「こいつらが悪いんじゃない。呪いに巻き込まれただけだ」
「じゃが、時間を食うぞ。結界の維持にも魂魄支配を使っておるのに、治療にまで力を割いては——」
「わかってる。でも、殺す理由がない」
リリスが黙った。それから小さく目を見開いて、俺を見た。
「……死霊術師が、命を救うか」
「死霊術師だからだ。魂を扱う以上、無駄に壊す真似はしたくない」
少しの間、リリスは何も言わなかった。共鳴を通じて伝わってきたのは、驚きではなかった。もっと深い、静かな感情だった。
「面白い男じゃ」
低い声で、そう言った。
◇
さらに奥へ進んだ。
呪気は歩みを進めるたびに濃くなる。結界の維持に魂魄支配の半分近くを割いている。指先が冷たい。呪気が結界を通り抜けて、少しずつ体を侵そうとしている。
足元に何かが落ちていた。
冒険者の剣。錆びてはいないが、刀身全体に黒い紋様が這っている。その先に、もう一本。さらに盾。折れた杖。短剣。矢筒。
点々と続く装備の残骸。持ち主たちが、奥に進むほどに一つずつ力尽きて武器を手放していった跡だ。
最後に見つけたのは、地面に突き刺さったままの大剣だった。柄に冒険者ギルドの紋章が刻まれている。Bランクの証だ。これを持っていた冒険者は、ここで立てなくなったのだろう。大剣を杖にして立とうとした痕跡が、地面に残っていた。
生きて帰れたのだろうか。
「……レイド」
リリスが声をかけた。俺の感情が伝わったのだろう。
「大丈夫だ」
「大丈夫ではなかろう。結界が薄くなっておる」
指摘された通りだった。狼の治療で力を使った分、結界が弱っている。呪気の侵入速度が上がっていた。
だが——引き返す気はなかった。
叫びが、すぐ近くから聞こえる。もう耳を塞いでも聞こえるほど近い。
◇
森の最深部に、朽ちた廃墟があった。
かつては猟師の小屋か何かだったのだろう。屋根は半分崩れ、壁は黒い蔦に覆われている。蔦が脈動していた。呪いの心臓のように、鼓動に合わせて膨らんでは縮む。
その中に——いた。
少女だった。
壁にもたれて座っている。全身を黒い鎧に覆われていた。鎧は装着しているというより、体に融合しかけている。継ぎ目がなく、まるで少女の肌から鎧が生えているように見えた。鎧の隙間から、呪いの紋様が白い肌に広がっている。
金色の長い髪。だがその髪は汚れてぼろぼろに絡まり、元の輝きはほとんど失われていた。顔は蒼白で、頬がこけている。まともに食事を取れていないのだろう。目は虚ろだが、かろうじて意識はあるようだった。
鎧から、黒い霧が絶え間なく放出されている。これが森全体を呪いで汚染している発生源だ。近づく者を無差別に侵す自動防衛型の呪い。本人の意思とは関係なく発動している。この少女自身が、一番苦しんでいるはずだ。
魂視で、少女の魂を見た。
——明るい金色だった。
呪いに食い荒らされ、黒い筋がいくつも走っている。七重の鎖が魂に巻きついていた。だが、その鎖の下で、金色の芯が脈打っていた。まだ生きている。七重の呪いに半年間耐え続けている。
普通なら、とっくに魂が砕けている。宮廷魔術師が匙を投げるほどの呪いを、この少女はたった一人で押し返し続けていた。
——強い子だ。
「来るな……」
少女の唇が動いた。かすれた声。息をするのすら辛そうだった。
「近づいたら……呪いが……移る……。もう何人も……巻き込んだ……これ以上……」
こんな状態でなお、他人を気遣っている。自分が死にかけているのに、近づく者の身を案じている。
「大丈夫だ。俺は死霊術師だ。呪いは専門分野だよ」
「死霊……術師……?」
虚ろだった目に、微かに光が宿った。だがすぐに消えた。信じていいのかわからないという顔。信じたくても、もう期待する力が残っていない顔だった。
当然だ。半年間、誰にも助けてもらえなかった。教会も、宮廷魔術師も、父親すらも助けてくれなかった。「無理だ」「治療不可能だ」——そう言われ続けて、最後には森に一人で捨て置かれた。
「そんな職業、本当にあるの……?」
「ある。目の前にいるのがその証拠だ」
結界を最大まで強化し、少女に近づいた。
鎧からの呪気が暴れた。黒い霧が結界に叩きつけられ、紫色の火花が散る。自動防衛が全力で拒絶している。結界がみしみしと軋んだ。
構わず手を伸ばした。
少女の手に触れた。
冷たかった。氷のようだった。呪いの冷気が、触れた指先から腕を駆け上がってくる。骨まで染みる寒さの中で、魂魄支配を展開し、呪いを押さえ込む。少女の魂に、そっと語りかけた。
「痛いか?」
「……痛い」
少女の声が震えた。
「ずっと……痛い……。半年、ずっと……眠ることもできなくて……」
半年間、一睡もできずに呪いの痛みに耐え続けた。17歳の少女が。一人きりで。
「——治す」
俺は言った。
「俺が、治す」
少女の瞳が揺れた。
何かが、壊れるように——その目から涙が溢れた。
声は出なかった。声を出す力すら残っていなかったのだろう。ただ涙だけが、白い頬を伝って落ちていった。
「治す」。
お父様も言ってくれなかった。お母様はもういない。教会の最高司祭は首を横に振った。宮廷魔術師は「前例がない」と去っていった。名門騎士家の跡取りだったのに、呪われた日から誰もが背を向けた。
そのたった二文字を、この死霊術師は——見ず知らずの男は——言った。
少女の体から力が抜けた。意識が落ちていく。恐怖からではない。安堵だ。半年ぶりの、安堵だった。
俺は崩れ落ちる少女を抱きとめた。
鎧越しでも痩せているのがわかる。骨と皮だけだ。鎧は重い。呪いの鎧は体に融合しかけていて、無理に外せば命に関わる。このまま運ぶしかない。
「リリス、テルミナに戻るぞ。この子を助ける」
「ぬしは本当に……お人好しじゃの」
リリスの声は呆れた響きだった。だが口元が笑っていた。共鳴で伝わる感情は——信頼。そして、微かな嫉妬。レイドの腕の中にいるのが自分ではないことへの、ほんの僅かな。
「何か言いたそうだな」
「別に何も。……ほれ、早く行くぞ。結界が保たなくなる前にな」
帰路は険しかった。
俺が少女を抱えている分、結界の維持に回せる力が減っている。呪気が少しずつ侵入してくるのがわかった。指先が痺れ始めている。
リリスが血の魔法で道を切り開いてくれた。呪いの魔獣が寄ってくるのを茨で追い払い、倒木を退かし、最短経路を作ってくれる。俺は少女を抱えて歩くことに専念した。
「重いか?」
「大丈夫だ」
「嘘じゃ。共鳴で腕が震えておるのがわかる」
「……大丈夫ってことにしといてくれ」
「仕方ないのう」
リリスが少女の足側に回り、支えてくれた。二人で運ぶ形になると、だいぶ楽になる。
森を抜け、街道に出た時、西の空が赤く染まっていた。夕焼けの光を浴びて、腕の中の少女の金色の髪が一瞬だけ輝いた。汚れの下にある、本来の色だ。
この子の魂も、同じ色をしていた。
「……急ごう。テルミナまであと少しだ」
腕の中で、少女が微かにうなされた。苦しそうに、だが——森の中にいた時よりも、ほんの少しだけ穏やかな寝顔だった。
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