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第8話「噂の死霊術師」

 墓地事件から数日が経った。

 テルミナでの生活は、思いのほか順調だった。亡霊退治をきっかけに、他の冒険者には手が出せない依頼が次々と舞い込んでくる。幽霊屋敷の調査、呪われたアイテムの浄化、霊障に悩む家族の相談。

 特に霊障の相談は多かった。テルミナは古い町で、地下に数百年分の墓地が重なっている。稀に死者の魂が彷徨い出て、夜中に物音を立てたり、子供に悪夢を見せたりするらしい。教会の司祭が祈祷しても効かないケースが、俺に回ってくる。

 魂鎮で鎮めるだけなので、俺にとっては大した作業じゃない。だが依頼人たちは涙を流して感謝してくれた。「亡くなったお爺ちゃんの魂が安らかになったのがわかった」と言う老婆の目を見た時は、少し胸が詰まった。

 Dランクからわずか数日でCランクに昇格した。異例の速度だとギルドの受付嬢が目を丸くしていた。

    ◇

「レイド、朝食はまだかえ?」

 宿屋の部屋。リリスがベッドの上で膝を抱え、こちらを見ている。銀髪が寝癖で少し跳ねていた。800年を棺の中で過ごした真祖の吸血鬼の寝起きは、案外子供っぽい。

「あんた吸血鬼だろ。人間の食事いるのか」

「いらぬ。栄養としてはいらぬ。じゃが——味がわかるのじゃ。800年ぶりに舌が動くと、何を食べても感動するのじゃ。ぬしにはわかるまい」

 800年ぶりの味覚。それは確かに、想像を超える感覚だろう。

 仕方なく、宿の台所を借りた。女将に断って、パンと卵と野菜のスープを作る。調味料は塩と胡椒しかないが、卵はしっかり火を通し、スープは野菜の甘みが出るまで煮込んだ。パーティにいた頃、料理当番はミレーヌだったが、夜番の時に自分で簡単なものを作ることは多かった。

 部屋に戻ると、リリスが目を輝かせた。

「おお……」

 スープを一口飲んだ瞬間、リリスの目が見開かれた。

「……美味い」

 小さな声だった。だが、共鳴を通じて伝わってきた感情は、「美味い」の一言には収まらなかった。温かさ。懐かしさ。そして——安堵。

 800年間、何も口にできなかった。温かいものに触れることもできなかった。棺の中の暗闘と孤独だけが、リリスの世界の全てだった。

 その800年の後に飲む、ただの野菜スープ。

 リリスは両手でカップを包み、しばらく何も言わなかった。

「ぬしは料理もできるのか。……800年分の朝食、全部作ってもらうからの」

「800年分って何食だよ……」

「冗談じゃ」

 リリスが微笑んだ。紅い瞳が柔らかく細められる。

「……半分でいい」

 半分でも146000食くらいあるが、突っ込むのはやめた。

 食後、リリスが窓辺で日向ぼっこをしている間に、洗い場で食器を片づけた。宿の女将が「あんた、マメだねえ。うちの旦那にも見習わせたいよ」と笑った。

 パーティにいた頃、洗い物はいつも俺の担当だった。ゼノンは当然やらない。ダリウスは論外。エリーゼは「聖女がやることじゃない」と微笑み、ミレーヌだけが時々手伝ってくれた。

 ——ミレーヌか。あの追放の日の、何も言わなかった顔を思い出す。

 首を振った。今は前だけ見ればいい。

 宿を出ると、通りで八百屋のおばさんに声をかけられた。

「ああ、あんたが噂の死霊術師かい! うちの裏庭の幽霊、ありがとうね。あれ以来ぐっすり眠れるようになったよ」

「お気遣いなく」

「これ持っていきな。今朝採れたばかりのトマトだよ」

 袋いっぱいのトマトを手渡される。断る間もなかった。

 その先でもパン屋の主人に呼び止められ、焼きたてのパンを押しつけられた。宿に戻る頃には、両手が食料で塞がっていた。

「……なんだこれ」

「ぬし、随分と好かれておるの」

 リリスが窓から顔を出して笑った。

「テルミナの人間たちは、ぬしのことを『噂の死霊術師』と呼んでおるぞ。わらわの耳にも聞こえてくる」

 噂の死霊術師。数日前は「死霊術師」と聞いただけで顔を引きつらせていた町の人々が、今はこうして食べ物を渡してくれる。

 こんなの、初めてだ。

    ◇

 ギルドに向かった。

 掲示板の依頼を確認していると、カウンターの近くで冒険者たちが噂話をしている。

「最近、各地で呪い関連の事件が増えてるらしいぜ。東の街道で隊商が丸ごと呪われたとか」

「北の方じゃ、村一つが呪いに飲まれたって話もある。住民が全員発狂して……」

「おいおい、飯時にやめろよ」

「それと、北東の森に近づくなって警告、見たか? 呪いの鎧を着た少女がいるって。近づいた冒険者が片っ端から呪いにかかってるんだと」

「Bランクの連中が三組行って、全員やられたらしい。ギルドも匙投げてる」

 北東の森——。

 掲示板から目を離し、そちらに意識を向けた。魂視を薄く展開する。

 聞こえた。昨夜と同じ魂の叫び。若い女性の魂が、呪いに蝕まれながら必死に耐えている。北東の方角。距離はかなりあるが、覚醒後の魂視はそこまで届く。

 叫びの中に、言葉があった。

 ——助けて。

 ——誰か。

 ——痛い。

「レイド、ちょっといいかい」

 オルガの声だった。振り返ると、ギルドマスターが奥の部屋の扉を開けて立っている。

 通された私室は簡素だった。壁に古い剣と弓が掛けられ、その横に色褪せた地図。机の上には依頼書の山と、使い込まれた茶器。

 オルガは椅子に座り、俺にも座るよう促してから、茶を淹れ始めた。急がない。この老婆は、話の切り出し方を心得ている。

「お前さん、Cランク昇格おめでとう。このペースなら年内にBランクも見えるね」

「ありがとうございます」

「——で、本題だ。北東の森の件、聞いたかい」

「掲示板に警告が出てた。呪いの鎧の少女」

「ああ」

 オルガは茶をすすり、目を伏せた。

「アイアンメイデン家の騎士姫だよ。名門貴族の長女だったんだが、家督争いに巻き込まれてね。叔父に呪いをかけられて、追放された」

 追放。その一語が、胸に刺さった。

「名門騎士家の姫がか」

「ああ。父親は病床で動けず、母親はとうに亡い。叔父が家督を握って、邪魔な姫を『呪われた子は家の恥』と追い出した」

 オルガの声に、静かな怒りが滲んでいた。

「教会にも宮廷魔術師にも匙を投げられた。呪いの構造が複雑すぎて、誰にも解けないそうだ。このままだと半年以内に死ぬ」

「……行きます」

 即答していた。

 オルガが目を丸くした。

「即答かい」

「はい」

「依頼として受けるなら報酬も出すが——正直に言うと、これは正式な依頼じゃない。誰も依頼していないんだ。呪われた少女を助けてくれなんて、身内すら言わなかった。あたしが個人的に気にかけていただけでね」

「報酬はなくていい。苦しんでる奴がいるなら、行かない理由がない」

 オルガはしばらく俺を見つめていた。それから椅子の背にもたれ、天井を見上げた。

「お前さん、お人好しだねえ。追放されてまだ日が浅いのに」

 それから、少し遠い目をした。

「あの子にそっくりだよ。50年前の、あたしのパーティの死霊術師にね。あの子もそうだった。困っている人がいると、報酬なんか気にせず飛んでいく子だった」

「……その人は、今は?」

 聞いてから、オルガの表情を見て、聞くべきではなかったと思った。

「——死んだよ。あたしの代わりにね」

 短い沈黙が落ちた。オルガは茶を飲み干し、立ち上がった。

「だから、お前さんには死んでほしくないんだ。気をつけて行きな。あの森の呪気は、Bランクの冒険者を三組潰すほどの濃度だ。油断すれば一瞬でやられる」

「わかってます」

「わかってないから即答するんだろうに」

 オルガが苦笑した。厳しさの中に温かさがある笑い方だった。

    ◇

 テルミナを出て、北東の森に向かった。

 日差しの中を歩きながら、リリスが言った。

「あの老婆、なかなかの人物じゃな」

「オルガのことか」

「うむ。50年前の死霊術師を、今も覚えておる。……死霊術師を忘れずにいてくれる人間は、貴重じゃ」

 リリスの声に、少しだけ寂しさが混じっていた。800年前のリリスを覚えている人間は、もうこの世にいない。

 森の入口が見えてきた。

 異変に気づいた。道の脇に人が倒れている。冒険者だ。革鎧を着た若い男で、全身に黒い紋様が浮かび上がっていた。呪いの痕だ。

「おい、大丈夫か」

 駆け寄って抱き起こす。冒険者は虫の息だった。唇が紫色になっている。

「近づくな……あの鎧の少女に……近づいたら……」

 魂視で冒険者の魂を見た。呪いが魂に寄生している。黒い蔦のようなものが魂に絡みついて、少しずつ養分を吸い取っている。

「……呪詛の寄生か。寄生型の呪いが鎧から放出されてるな」

 寄生型は厄介だ。物理的な治療では取り除けない。だが、魂に直接触れる魂魄支配なら——。

 呪いの蔦を一本ずつ、魂から引き剥がしていく。呪いは抵抗するが、墓地の亡霊より遥かに弱い。本体から切り離された残滓にすぎない。数分で処置が完了し、冒険者の顔色が戻った。紫色だった唇にも赤みが差す。

「……あ、れ。体が……楽に……」

「ギルドに戻って治療を受けろ。命に別状はないが、しばらく安静にしろ。走るなよ、魂が弱っている」

 冒険者が信じられないという顔で俺を見た。

「あんた、何者だ。呪いを外せる奴なんて初めて見た……王都の治療院でも無理だったのに」

「死霊術師だよ」

 冒険者が絶句した。だがその目に、恐怖はなかった。純粋な驚きと、感謝だけがあった。

「ありがとう……ございます……」

 冒険者がふらつきながら、テルミナの方角に歩いていった。

 俺は森の入口に立ち、奥を見つめた。木々の隙間から、微かに黒い霧が漂っているのが見える。瘴気ではない。呪気だ。

「レイド」

 リリスが隣に立った。共鳴を通じて不安が伝わってくる。

「危険じゃ。あの冒険者に寄生していた呪いの残滓だけで、あの濃度。本体に近づけば——」

「だからこそ、俺が行かなきゃいけない」

「……わかっておる。わかっておるが」

 リリスの感情がもう一つ伝わってきた。不安の奥にある、もっと強い何か。

 ——ぬしを失いたくない。

 言葉にはしなかった。だが、共鳴が全てを伝えていた。

「大丈夫だ。一人じゃないだろ」

 俺はリリスを見た。リリスが小さく笑った。

「……そうじゃな。わらわがおる」

 二人で、森に足を踏み入れた。

 奥から、あの叫びが聞こえる。助けて、と。


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