第7話「墓地の亡霊」
夕暮れ時のテルミナの墓地は、異様だった。
石造りの門をくぐった瞬間、空気が変わった。町の中は春の気配が漂っていたのに、墓地の中だけ冬に戻ったように冷たい。吐く息が白い。足元に紫色の霧が這い、墓石の輪郭がぼんやりと霞んでいる。
瘴気だ。死者の魂が暴走し、未練や怨嗟が凝縮して物質化したもの。濃度が高い。二ヶ月間放置された結果、墓地全体が瘴気に覆われている。一般人が踏み入れば、頭痛、吐き気、意識の混濁——最悪の場合、魂に障害が残る。
「……なかなかのものじゃの」
リリスが隣で呟いた。真祖の吸血鬼でも感じるほどの瘴気ということだ。
「魂視」
世界が切り替わった。
紫の霧の向こうに、青白い光の点が浮かび上がる。墓地全体に散らばる死者の魂。一つ、二つ——数えた。十二体。
大半は墓石の周辺を漂う下位亡霊だ。死後の未練が薄く、自分が死んだことすら理解できていない魂。危険度は低いが、数が多い。十体。
その中に一体、少し強い光がある。中位亡霊。自我が残っており、瘴気を意図的に放出している。
そして——墓地の中央。古い大きな墓標のあたりに、桁違いの光。
上位亡霊。いや、これは——怨霊だ。未練が強すぎて、百年以上も現世に留まり続けた魂。周囲の瘴気の大半はこの一体から放出されている。
「十二体。下位が十、中位が一、中心に怨霊が一体」
「手筈は?」
「下位は俺が一斉に鎮める。中位はリリスに拘束してもらって、その後俺が鎮魂。怨霊は——」
魂視で怨霊をもう一度見た。暴れ狂っているように見える。だが、その魂の動きには規則性があった。同じ軌道を繰り返している。暴走ではない。何かを訴えている。
「……少し、やり方を変える」
◇
墓地の門をくぐり、中に踏み込んだ。
瘴気が肌を刺す。冷たいだけじゃない。皮膚の下を這うような不快感。毛穴の一つ一つから、冷気が体内に入り込もうとしている。魂魄支配で自分とリリスに薄い防護を張った。
十体の下位亡霊が、一斉にこちらを向いた。
青白い顔。虚ろな目。口を開いて何かを叫んでいるが、普通の人間には声は聞こえない。
俺には聞こえる。
——苦しい。
——ここはどこだ。
——帰りたい。
——助けて。
死者たちの声だ。死んだことを理解できず、百年も前のこの場所で、ずっと同じ叫びを繰り返している。誰にも聞こえない声で。
魂魄支配を展開した。
両手を広げ、魂の波動を放つ。覚醒前の俺なら一体ずつしか鎮められなかった。だが今は違う。十体の魂に同時に触れ、一つずつ暴走を抑え、鎮めていく。
技術ではない。語りかけるのだ。
——もう大丈夫だ。お前たちは十分苦しんだ。もう休んでいい。
最初の一体が、光の粒子になって消えた。穏やかな光だった。次の一体。また一体。苦悶の表情が消え、安らかな顔になって、光になる。
数秒で、十体全てが還った。
墓地の瘴気が、一段薄くなった。
「——中位、来るぞ」
墓石の影から飛び出してきた。中位亡霊。下位とは比べものにならない速度で、俺に突進してくる。自我がある分、敵意も明確だ。
リリスが右手を振った。血の茨が地面から伸び、中位亡霊の体を絡め取った。半透明の体を茨が貫通し、動きを完全に封じる。
「はい、どうぞ」
俺が手を当て、鎮魂を施した。この魂にも語りかける。お前の未練は何だ。何が苦しい。——返ってきたのは、微かな安堵だった。「やっと、終わる」。
中位亡霊も光になって消えた。
残るは——中央の怨霊だけだ。
◇
大きな墓標の前に立った。
墓標は苔むして、刻まれた名前はほとんど読めない。だが魂視で見ると、墓標に残る魂の残滓が名前を教えてくれた。
——エルザ・ヴァイス。没年、百二年前。
怨霊が姿を現した。
白い服の女性。中年の、穏やかそうな顔立ちだったのだろう。だが今は苦悶に歪んでいる。口を開いて何かを叫んでいる。叫ぶたびに、周囲の瘴気が渦を巻き、墓石が震えた。瘴気の濃度が跳ね上がる。
だが、俺の魂視には別のものが見えていた。
この怨霊は——暴れているんじゃない。
「助けて」
そう叫んでいた。百年間、ずっと。誰にも聞こえない声で。誰にも届かない叫びで。百年間、同じ一言を繰り返し続けていた。
「リリス、下がっていてくれ」
「……危なくなったらすぐに言え」
「ああ」
怨霊に近づいた。瘴気が肌を刺す。防護を張っていても、圧力が違う。下位亡霊十体分の瘴気を一体で放出している。足が重い。一歩進むごとに、冷気が骨に染みる。
だが、止まらなかった。
「聞こえてるぞ」
怨霊の叫びが止まった。白い顔がこちらを向く。苦悶に歪んだ目が、俺を見ている。
「お前の声を聴ける人間が来た。話してくれ」
手を伸ばし、怨霊の手に触れた。
冷たかった。だが、魂は——温かかった。
魂魄支配を通じて、怨霊の記憶が流れ込んできた。
——百年前。この女性はテルミナの薬師だった。名前はエルザ。古い薬草の調合法を受け継ぎ、町の人々の病を治していた。流行り病がテルミナを襲った時、エルザは昼夜を問わず治療に奔走した。何十人もの命を救った。
だが、教会がエルザを告発した。「呪術を使って病を広めている」と。
無実だった。エルザが使っていたのは、祖母から受け継いだ古い薬草の調合法。呪術とは何の関係もない。だが教会は調査すらしなかった。「薬草の知識」が「呪術」と断じられ、エルザは処刑された。
町の人々は——誰も庇わなかった。教会に逆らえなかった。エルザが何十人もの命を救ったことを知っていたのに。
そしてエルザの記録——薬草の調合法を記した手帳が、彼女の棺の中に一緒に埋められた。無実の証拠ごと、土の下に封じられた。
百年間。エルザは叫び続けていた。
「私は無実だ」ではなかった。
「町の人を恨む」でもなかった。
叫んでいたのは——「手帳を見つけて。あの薬草の知識が失われてしまう。また流行り病が来た時、誰が人々を治すの」。
死んでなお、町の人を心配していた。
——胸が痛んだ。
「わかった」
俺は怨霊の手を握ったまま言った。
「お前は無実だ。そして、お前の手帳は必ず見つける。薬草の知識は失わせない。約束する」
エルザの顔から、苦悶が消えた。
百年ぶりに、穏やかな顔になった。皺の刻まれた優しい目が、俺を見ている。唇が動いた。声にならない声で。
——ありがとう。
——やっと、聞いてもらえた。
光になった。温かい、柔らかい光。下位亡霊の時とは違う。百年分の未練が、百年分の感謝に変わって、空に還っていく。
瘴気が嘘のように晴れた。紫色の霧が風に吹き散らされ、夕焼けの光が墓地に差し込んだ。墓石が橙色に照らされている。穏やかな光だった。
リリスが静かに隣に立った。
「……見事じゃ」
「大したことはしてない。聞いただけだ」
「聞くことが、大したことなのじゃ」
リリスの声に、いつもの軽さがなかった。
「ぬしは死者を倒す者ではない。死者の声を聴く者じゃ。800年生きて、そういう死霊術師に会ったのは——二人目じゃ」
一人目は、オルガのパーティにいたユーリだろうか。聞きたかったが、リリスの目があまりにも遠くを見ていたので、やめた。
◇
ギルドに戻って報告すると、カウンターの周りが騒然となった。
「亡霊案件を数時間で解決?」
「嘘だろ。二ヶ月間誰も手が出せなかったのに」
「瘴気が完全に消えてるって本当か?」
フィーナが受付カウンターで依頼書に「完了」の印を押しながら、信じられないという顔をしていた。「あの墓地、本当にもう大丈夫なんですか?」「ああ、大丈夫だ」。フィーナの目が輝いた。
奥からオルガが顔を出し、俺を見て、にやりと笑った。「言ったろう」とでも言いたげな顔だった。
その夜。宿近くの酒場で食事をしていると、見知らぬ町人が次々と俺たちのテーブルにやってきた。
「あんたが墓地を浄化してくれたのか? ありがとうよ。うちの婆さんの墓参りができなくて困ってたんだ」
「これ、畑で採れたやつだけど食ってくれ」
「死霊術師って……こんなことができるのか。知らなかった」
「うちの息子が夜中にうなされるんだ。今度見てもらえないか?」
パンや果物や漬物や酒が、次々とテーブルに並んでいく。断る隙もない。テーブルが食べ物で埋まった。
七年前のことを思い出した。
高級酒場『黄金の杯』。Sランクパーティの祝宴。金色のシャンデリアの下で、俺だけがカウンターの端に座っていた。隣の席に座っただけで客が離れていく。安い麦酒を一人で飲む。誰にも話しかけられない。七年間、ずっとそうだった。
今、目の前にあるのは——見ず知らずの町人たちが、感謝の気持ちで持ってきてくれた食べ物だ。高級料理じゃない。畑の野菜と、焼きたてのパンと、自家製の漬物。
その方が、ずっと温かかった。
「……こんなの、初めてだ」
思わず呟いていた。声が少し震えた。
「ぬしは、もっと感謝されていい人間じゃ」
リリスが向かいの席で杯を傾けながら言った。
「今日のぬしの戦い方、わらわは好きじゃ。怨霊を滅ぼすのではなく、声を聴いて救った。あれができる者は、800年前にもほとんどおらなかった。——ぬしの力は、人を殺すためではなく、人を救うためにあるのじゃ」
俺は何と返していいかわからず、差し入れのパンを齧った。温かかった。目の奥が少しだけ熱くなったが、気づかれないうちにパンで口元を隠した。
共鳴で全部バレているのだろうが、リリスは何も言わなかった。
◇
宿屋の部屋で横になった。心地よい疲れだ。今日は良い一日だった。
目を閉じかけた——その瞬間。
魂視が勝手に発動した。
遠い。テルミナからかなり離れた場所。北東の方角。
悲鳴が聞こえる。魂の叫びだ。
若い女性の魂。苦痛に満ちている。何かに——呪いに蝕まれている。全身を侵食される痛みに、歯を食いしばって耐えている。金色の魂が、黒い鎖に何重にも縛られて、それでも消えずに輝いている。
強い魂だった。並の人間なら、とっくに砕けている。
「……誰かが、苦しんでいる」
ベッドの上で身を起こした。
北東の方角。距離はわからない。だが、あの叫びは——本物だ。
今すぐ行くべきか。いや、夜中に一人で見知らぬ場所に向かうのは無謀だ。まず情報を集める。明日、ギルドで北東の方角について聞いてみよう。
だが——あの叫びは、明日まで待てるのか。
俺は窓の外を見た。星空が広がっている。あの星の下のどこかで、一人の少女が苦しんでいる。
眠れなかった。
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