第5話「契約の力」
目を覚ますと、朝だった。
昨夜は結局、地下迷宮の入口近くで野営した。焚き火はとうに消えている。向かい側の木の幹にもたれて、リリスが眠っていた。銀髪が朝露に濡れて光っている。
800年ぶりの眠りは、どんな夢を見るのだろう。
日の出が近い。東の空が薄く白んできた。
「リリス、起きろ。朝だ」
「……ん」
紅い瞳がゆっくりと開いた。リリスは数回瞬きをしてから、空を見上げた。地平線の向こうから朝日が顔を出す。黄金の光が森を照らし、リリスの銀髪が朝焼けに染まった。
リリスの目が細くなった。
「まぶしい……」
つい身構えた。吸血鬼に日光は毒だ。パーティにいた頃に読んだ魔物図鑑にもそう書いてあった。真祖なら影響はさらに大きいはず——
だが、リリスの肌は焼けていなかった。
「……じゃが、悪くない」
リリスが手を伸ばし、陽光を掌で受けた。眩しそうに、だが嬉しそうに。800年ぶりの朝日だ。
「日光が平気なのか」
「平気ではない。ほんの少し、肌がちりつく。じゃが、以前のように灼けて倒れることはないようじゃ。……おそらく、ぬしとの魂の契約の効果じゃの」
契約の効果か。昨夜、互いの魂を結んだあの術。どんな影響があるのか、正直まだよくわかっていない。
「歩きながら確かめよう」
野営を畳んで、街道に出た。南に向かって歩く。リリスに現代の世界情勢を簡単に説明しながら。
「エルドガルドの大陸は今は一つの王国が治めてる。王都はヴァルハイム」
「ヴァルハイム? 知らぬ名じゃの。800年前は七つの領邦が争っておった」
「教会の力が強くなって、統一を後押ししたらしい」
「教会か」
リリスの声が一瞬冷えた。800年前、彼女を封印したのが教会だ。当然の反応だろう。
「……まあよい。ぬしがおれば、教会くらいどうにでもなる」
「いや、どうにもしないでくれ。目立ちたくない」
「つまらぬ奴じゃの」
◇
歩きながら、魂の契約の効果を一つずつ確認していった。
まず、リリスの弱点の緩和。日光はさっき確認した通りだ。流水——街道沿いの小川を渡る時にリリスが怯んだが、俺が手を引いて一緒に渡ったら平気だった。距離が近いほど効果が強まるらしい。
「聖属性はどうじゃろうな。試すのは怖いが……」
「試さなくていい。聖属性の攻撃を受ける場面が来たら、俺が近くにいる」
「……ふん。頼もしいことを言う」
次に、俺側の変化。魂魄支配の精度が明らかに上がっている。昨日より遠くの魂が見えるし、細かい感情の揺れまで読み取れる。リリスの不死再生と連動しているのか、小枝で切った指の傷が、目に見える速度で塞がった。
「再生能力か。吸血鬼の力の一端がぬしにも移っておるな」
「便利だが、過信はできないな。たぶん微弱なものだろう」
「じゃが、毒耐性や呪い耐性もある程度は付与されておるはずじゃ。真祖の再生力は、ただの治癒とは格が違う」
そして——最も厄介な効果。共鳴。互いの感情が薄く伝わる。
街道を並んで歩いている時、ふとリリスを見た。朝の光の中で銀髪が揺れていて、横顔が——
「今、わらわのことを綺麗だと思ったじゃろ」
リリスがにやりと笑った。
「……感情が筒抜けか。厄介だな」
「厄介とは失礼じゃの。素直に綺麗と言えばよいものを」
「別に綺麗とは思ってない」
「嘘じゃ。共鳴で丸わかりなのじゃ、ぬし。嘘がつけぬ関係になったことを、まず受け入れるのじゃな」
リリスは楽しそうだった。俺の方は頭を抱えたくなった。今後ずっと、心の中を覗かれながら暮らすのか。
「安心せい。四六時中ではない。強い感情だけが伝わるのじゃ。日常の些末なことまではわからぬ」
「強い感情だけ、ね。それはそれで困るんだが」
「ふふ。では、なるべくわらわに強い感情を抱かぬよう気をつけることじゃな」
無理だろう。800年の封印を経てなお傍若無人なこの吸血鬼の隣にいて、何も感じないわけがない。
◇
昼過ぎ、街道の途中で人影が現れた。
五人組。武器を持った男たちが道を塞いでいる。革鎧に短剣、錆びた長剣、木の盾。装備の質から見てCランクからDランクの冒険者崩れだろう。
「おいおい、こんな辺鄙な道に男女二人連れか。通行料をいただこうか」
先頭の男が下卑た笑いを浮かべた。背の高い禿頭で、頬に切り傷がある。
魂視を使った。
五人の魂の色が浮かび上がる。先頭の禿頭は灰色。その隣の二人も灰色。良心の欠片もない。長年の悪事で魂が濁りきっている。四人目——小太りの男も灰色だが、やや薄い。
五人目。後ろで目を伏せている若い男。まだ二十歳にもなっていないだろう。この男だけ、魂の色が違った。薄い青色。仕方なくやっている色だ。罪悪感がある。
「リリス、三人は任せた。あと一人は俺がやる」
「残りの一人は?」
「放っておいていい」
リリスが不思議そうな顔をしたが、すぐに口元が弧を描いた。
「了解じゃ」
禿頭が何か叫ぶ前に、リリスが右手を振った。
血の魔法。リリスの指先から紅い茨が伸び、禿頭を含む三人の盗賊を一瞬で地面に縫い止めた。茨が手足に巻きつき、身動きが完全に封じられる。三人が悲鳴を上げたが、もう遅い。
「ば、化け物——!」
「化け物とは心外じゃの。わらわは麗しい吸血鬼じゃ」
四人目の小太りが俺に斬りかかってきた。
魂喚を試す。意識を集中し、空気中に漂う古い魂の欠片に呼びかける。
応えがあった。空気が揺らぎ、半透明の兵士の姿が一瞬だけ現れた。古代の鎧を着た戦士——地下迷宮に眠っていた魂の残像だ。残像が盾を構え、小太りの剣を弾く。金属音が響いた。
残像はすぐに消えた。まだ一瞬しか維持できない。だが、その隙で十分だ。体を低くして小太りの懐に入り、足を引っかけて倒す。うつ伏せに押さえつけ、腕を極めた。
「がっ——! やめ、折れる!」
「暴れなければ折らない」
Sランクパーティで七年間戦ってきた。Cランク程度の盗賊なら、術を使わなくても制圧できる。ただ、魂喚の感触を試しておきたかった。
結果はまずまずだ。一瞬だけなら呼び出せる。修練すればもっと持続できるようになるだろう。
五人目——薄い青の若い男——は、腰を抜かしてへたり込んでいた。顔面蒼白で、短剣を持つ手が震えている。
俺は小太りを縛り上げてから、若い男の前に歩み寄った。
「お前はここにいるべき人間じゃないだろ」
「……え」
「魂の色が違う。お前だけ、仕方なくやっている色をしてる」
若い男の目が見開かれた。
「借金か、脅されたか。事情は知らない。だが、まだ戻れるうちに戻れ。このまま続けたら、魂の色が変わる。灰色になったら、もう戻れない」
若い男はしばらく固まっていた。それから、目に涙を溜めて、何度も頷いた。
「あ、ありがとうございます……すみません、すみません……」
走り去っていく背中を見送った。
「ぬし」
リリスが隣に立った。共鳴を通じて、感情が伝わってくる。感心でもなく、呆れでもなく——温かい何か。
「善悪を見分けるだけではなく、善の側を救おうとするのじゃな」
「大したことじゃない。見えたものに従っただけだ」
「それが大したことなのじゃ。見えても見ぬふりをする者の方が、遥かに多い」
◇
盗賊を縛り上げて街道脇に転がし、先を急いだ。
日が傾き始めた頃、リリスが突然足を止めた。
「レイド」
「どうした」
「腹が減った」
「……吸血鬼って腹減るのか」
「吸血鬼も食事は楽しめる。800年ぶりに体を動かしておるのじゃ。何か食わせろ」
「干し肉しかないが」
「それでよい。いや、よくない。温かいものが食べたい。町はまだか」
苦笑した。「もう少しだ。町で何か食おう」
丘の上に出た時、眼下に小さな町が見えた。石造りの壁に囲まれた、こじんまりとした集落。畑が広がり、煙突から煙が上がっている。壁は古いが手入れされていて、門の前には花が植えられていた。
「テルミナ、か」
辺境の町。王都からは街道で何日もかかる。冒険者の数も少ないだろう。死霊術師を知る人間も少ないかもしれない。——そう期待したい。
「小さな町じゃの」
リリスが呟いた。夕日を浴びて、町が橙色に染まっている。
「じゃが……温かそうじゃ」
「ああ。ここで新しく始めるか」
丘を下り、テルミナの門にたどり着いた。門番の兵士が近づいてくる。初老の男で、穏やかそうな顔をしていた。
「冒険者かい? 登録証を見せてくれ」
「冒険者登録はまだだ。これからギルドに行く」
「なら天職を教えてくれ。記録に残す決まりでね」
門番が書板を構えた。ペンを持つ手が、穏やかな笑顔のまま止まっている。
隣のリリスの感情が伝わってきた。怒りではない。静かな、だが確かな意志。「わらわがおるぞ」という気配。
俺は門番をまっすぐ見つめた。
「……死霊術師だ」
門番のペンが止まった。笑顔が消え、顔色が変わる。
「死霊術師……?」
ああ、また、この反応か。十五歳からずっと見てきた顔だ。恐怖と嫌悪が混じった、あの表情。
だが今日は、一人じゃない。
「死霊術師だ。入れてもらえるか」
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