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第4話「真祖の吸血鬼」

 棺がゆっくりと開いた。

 石の蓋が音を立てて横にずれる。中から漏れ出したのは、濃密な魔力の気配だった。空気が重くなる。肌がぴりぴりと痺れる。覚醒したばかりの魂視が、棺の中の存在を捉えた。

 赤黒い光を放つ魂。凄まじい密度。真祖の吸血鬼の魂は、これまで見たどんな魂とも格が違った。衰弱しているはずなのに、俺の全身を圧するほどの存在感がある。

 中から現れたのは、女性だった。

 銀色の長い髪が棺の縁からこぼれ落ちる。絹のような光沢を帯びた髪が、祭壇の青白い光を受けて輝いていた。閉じたまぶたが震え——やがて紅い瞳が開いた。

 深い紅色だった。ルビーよりも暗く、血よりも鮮やかな、見たことのない色。

 肌は月光のように白く、纏っているのは古風な黒いドレス。何百年も前の意匠だが、不思議と古びて見えない。年のころは俺と同じか、少し上くらいに見える。

 美しかった。場違いなほどに。800年もの間、この暗い地下で封印されていたとは思えない気品がある。

 だが魂視で見ると、体を巡る魂の流れは弱々しかった。赤黒い光の中に、無数の鎖が巻きついている。封印だ。力の大部分を奪われ、目覚めるだけで精一杯という状態。

「……人間?」

 女性がゆっくりと身を起こし、俺を見た。紅い瞳が、暗がりの中で俺を正確に捉えている。

「人間がここに? どうやって封印を……」

「俺は死霊術師だ。レイド・ノクターン」

 名乗ると、紅い目が見開かれた。

「死霊術師……? まだ、この世にいたのか」

 「まだ」。その一語に、800年の重みがあった。

 女性は棺の縁に手をかけ、立ち上がろうとした。だが足がもつれ、体が前に傾ぐ。800年分の衰弱だ。

 俺は咄嗟に手を伸ばして支えた。腕の中に倒れ込んできた体は、驚くほど軽かった。

「大丈夫か」

「……触れるな」

 か細いが、はっきりとした声だった。

「わらわは真祖の吸血鬼じゃ。血薔薇の女王リリス・ブラッドローゼ。人間が気安く触れてよい存在ではない」

 真祖の吸血鬼。教会が「最も忌まわしき魔族の長」と呼ぶ存在。本来なら腰を抜かすか、逃げ出すか、剣を抜くかのどれかだろう。Sランクパーティにいた頃、エリーゼが「真祖と出会ったら、戦わず逃げなさい。勝てる人間はいない」と言っていたのを思い出す。

 だが——魂視で見えるのは、怪物ではなかった。

 800年分の孤独と疲弊に蝕まれた、一人の女性の魂だった。

「800年か」

 俺はそう言って、背負い袋から干し肉とパンを取り出した。

「腹、減ってないか?」

 リリスが絶句した。

 紅い瞳が何度か瞬いた。俺とパンを交互に見ている。口が開いて、閉じて、また開いた。

「……何を言っておるのじゃ、ぬしは」

「800年も寝てたら腹が減るだろ。吸血鬼が人間の食事を食えるかは知らないけど」

「わらわは吸血鬼じゃぞ? 化け物じゃぞ? 怖くないのか?」

「まあ、正直ちょっとは驚いてる。でも腹が減ってる相手にまずやることは、飯を出すことだろ」

 リリスは呆然と俺を見つめていた。

    ◇

 リリスには、この男の反応が信じられなかった。

 800年前の記憶が、唐突にフラッシュバックした。

 あの日。人間たちとの同盟が裏切りに変わった日。共に魔王と戦った仲間だったはずの者たちが、戦いが終わった途端に牙を剥いた。

 ——化け物め。

 ——もう用はない。

 ——悪鬼め。人の姿をした災いめ。

 教会の聖騎士たちが四方から迫り、鎖を持った司祭たちが詠唱を始めた。リリスは戦おうとした。だが——背後から剣を突き立てたのは、リリスが最も信頼していた人間の将軍だった。

 ——すまない、リリス。教会には逆らえないのだ。

 その一言を最後に、七重の封印が体に刻まれた。意識はあるのに体が動かない。声が出ない。見えるのは棺の蓋の裏側だけ。

 暗闇。冷たい石。沈黙。

 最初の100年は怒りで過ごした。次の100年は悲しみで。その次の100年は虚無で。残りの500年は——何も感じなくなった。感じないことだけが、800年を耐える方法だった。

 だからこそ、目の前の光景が理解できなかった。

 この男——レイドと名乗った死霊術師——は、棺を開けた時、リリスの魂に触れたはずだ。真祖の吸血鬼の魂。人間であれば本能的に恐怖するもの。800年前、最も勇敢な戦士ですら、リリスの魂に触れれば顔色を変えた。

 なのに、この男の目には恐れがない。

 それどころか——心配している。パンを差し出している。800年ぶりに聞いた人間の言葉が「腹、減ってないか」だ。

 ……なんじゃ、この男は。

 差し出されたパンを受け取った。吸血鬼に人間の食事は必要ない。栄養にはならない。

 だが——手のひらに伝わる温かさ。

 800年ぶりの「温かいもの」の感触だった。

 石の棺の中には、温かいものは何もなかった。冷たい石と、暗闇と、自分の意識だけ。800年間、何にも触れられなかった手のひらに、焼きたてではないパンの残り香が染み込んでくる。

 目の奥が、熱くなった。

「食えないなら、持ってるだけでもいい。温かいだろ」

 レイドはそう言って、自分は干し肉を齧り始めた。何でもないことのように。当たり前のことのように。

 リリスは小さく笑った。

 800年間で、初めて笑った。

    ◇

「それで、だ」

 俺はリリスの隣に腰を下ろしながら切り出した。

「あんたの封印、まだ完全には解けてないだろ。魂視で見ると、魂に鎖みたいなものが何重にも巻きついてる」

「よく見えるのう。……そうじゃ。わらわの魂には七つの封印が刻まれておる。ぬしが棺の封印を解いたことで目覚めはしたが、力はほとんど戻っておらぬ。全盛期の一割も出せぬ」

「解けるのか?」

「魂に直接触れ、鎖を外せる者がおれば。——じゃが、そんなことができるのは」

「死霊術師だけ、か」

 リリスが頷いた。

「魂の契約という術式がある。死霊術師と吸血鬼が魂を結び、封印を内側から解除する古代の方法じゃ。じゃが、契約した者同士は魂が繋がる。互いの感情が伝わり、嘘がつけなくなる。……それでも、やるのか?」

「やる」

 即答した。

「……理由を聞いてもよいか?」

「800年も一人でいたんだろ。それだけで十分な理由だ」

 リリスがまた、あの信じられないという顔をした。怒りでも恐れでもなく、純粋な困惑。自分に優しくされることに、慣れていない顔だった。

 向き合って、互いの手を重ねた。リリスの手は冷たかった。800年分の冷気が指先に残っている。

 魂魄支配を展開する。リリスの魂に触れ、封印の鎖を一本ずつ外していく。覚醒したばかりの力で、繊細な作業だ。力を入れすぎれば魂が傷つく。慎重に、丁寧に、鎖の結び目を探して解いていく。

 最初の鎖が外れた瞬間——互いの感情が、流れ込んできた。

 リリスの800年が、俺の中に雪崩れ込む。

 暗い。暗い。暗い。石の蓋の裏側だけが世界の全て。叫んでも声が出ない。泣いても涙が出ない。100年が経ち、200年が経ち、誰も来ない。自分が忘れられたことを悟る。300年目に怒りが消え、400年目に悲しみが消え、500年目に何も感じなくなる。何も感じないことだけが救いになる。だが——時折、石の隙間から風の匂いがする。地上の匂いだ。花の匂い。雨の匂い。それを嗅ぐたびに、消したはずの感情が蘇る。外に出たい。誰かに会いたい。温かいものに触れたい。

 同時に、俺の記憶もリリスに流れていた。

 十五歳の成人儀式。母親が口を覆った日。村を追われた半年間。ゼノンに拾われた嬉しさ。エリーゼの「影にいて」。ダリウスの「足手まとい」。Aランクダンジョンで鼻血を流しながら魂を鎮め続けた夜。誰にも気づかれなかった七年間。そして——「死霊術師はいらない」。

 涙が出た。

 リリスの目にも、涙が浮かんでいた。800年ぶりの涙だ。

「……ぬしも、ずっと一人だったのじゃな」

「お互い様だな」

 俺は笑った。泣きながら笑った。七年と八百年。比べ物にならないが、孤独の痛みに大小はないと、今ならわかる。

 封印は七つのうち、一つだけ外れた。リリスの力がわずかに戻り、銀の髪が風もないのに微かに揺れた。紅い瞳の色が、ほんの少しだけ深くなった。

「全部外すには時間がかかる。少しずつやっていこう」

「……ああ。急がぬでよい」

 リリスが俺の手を握った。細い指に、思ったより力がこもっていた。冷たかった指先が、少しだけ温かくなっている。

「レイド。わらわを地上に連れて行ってくれぬか。800年ぶりの星空が……見たい」

    ◇

 地下迷宮の階段を登り、地上に出た。

 夜空が広がっていた。

 リリスが空を見上げた瞬間、足が止まった。

 無数の星が瞬いている。天の川が白い帯になって空を横切り、月が森の向こうに浮かんでいる。800年前と同じ星空。何も変わっていない。世界はリリスを忘れても、星だけは変わらずにここにあった。

「……綺麗じゃのう」

 リリスの声が震えていた。

「この星は、800年経っても変わらぬのじゃな」

「ああ。俺も昨日、久しぶりにゆっくり見たよ」

 昨夜——追放された二日目の夜に見上げた星空と、同じ星だ。あの時は一人だった。今は隣に、誰かがいる。

 それだけで、同じ星がこんなにも違って見えた。

 リリスが隣で、長い息を吐いた。800年分の息を吐き出すように。それから、小さく呟いた。

「……ぬしに会えてよかった」

 聞こえないほど小さな声だったが、魂の共鳴が全てを伝えていた。


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