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第3話「封印の地下迷宮」

 青白い光は、森の奥から漏れていた。

 まともな判断なら無視して寝直すところだ。夜の森に一人で入るなんて、冒険者としては下の下。

 だが、左手が止まらない。脈動は心臓の鼓動とは別のリズムで、体の芯から突き上げてくる。痛みではない。引力だ。あの光の方角に向かって、魂そのものが引っ張られている。

 七年間パーティにいた経験上、この手の直感を無視するとろくなことにならない。

 焚き火を消し、外套を羽織り直して、森に足を踏み入れた。

 暗い。月明かりが木の葉に遮られ、三歩先が見えない。足元の枯れ枝を踏むたびに乾いた音が響き、それ以外は沈黙だった。鳥も虫も鳴いていない。森全体が息を潜めているような静けさだ。

 だが不思議と、迷う気配はなかった。左手の脈動が道案内をしている。右に曲がれ。この木の根を跨げ。あの倒木の左を抜けろ。声ではなく感覚として、進むべき方向だけがはっきりとわかった。

 獣道を辿ること数分。

 木々が唐突に途切れ、開けた場所に出た。月光が差し込んでいる。円形の空き地の中央に、人の背丈ほどの石碑が立っていた。苔むし、蔦に半ば覆われた古い石。表面に文字が刻まれている。

 見たことのない書体だった。なろうの共通語でも、古代エルドガルド語でもない。もっと古い。数千年以上前のものだろう。

 読めないはずの文字が——読めた。

 魂魄支配が自動的に反応し、古代文字の意味が頭に流れ込んでくる。文字を解読しているのではない。石碑に刻まれた「意志」を、魂越しに受け取っている。こんなことは初めてだ。

 ——「ここに眠るは世界の理。魂を統べる者のみ、門を開く資格あり」

 魂を統べる者。死霊術師のことか。

 石碑に手を触れた。

 瞬間、地面が震えた。足元の土が左右に裂け、石造りの階段が姿を現す。一段一段が滑らかに削り出されていて、数千年前のものとは思えないほど綺麗だった。階段の壁面が、あの青白い光で淡く照らされている。

 地下へ続く道。

「……行くしかないな」

 階段を降りる。十段、二十段、三十段。空気が変わった。地上の湿った森の匂いが消え、乾いた石と古い魔力の気配に変わる。温度も違う。冷たいのではなく、一定の温度に保たれている。生きている建物だ。

 地下迷宮だった。

 通路は人が三人並んで歩けるほど広く、天井も高い。何千年も前に造られたものだろうに、崩落の気配はなく、壁に嵌め込まれた青白い石が自動的に灯る。俺が近づくと点き、通り過ぎると消える。来訪者を導くように設計されている。

 壁面には壁画が連なっていた。

    ◇

 最初の壁画で、足が止まった。

 描かれていたのは一人の人間だった。黒い外套を纏い、片手を掲げている。その周囲に、人々が並んでいる。生者と——死者が。生きている人間と、半透明の魂が、区別なく共に立っている。

 ——死霊術師だ。

 だが、壁画の中の死霊術師は、禁忌の罪人ではなかった。

 民衆に囲まれている。手を取られ、花を捧げられ、先頭に立って何かと戦っている。笑っている。生者に感謝され、死者に慕われている。

 英雄として描かれている。

 次の壁画。死霊術師が巨大な闇の存在に立ち向かっている。魔王だろうか。その背後に、生者の軍勢と死者の軍勢が共に剣を掲げている。生と死の境界を超えた同盟。それを束ねているのが、死霊術師だった。

 三枚目。死霊術師が倒れている。戦いの後だ。周囲の人々——生者も死者も——が涙を流している。英雄の死を悼む図。死霊術師の手には、薔薇が一輪握られていた。

「……死霊術師が、英雄」

 呟いた声が、通路に反響した。

 教会は死霊術師を禁忌の天職と定めている。死者を弄ぶ忌まわしい術だと。民衆もそう信じている。俺自身、そう教わって育った。十五歳の成人儀式で天職が発現した日から、ずっと「お前は不吉だ」「気味が悪い」「出て行け」と言われ続けてきた。

 なのにこの壁画では、死霊術師は世界を救った存在として祀られている。

 壁画に手を触れた。石は冷たい。だが、魂魄支配を通じて——温もりが伝わってきた。微かな、だが確かな温もり。何千年も前にこの壁画を描いた人間の感情が、石に染み込んでいる。

 感謝だった。

 死霊術師への、純粋な感謝。「あの人のおかげで、世界は救われた」という祈りの残滓。

 ——七年間、一度も感じたことのない感情だ。

 俺の天職を、「ありがとう」と思ってくれた人間が、かつてこの世界にいた。何千年も前に。教会がその歴史を封じてしまう前に。

 どちらが本当だ。教会の教えか、この壁画か。

 答えは出ない。だが——壁画の石に触れた手を、離したくなかった。少なくともこの場所を造った人間たちは、死霊術師を恐れてはいなかった。それだけで、胸の奥にある七年分の棘が、一本だけ抜けた気がした。

    ◇

 通路はやがて広い空間に出た。

 最深部の祭壇。円形の部屋の天井は高く、壁面全体に星空の壁画が描かれている。中央に台座があり、その上に拳大の水晶球が置かれていた。水晶球が青白い光の源だ。部屋全体を照らし、脈動するように明滅している。

 左手の脈動が、もはや痛みに近い。魂魄支配が限界まで共鳴している。体が震える。水晶球が俺を呼んでいる。いや、水晶球に封じられた「何か」が、俺を認識している。

 手を伸ばした。

 指先が水晶球に触れた瞬間——全身に激痛が走った。

「がっ——!?」

 膝をつく。視界が白く弾けた。頭の中に膨大な情報が流れ込んでくる。文字ではない。映像でもない。もっと直接的な、魂そのものに焼き印を押されるような感覚。

 名前が浮かぶ。

 魂視ソウルサイト——生者・死者を問わず、魂の本質を視る力。嘘も、隠された感情も、秘められた才能の真の評価も、全てが可視化される。

 魂鎮ソウルレスト——暴走する魂を鎮め、安らかに還す力。今まで七年間、無意識に、名前も知らずにやっていたことだ。ゼノンの聖剣で倒した魔物が蘇らなかったのも、ダリウスが悪夢を見なかったのも、全部これだった。ようやく名前がついた。

 魂喚ソウルコール——死者の魂を一時的に呼び覚まし、力を借りる力。これはまだ輪郭だけだ。名前と概念はわかるが、使いこなすには修練がいる。

 痛みが引いていく。額の汗を拭い、荒い息をつきながら立ち上がった。

 ——世界が、違って見えた。

 祭壇の石。一つ一つに微かな魂の残滓が宿っている。何千年も前にこの石を積んだ職人たちの魂の欠片。壁画に込められた祈りが、青白い光の粒になって壁面を漂っている。空気中にも気配がある。この迷宮で息を引き取った何者かの——穏やかな、見守るような存在感。

 今まで暗闇だった世界が、魂の光で満ちている。見えなかったものが、見える。

 七年間、俺は目を閉じたまま剣を振っていたようなものだ。手探りで、誰に教わることもなく、独学で。

 ようやく目が開いた。

「すごいな……」

 自分の手を見た。指先まで魂の力が行き渡っているのが見える。右手と左手で、少しだけ色が違う。右手は鎮魂の力が強く、左手は召喚に適している。こんなことまでわかる。

 足元が揺れた。

 覚醒の余波だ。水晶球から放たれた力の波が祭壇全体に広がり、奥の壁にひびが入った。封印の紋様が描かれた壁が、音を立てて崩れていく。

 壁が崩れ落ちた先に、もう一つの空間があった。

 暗い。だが、魂視には見える。

 巨大な棺が、宙に浮いていた。

 黒い石で造られた棺。蓋に精緻な紋章が刻まれている。薔薇と月。壁画にも描かれていた紋章だ。吸血鬼の王家の紋章。

 棺の中に——魂がいた。魂視で見える。途方もなく強く、途方もなく古い魂。赤黒い光を放っている。800年分の孤独と怒りが渦を巻いて、それでもなお消えていない。

 生きている。この中の存在は、800年間、眠りながら生き続けている。

 棺から、声が聞こえた。

「……誰か、いるの……?」

 かすれた声。女の声だ。途方もなく長い時間を眠っていたような、掠れた響き。

「800年ぶりに……人の気配がする……」

 800年。

 俺は棺の前に立ち、息を呑んだ。


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