第18話「迫る影」
数日後の夜。
宿屋の屋上に出ると、リリスが先にいた。
石の手すりに腰かけて、夜空を見上げている。銀髪が夜風に揺れていた。月明かりに照らされた横顔は、息を呑むほど綺麗だった——が、共鳴で伝わってくる感情は、穏やかではなかった。
物思いに沈んでいる。
「……眠れないのか?」
声をかけると、リリスが振り向いた。
「ぬしこそ。最近、夜ごと屋上に来ておるじゃろう」
「いろいろ考えてた。冥府の門のこと、教会のこと、シャルロットの呪い。それに——」
「それに?」
「リリスのこと」
リリスが目を瞬いた。
「わらわのこと?」
「オルガの話を聞いてから、気になっていた。教会がユーリを——50年前の死霊術師を殺したこと。そして800年前、教会がリリスを封印したこと。同じ教会が、二度も死霊術師と吸血鬼を潰している」
「……ああ」
リリスの表情が少し翳った。
「ぬしは一人で抱え込みすぎじゃ。冥府の門も、教会も、シャルロットの治療も——全部ぬし一人の肩に載せようとしておる。わらわにも頼ってよいのじゃぞ」
「頼ってるよ。毎日」
「戦闘ではの。じゃが、心の中は違うじゃろう」
鋭い。共鳴で全部伝わっているのだから、当然といえば当然だが。
リリスが手すりから降り、俺の隣に座った。肩が触れる距離。
「のう、レイド。一つ、聞いてくれぬか。わらわの昔の話を」
「……ああ」
「800年前の——封印される前の話じゃ」
◇
リリスは静かに語り始めた。
「わらわは真祖の吸血鬼として生まれた。生まれたというより——気がついたらそうなっておった。人間の記憶はない。最初の記憶は、月の光の中で目を覚ましたことじゃ」
月の光の中で目覚めた。それが、リリスの最初の記憶。
「吸血鬼の本能は、人間の血を求める。じゃが——わらわは、それに従いたくなかった」
「どうして」
「理由はわからぬ。ただ、人間を見ていると——面白かったのじゃ。畑を耕し、家を建て、子を育て、祭りで踊る。短い命を、全力で生きておる。それが、眩しかった」
リリスの目が遠くなった。800年前の景色を見ている。
「わらわは人間を襲わない道を選んだ。血は魔獣のもので代用した。人間の村の近くに住み、少しずつ交流を始めた。病人の治療を手伝い、魔獣から村を守った。楽しかったのじゃ。本当に」
声に温もりが混じった。
「そうして百年ほど暮らしておった頃——魔王が現れた」
「魔王」
「世界を滅ぼしかねない存在じゃ。人間だけでは抗えなかった。わらわは——人間の側に立って戦うことを選んだ。人間の将軍たちと同盟を組み、共に魔王に立ち向かった」
リリスの拳が握られた。
「戦いは長かった。じゃが、最後にはわらわたちが勝った。魔王を倒し、世界は救われた。——そこまでは、よかった」
「……その後か」
「ああ。戦いが終わった途端に、教会が動いた。『吸血鬼が魔王を倒したのではない。人間の信仰の力が魔王を打ち倒したのだ』と宣言した。そしてわらわを——『魔王の残党』と断じた」
リリスの声が冷えた。
「共に戦った仲間だったはずの者たちが、手のひらを返した。わらわが最も信頼しておった人間の将軍——あの男が、背後からわらわに剣を突き立てた」
魂の契約の時に、断片的に流れ込んできた記憶。あの時は映像だけだった。今、リリスの口から語られると、その重みが違った。
「将軍は言った。『すまない、リリス。教会には逆らえないのだ』と。——すまない、で百年の信頼を裏切るのじゃから、人間とはよくできた生き物じゃ」
皮肉を言いながら、リリスの目は笑っていなかった。
「七つの封印が刻まれ、わらわは棺に閉じ込められた。じゃが——封印の直前に、一人だけ、わらわの側に立ってくれた人間がおった」
リリスの声が、一段低くなった。大事なことを話す時の声だ。
「死霊術師じゃ。名前は——覚えておる。ルシア。若い娘だった。教会に追われていたわらわを匿い、封印の術式に干渉して、わらわの魂だけは守ってくれた」
「魂を守る——」
「封印は体を縛り、力を奪う。じゃが、ルシアがわらわの魂に保護の術をかけてくれたおかげで、わらわは800年間、魂を保つことができた。あの子がいなければ、わらわの魂はとうに消えておった」
「その死霊術師は——」
「死んだ」
短い一言だった。
「教会の聖騎士に殺された。わらわの棺の前で。最期に——笑って言ったのじゃ」
リリスの目に涙が浮かんだ。800年前の涙だ。
「『リリスさん、大丈夫ですよ。いつか必ず、あなたを起こしてくれる人が来ます。だから——安心して眠ってください』」
夜風が止んだ。
「……800年間、その言葉だけを握りしめて眠っておった。そして——ぬしが来た」
リリスが俺を見た。紅い瞳に、月光と涙が光っている。
「ルシアの言った通りじゃった。800年後に、本当に来てくれた」
「……その死霊術師が、俺を導いたのかもしれないな」
「かもしれぬ。いや——きっとそうじゃ」
リリスが小さく笑った。泣きながら笑うのは、魂の契約の日と同じだった。
◇
しばらく、二人で黙って星を見ていた。
風が冷たい。だが隣のリリスの体温は——人間より低いはずなのに——不思議と温かかった。共鳴を通じて、互いの感情が流れている。言葉にしなくても、伝わっている。
「レイド」
「ん」
「ぬしはわらわの二度目の命じゃ」
声は静かだった。だが、込められた感情は深かった。
「800年前にルシアがわらわの魂を守ってくれた。それが一度目。そしてぬしがわらわを棺から出してくれた。それが二度目。——だから、絶対に、ぬしを失いたくない」
「俺もだ」
即答した。
「リリスも、シャルロットも、これから出会う仲間も。もう誰も失いたくない」
リリスが——そっと、俺の肩に頭を預けた。
銀髪が肩にかかる。甘い香りがした。吸血鬼の体温は人間より低いはずなのに、触れた部分が温かい。共鳴が感情を伝えている。安心。信頼。そして——もっと深い、名前のつけにくい何か。
「……こうしていると、800年の孤独が嘘のようじゃ」
「俺は7年だけど……同感だ」
リリスが小さく笑った。「7年と800年を同列に語るでない」
「孤独に大小はないって、前に言ったろ」
「……そうじゃったの」
肩に預けた頭が、少しだけ重くなった。リリスの呼吸が穏やかになっている。眠りかけているのかもしれない。800年間まともに眠れなかった真祖の吸血鬼が、俺の肩の上で安心して眠ろうとしている。
起こすわけにはいかない。このまま、しばらく。
星空を見上げた。今夜の星は、格別に綺麗だった。
◇
夜が白み始めた頃。
リリスはいつの間にか目を覚まし、部屋に戻っていた。「肩を借りたこと、シャルロットには言うでないぞ」と耳まで赤くして去っていった。800年の威厳はどこに行ったのか。
俺は一人で屋上に残り、朝焼けを見ていた。東の空が紫から橙に変わっていく。
——その時。
魂視が反応した。
南の方角。テルミナに向かって、複数の魂が移動している。
数は——十。いや、十五以上。隊列を組んで移動している。規律正しい動き。軍隊か、それに準ずる組織。
魂の色が見えた。灰色だった。
灰色は良心の欠如を示す色ではない。あれは「使命」の色だ。自分の意志ではなく、組織の命令で動いている者たちの魂の色。個人の感情を押し殺し、任務だけを遂行する——そういう人間の魂が、灰色になる。
教会の使者たち。
「……来たか」
オルガの警告が現実になった。教会がテルミナに調査団を送ってきた。
急いで階段を降り、リリスとシャルロットを起こした。
「教会の連中がテルミナに向かっている。十五人以上の隊列だ」
シャルロットの顔が強張った。「教会が……」
リリスの目が冷たく光った。「800年前と同じじゃな」
「二人とも落ち着け。まだ敵と決まったわけじゃない。調査と言っている以上、いきなり武力行使はしないだろう。だが——備えは必要だ」
三人でギルドに向かった。朝の通りはまだ人が少ない。だが、門の方角から馬蹄の音が聞こえてきていた。
◇
テルミナの南門に着いた時、教会の一団は既に門前にいた。
白い法衣を纏った者が五人。その後ろに、銀色の鎧を着た兵士が十人。聖騎士だ。槍と盾を携え、整列している。朝の光を受けて、白と銀の一団が眩しいほどに輝いていた。
先頭に立つのは、四十代と思しき男。白い法衣に金の縁取り。上位の司祭だ。顔は穏やかだが、目が笑っていない。王都でゼノンたちの宿を訪れたような下っ端の使者ではない。もっと上の立場の者だ。
門番が困り果てた顔で立っている。
その前に——オルガが立っていた。
杖をついた小さな老婆が、聖騎士十人と司祭五人の前に一人で立ちはだかっている。背筋はまっすぐ伸びていた。
「ここに死霊術師がいると聞いた」
司祭が言った。穏やかな声だが、反論を許さない響きがある。
「禁忌の術を使う者を野放しにはできません。教会の権限において、調査を行います」
オルガが杖で地面を叩いた。
「うちの冒険者に何の用だい」
司祭の眉が僅かに動いた。
「ギルドマスター殿。これは教会の管轄です。冒険者ギルドが口を出す案件ではありません」
「あたしの町で、あたしのギルドの冒険者に手を出そうって言うなら——それはあたしの案件だよ」
オルガの声は低かった。だが、聖騎士十人を相手にして、微塵も退いていなかった。
朝の光の中で、二つの勢力が門前で向き合っている。
俺はオルガの背後に立った。リリスが右に、シャルロットが左に並ぶ。
司祭の目が、俺を捉えた。
「……あなたが、死霊術師レイド・ノクターンですか」
「ああ」
「教会は、あなたと話がしたい。——協力的に対応していただけることを、願っています」
穏やかな言葉の裏に、鉄の棘が隠れていた。
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