第9話 噂はパンより早い
別邸の朝は、音が柔らかい。窓の外で鳥が鳴き、風が葉を揺らし、廊下の床が小さくギシッと返事をする。王都の朝みたいに、誰かの視線が先に起きてこない。
だから、油断しそうになる。
けれど噂は、油断したところへ滑り込んでくる。扉の隙間からでも入ってくる。空気みたいに。
私は居間の机に置いた封を見て、息をひとつ吸って吐いた。
吸って、吐く。
こわいのは、ここでおしまい。
合言葉を心の中で転がしてから、立ち上がる。
「……町へ行きましょう」
ノエルが顔を上げた。すぐ理解する目。
「買い出しですね」
「ええ。食材と日用品と」
それから、言いにくい本音をひとつ。
「……顔も出したい」
引っ込んでいると、噂の中だけで私が生きる。噂の私は勝手に泣いたり怒ったり、勝手に悪役になったりする。
それは、娘の部屋に“怖いもの”を持ち込むのと同じだ。
ノエルは頷いた。
「導線を作ります。人が多い時間帯を避けますか」
「ううん。今日は、あえて人のいるところへ」
逃げない。戦わない。生活で上書きする。
そのために、町へ行く。
クラリスは玄関で靴を履きながら、私の手を見上げた。手を繋ぐか迷っている目。
私は先に手を差し出す。
「一緒に行こう」
クラリスが小さく頷いて、指を乗せてくる。握りしめるほど強くはない。けれど離れない。ちょうどいい。
「お外、ひさしぶり?」
「そうね。久しぶり」
「……こわいの、ある?」
ぽつり。小さな不安。
私はしゃがんで、目の高さを合わせた。
「人が多いから、びっくりする音はあるかもしれない。でも、こわいのが来たら、どうする?」
クラリスは少し考えて、口を動かす。
「……こわいのは、ここでおしまい」
「うん。ここでおしまい。息、いっしょにしようね」
クラリスは頷いた。それだけで、表情が少し軽くなる。
ノエルが扉を開けた。外の光が差し込む。
「では参りましょう、夫人。お嬢さま」
淡々としているのに、背中が頼もしい。背中の頼もしさは、言葉より効く。
馬車で町へ向かう道すがら、景色が変わっていく。
王都の景色は整いすぎていて、どの道も“正しさ”が塗られていた。ここは違う。畑があり、土があり、遠くに煙が上がり、道端に犬が寝そべっている。
クラリスが窓から身を乗り出しそうになったので、私はそっと背中を押さえた。
「落ちないようにね」
「うん」
町の入り口が見えたころ、空気が変わる。匂いが増え、音が増える。
焼きたてのパンの匂い。干し草の匂い。果物の甘い匂い。香辛料の刺激。人の声。荷車の軋み。笑い声。
活気が、肌に触れる。
クラリスの手が少し強くなる。私は握り返しすぎないように、指を絡めるだけにした。手の中に「逃げない」を作る。
「市場、いこうか」
「……うん」
市場に入った瞬間、色が増えた。
赤い果物。黄色い布。白い粉をまぶした菓子。木箱に積まれた野菜。生き物みたいに動く人の流れ。
「いらっしゃい! 今朝のだよ!」
「奥さま、こっちの卵がいいよ!」
声が飛び交う。声は刺さることもある。でも今日は、刺さる前に匂いが抱きしめてくる。
クラリスの視線が忙しく動いた。最初は人の顔を見ない。商品を見る。商品は安全だ。商品は笑わないし責めない。
私はそれを見て、胸の奥が少しほどけた。
ノエルは一歩後ろにいる。けれど目は前にある。人の流れを読み、ぶつからない場所を選ぶ。市場そのものの地図みたいに。
「夫人、こちらです」
ノエルが案内したのは、少し奥まった通りだった。市場の喧騒から一段外れた場所。それでも物は揃っている。商会の看板が見えた。
扉の上の店名板は飾り気がない。でも堂々としている。
中へ入ると、空気がまた変わった。
紙の匂い。布の匂い。乾いた香草の匂い。棚に整列した生活の匂い。
帳場の奥から、声が飛んできた。
「いらっしゃい! ……あら、ノエルじゃないの」
出てきた女は、歩く勢いが違った。ぐいぐい来る。髪はきっちりまとめているのに、目が笑っている。愛想の笑いじゃない。生活を回してきた目だ。
「奥さま?」
女は私を見るなり距離を詰め、にやりとした。
「奥さま、噂ってのはね、空気より軽いのよ」
私は息を止めそうになって、止めなかった。息は味方。
「……商会の女主人さん、ですか」
「そうそう。リュシエンヌ。呼び捨てでもいいわよ。呼び捨てが無理なら“姐さん”で」
「姐さん……」
クラリスが小さく復唱した。知らない単語に興味が向いた顔。いい。
ノエルが淡々と紹介する。
「リュシエンヌ様。こちら、公爵夫人マリアンヌ様と、お嬢さまクラリス様です。静養のため別邸へ」
「知ってる、知ってる。静養ね。うん。静養」
その言い方に、余計なものが混ざっている。噂が届いている。
クラリスが私の陰に半歩隠れた。私は手を離さず、指を軽く撫でた。合言葉は声にしない。今はまだ大丈夫。
リュシエンヌは帳場の椅子を引き、座れと目で言った。
「奥さま。まず言っとく」
肘をつき、声を少し落とす。
「噂は軽い。軽いから早い。早いから形が変わる。昨日のパンより、今日の噂のほうが先に届くの」
「……パンより早い」
「そう。だから、勝ちたいなら“重いもの”で上書きするの。パンとか、洗剤とか、暮らしとかね」
重いもの。生活。毎日。手触り。匂い。
舞台じゃなく、台所。
王都じゃなく、市場。
「……今、どんな噂が?」
聞きたくない。でも聞かないと対策できない。娘を守るために必要だ。
リュシエンヌは肩をすくめた。
「言うよ。腹立つと思うけど、腹立てたら噂の勝ちだからね」
指を折っていく。
「“王都の夜会で、公爵夫人が癇癪を起こした”」
私は笑いそうになって、こらえた。私がしたのは、微笑んで交渉して、成立しない状況を作ったことだ。
「次。“娘を盾にした”」
クラリスの手が少し強くなる。私は指を絡め直した。盾じゃない。抱いた。守った。
「あと。“王宮に逆らった”」
それも違う。逆らえないから、丁寧に逃げた。
最後に一番嫌なやつが来る。
「“静養は口実で、逃げただけ”」
私は息を吸って吐いた。半分当たっているから刺さる。逃げたのは事実だ。母親として。
クラリスが小さく言った。
「……お母さま、にげたの?」
責めじゃない。確認だ。
私はしゃがんで、目を見た。
「うん。逃げたよ。でもね、逃げるのは悪いことじゃない時もある。危ないところから離れるのは大事」
クラリスはしばらく考えて、うん、と頷いた。
リュシエンヌが私を見て、短く頷く。
「そういうこと。奥さまが今、落ち着いてる。これが大事」
「噂ってのは、否定すると燃えるの。否定は油。説明は薪。泣くと火花」
分かりやすい。
「じゃあ、どうすれば」
私が言うと、リュシエンヌはにやりと笑った。
「上書き。重い話で塗りつぶす。奥さまが何を食べて、何を買って、娘さんが何を好きで、どんな顔して歩いてるか。それで噂は薄まる」
「生活で、噂を薄める……」
「そう。例えばね」
棚を指す。布、石けん、瓶詰め、粉、焼き菓子。
「奥さまがうちのパンを定番にする。毎週、同じ日に買う。そうすると町の人はこう言う。“公爵夫人はパンを買う人だ”って」
「……パンを買う人」
「そうよ。癇癪夫人よりずっと強い。日常のほうが強いの」
彼女はクラリスのほうへ視線を向けた。刺さらない角度で。
「それと、お嬢さま。小さな“好き”を言えるようになるといい。赤いリボンでも甘いお菓子でも。そうしたら噂はこうなる。“あの子は可愛いものが好きだ”って」
クラリスの眉が、ほんの少し動いた。
私は頷く。
「……“好き”を言う」
「そう。嫌な噂は、好きの話題で薄まるの。奥さまが守るのは正しさじゃない。娘さんの生活よ」
私は胸の奥で頷いた。確認できた気がした。
リュシエンヌは声を落とす。
「静養って言葉は便利だけど固い。固い言葉は噂に割られる。だから生活に寄せる」
ノエルが淡々と補足する。
「“領地の空気に慣らす”など、でしょうか」
「それ! 侍女さん、頭が早い!」
リュシエンヌが手を叩く。
「“逃げた”じゃなくて“子どもの体調を優先”。“王宮に逆らった”じゃなくて“母親として当然の判断”。言い換えは武器よ。刃じゃなくて、守りの言葉」
クラリスが小さく言った。
「……まもり」
小枝の家の“守り”がここでも繋がって、私は少しだけ笑った。
「さ、買い物しよ。噂を上書きするには、まず袋が重くなるくらい買うのが一番早い」
「袋が重いと噂が薄まるんですか」
「薄まるわよ。人は重いものを見ると、重い話をするの。軽い噂より“粉を三袋買った”のほうが具体的で強いの」
棚の間を歩くと、クラリスの目が少しずつ動き始めた。最初は私の足元。次は商品。布の色、瓶の光、菓子の形。
「これ、なに?」
クラリスが指さしたのは小さな焼き菓子。粉砂糖が薄くかかっている。
「焼き菓子よ」
「……おいしい?」
「たぶん、おいしい」
「たぶんじゃないわよ。うちのは確実。食べたら分かる」
リュシエンヌの自信満々が可笑しくて、クラリスが小さく笑った。
次にクラリスが目を止めたのは、深い赤のリボンだった。派手じゃない。端に小さな刺繍。
クラリスがじっと見ている。
私は急かさない。言わせようとしない。隣にしゃがんで待つ。
指が、ゆっくり伸びる。
「……これ」
指先が触れた瞬間、クラリスがほんの少しだけ顔を上げた。
「……これ、好き」
小さくて、でも確か。
私は息を止めそうになって、止めなかった。
「教えてくれて、ありがとう」
大げさに褒めない。大げさに喜ばない。生活は、静かに積む。
クラリスが照れたみたいに、うさぎの耳を握り直した。
「じゃ、それは“お嬢さま定番”ね」
リュシエンヌが言う。定番、という言い方が生活っぽい。クラリスが小さく頷いた。
その横で、ノエルが布の棚を見ていた。視線が真剣だ。
「この布は、洗っても硬くなりにくいですか」
「いいところ見るわね。これは丈夫よ。子ども用にもいい」
「では、二反」
リュシエンヌが目を丸くする。
「二反!? 奥さま、侍女さんが強いわ」
「強いのは必要です」
ノエルが淡々と返す。
クラリスが小さく復唱して笑った。
「つよいのは、ひつよう」
値札を見せられても、ノエルは動じない。
「定価からで」
リュシエンヌが笑う。
「定価からで、って。奥さま、聞いた? 定価からで、だって」
私は肩をすくめた。
「ノエルは現実的に必要な作業が得意なの」
「得意っていうか、鉄板ね」
ノエルは淡々と続けた。
「継続購入します。石けんも粉も今後こちらで。まとめ買いの分を考慮してください」
「うわぁ。理屈で来た」
「理屈は誠実です」
「言い返せない!」
リュシエンヌが両手を上げる。
クラリスがぽかんと見て、次の瞬間、小さく笑った。
「ノエル、かった」
「勝っていません。適正です」
「てきせい……」
クラリスが復唱する。新しい単語が増える。怖さの代わりに、単語が増える。それはいい。
リュシエンヌが最後に負けを認めるみたいに言った。
「……侍女さん、心が鉄鍋ね」
ノエルは瞬きひとつして返す。
「褒め言葉として受け取ります」
私は笑ってしまった。クラリスも笑った。リュシエンヌは大笑いした。
軽口が一つ入っただけで、胸のつかえが少し取れた。笑えるだけで、まだ大丈夫だと思えた。
買い物袋が増えていく。粉、石けん、布、焼き菓子、リボン。生活が重くなる。
重くなるほど、噂は軽くなる。
リュシエンヌは荷をまとめながら、ちらりと私を見た。
「町の人は見てるわよ。今日は“見てる”が味方になる。奥さまが普通に買い物して、娘さんが普通に好きって言って、それを皆が見る。これが上書き」
私は頷いた。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない。商売だもの」
商会の外へ出ると、市場の音がまた耳に入ってきた。さっきより平気だ。クラリスが手を引かなくても歩ける。
「お母さま、これ、たべる?」
焼き菓子の袋を持ち上げる。
「帰ってからね」
「いま、だめ?」
その言い方があまりに普通で、私は笑った。
「いま一個だけなら、いいよ」
「やった」
クラリスが袋を開けようとするが、手が小さくて上手くいかない。ノエルがすっと手を出して、袋の口を少しだけ開ける。黙っている。黙っているけれど優しい。
クラリスがひとつ取って、ぱくっと食べた。
「……おいしい」
その一言が、今日は何より強い。
その時、背後からリュシエンヌの声がした。
「奥さま」
振り返ると、彼女が商会の入り口に立っていた。さっきまでの笑いは少し引っ込み、目が真面目になっている。重要な話の目だ。
「最後にひとつだけ」
重要なものほど、さらっと落とす。
「白い花みたいな令嬢が、最近やたら泣いてるって」
私は息を止めそうになって、止めなかった。
白い花。王都の廊下で見た、中心の白。
泣いている。しかも、やたら。
舞台がうまく回っていない。だから誰かが焦る。焦れば圧が増える。圧は、生活にも届く。
ノエルが小さく眉を動かした。
「情報源は?」
「市場よ。市場はパンより早い」
リュシエンヌが肩をすくめる。
「泣いてるって話が増えたってことは、周りも見てるってこと。見られてるのは奥さまだけじゃないのよ」
私は頷いた。
「……ありがとうございます」
「だから礼はいらないって」
リュシエンヌは笑って手を振った。
「また来なさい。パンも噂も、毎日焼き上がるんだから」
私たちは市場を抜け、別邸へ戻る道に向かった。
クラリスは菓子を大事そうに持ち、赤いリボンの袋をちらちら見て嬉しそうに笑う。
私はその笑顔を見て決めた。
噂が追ってくるなら、生活をもっと濃くする。
娘が「好き」を言える回数を増やす。
それが、舞台に戻らない戦い方だ。
ノエルが小さな声で言った。
「夫人。噂は、いずれこちらへも届きます」
「ええ。もう届いてる」
「……対処を」
私は頷いた。
「対処する。でも、正面から殴らない」
ノエルが一瞬だけ目を細める。納得した顔。
「生活で上書き、ですね」
「そう」
クラリスが見上げて言う。
「お母さま。おやつ、またかう?」
私は笑って、少しだけ大げさに頷いた。
「検討します」
「けんとう!」
嬉しそうな復唱が跳ねる。
私は息を吸って吐いた。
吸って、吐く。
噂は軽い。軽いから早い。
でも、生活は重い。
重いから、残る。




