第8話 こわい夢は、ここで終わり
「……お母さま」
夜の別邸は、昼とは別の顔をしていた。窓の外で風が木を揺らし、遠くで虫が鳴いている。廊下の灯りは小さく絞られて、影が大きく伸びすぎないように整えられていた。
なのに。
ギシッ。
床が鳴っただけで、私は目を開けた。
もう一度。
「……お母さま」
クラリスの声だ。眠り言ではない。起きて、震えている声。
私は毛布を跳ねのけて廊下へ出た。足を運ぶたび、床が小さく返事をする。
ギシッ。ギシッ。
昨日は「家が生きてる音」だと笑えたのに、夜は違う。音が大きく聞こえるぶん、怖さも大きくなる。
扉を開けると、寝室は暗いまま保たれていた。灯りは眩しくない。ちょうどいい。誰かが調整してくれている。ノエルだ。
ベッドの上に、クラリスが座っていた。
うさぎのぬいぐるみを抱え、指先が白い。力が入りすぎている。
「お母さま……」
泣いてはいない。けれど、泣くより先の顔だ。涙が出る前に、息が固くなる顔。
「起きたよ」
私は近づき、まず抱きしめた。言葉より先に、腕で囲う。
背中をさする。胸を押さえないように、でも逃げないように。
クラリスの体が小さく震えている。
「……怖かった」
それだけ言って、あとは喉の奥で言葉が詰まった。
「うん」
私は頷いた。
「怖かったね」
いきなり「夢だよ」と片づけない。夢は、心に刺さる。刺さったままの夜に、「夢でした」と言っても抜けない。
クラリスの肩が、少しだけ落ちた。息が一度だけ吐けた。
「……みられてた」
「誰に?」
質問は短くする。長い質問は、子どもの胸をさらに詰まらせる。
「……おとなたち」
クラリスが顔を上げた。暗い中でも目が潤んでいるのが分かる。
「いっぱいいて……まるくなって……」
輪。囲い。逃げ道がない形。
「わらってた」
声が小さくなる。
「笑ってたの?」
私は確認だけする。怒りを混ぜない。怒りは、娘の怖さを増やす。
クラリスはこくんと頷いた。
「でも……めが……」
そこで言葉が切れた。笑っているのに、目が冷たい。にこにこしているのに、逃げ道を塞ぐ顔。
私は娘の頭を胸に押し当て、髪を撫でる。
「言えないところは、言わなくていいよ」
クラリスが小さく息を吸う。吸い込みが浅い。喉がきゅっと鳴る。
「……おこられた」
「何て?」
できるだけ優しく聞く。
クラリスは唇を動かす。けれど言葉にならない。喉の奥で固まってしまう。
その固まりが、夢の中の“役”だ。言わなければいけない台詞。言えない台詞。言ったら刺さる台詞。
クラリスの肩がまた震える。
「……いや」
やっと出たのは、それだけ。
私はその小さな「いや」を、落とさないように受け取った。
「うん。いやだったね」
クラリスの額が私の胸に押し付けられる。息が詰まっている。息が詰まると、人は自分を責める。子どもはもっと。
クラリスが、ほんの少しだけ顔を上げた。
「……わたし、わるい?」
胸が痛い。けれど顔に出さない。
「悪くない」
私は即答した。迷わず、間を作らず。
「あなたは、悪くない」
クラリスの目が揺れる。信じたいのに、まだ信じきれない目。
「でも……」
「でも、じゃない」
私はやわらかく遮った。強く言わない。でも、線は引く。
「ここでは、誰の役もしなくていい」
言葉を夜の空気に落とす。落ちた言葉が、家の木に染みるように。
「上手に言わなくていい」
「正しく見せなくていい」
「誰かが喜ぶ台詞を言わなくていい」
クラリスの指が、私の服を掴む力が少し弱くなった。
「ここではね」
私は耳元に、もっと小さな声で言う。
「こわかったら、こわいって言っていい」
クラリスが小さく頷く。
私はそこで、ひとつ道具を出した。物じゃない。言葉の道具。
「クラリス。こわいのが来たら、合言葉を作ろう」
「……あいことば?」
「うん。短い言葉。言えたら、止まる言葉」
クラリスはうさぎの耳を握り直す。まだ怖い。でも、こちらを見ている。聞く準備ができている。
「こわいのが来たら、こう言うの」
私はゆっくり、はっきり言った。
「『こわいのは、ここでおしまい』」
クラリスが口を開ける。声が出るか確かめるみたいに。
「……こわいのは……ここで……おしまい」
小さな声。けれど言えた。
私はすぐ返す。
「うん。ここでおしまい。息、いっしょにしよう」
娘の背中に手を当てた。手のひらで呼吸の動きを感じる。見えないものを、触れるものにする。
「息をね、いち、に、さん」
ゆっくり数える。
「いち」
吸う。
「に」
吐く。
「さん」
もう一度、吐く。
クラリスの背中が少しずつ柔らかくなる。肩が下がる。息が深くなると、怖さは“扱える大きさ”になる。
「……できた」
クラリスが小さく言った。
「できたね」
私は頷いた。
「こわい夢は、ここで終わり」
クラリスのまぶたが重くなる。怖さで疲れたのだ。
「お母さま……」
「うん」
「ここ……すき」
その言葉が胸に落ちて、熱くなる。痛くない熱。守れた熱。
「私も、ここが好き」
私はそう言って、もう一度抱きしめた。
寝息が少しずつ整っていく。浅い眠りから、沈む眠りへ。私はしばらくその呼吸を聞いていた。
ギシッ。
床が鳴る。
でも今は、怖くない音だ。家が「起きてるよ」と言っている音。
私はそっとベッドから離れ、娘の頬を撫でた。そのとき、扉の外に気配があった。
ノエルだ。
廊下の灯りが、ほんの少しだけ動く。影が大きくならない角度に整えられる。眩しくならない強さで止まる。
ノエルは何も言わない。ただ、枕元に毛布を一枚、足した。
眠りは、温度で守れる。
私が扉を閉めようとすると、ノエルが囁くように言った。
「夜は、音が大きく聞こえますから」
「……ありがとう」
ノエルはそれ以上言わず、静かに去っていった。床がギシッと鳴る。ノエルの足音は、生活を守る音だ。
私は自室へ戻り、窓を少し開けて夜の空気を吸った。暗いのに、広い。王都の夜はいつも屋根と壁に挟まれていた。ここは、暗さごと広い。
吸って、吐く。
こわいのは、ここでおしまい。
合言葉を心の中でもう一度確かめて、私は眠りに戻った。
翌朝。
朝の光は、舞台の照明みたいに刺さってこない。窓から入る光は床に落ちて、木目をなぞるだけだ。
ギシッ。
クラリスがベッドから降りる音がした。私は目を開ける。娘が自分から起きた。寝室の扉をそっと開け、廊下に顔を出す。
「お母さま。おはよう」
自分から言えた。ちゃんと。
「おはよう、クラリス」
私は笑って返した。
クラリスは少し迷ってから、うさぎを抱きしめて言う。
「……こわいのは?」
合言葉の確認だ。
「ここでおしまい」
クラリスがほっと息を吐き、小さく笑った。
「……うん」
朝食の前、クラリスは庭に出た。風は少し冷たい。でも気持ちいい冷たさだ。土が柔らかい。草が露を持っている。
クラリスはしゃがみ、小枝を拾った。
「ねえ、お母さま」
「なあに?」
「ここに……おうち、つくる」
「おうち?」
クラリスは真剣な顔で小枝を並べ始める。一本、二本、三本。小さな三角形を作り、屋根みたいにする。落ち葉を集めて中に敷く。ふとんみたいに。小石を拾って入口に置く。
「これ、まもり」
守り。娘が自分で言った。
「守りの家?」
クラリスは頷いた。
「こわい夢がきたら……ここに、いれる」
私は隣にしゃがむ。小枝の家は小さい。うさぎは入らない。でも、入らなくていい。これは“気持ち”の家だ。
「いいね」
「ここに入れたら、どうする?」
クラリスは眉を寄せて考える。
「……とじる」
「とじるんだ」
「うん。こわいの、でられない」
私はその発想を優しく育てる。
「じゃあ、もっと強くする?」
「つよくする」
クラリスは小枝をもう一本乗せた。屋根が少し厚くなる。
でも、ぽつり。
「……またくる」
夢はまた来るかもしれない。来るかもしれないことが怖い。
私はクラリスの頭を撫でた。
「来たら、また入れよう」
「……うん」
「入れたらね、燃やしていい」
クラリスが目を丸くする。
「もえる?」
私は思わず笑った。
「燃えないわよ」
クラリスが肩をすくめて笑う。
「えへへ」
軽口が一つ入っただけで、胸のつかえが少し取れた。笑えるだけで、まだ大丈夫だと思えた。
「夢そのものは燃えない。でも、嫌な気持ちは外に出せる」
私は空を指した。
「紙に描いて、燃やして、煙にして。外へ出すの」
クラリスは少し考えて、うん、と頷いた。
「じゃあ、こわいの、えんとつからでる」
「そう。えんとつから出す」
えんとつがあるかどうかは分からない。けれど今は、子どもの世界に合わせればいい。
クラリスは小枝の家を完成させ、満足げに見上げた。
「できた」
「できたね」
私は笑って言った。
クラリスはうさぎを抱きしめ、別邸へ小走りに戻っていく。床の音が聞こえる。ギシッ、ギシッ。生活の音が続く。
朝食のあと、クラリスは少し昼寝をした。夜の疲れが残っている。寝室の扉が閉まり、別邸は静かになる。
私は居間で、王都の封蝋のことを思い出した。赤い印。香油の匂い。紙の匂い。まだ開けていない。開けるのは娘がいないとき。誓いを守る。
ノエルが居間に入ってきた。
手には、もう一通。昨日より薄いが、封蝋の型は同じ。王都の赤。
ノエルの目が少しだけ冷える。無表情が、ほんの少し硬い。
「夫人。王都からです」
「……噂?」
ノエルが頷く。
「噂が混ざっています」
噂。舞台が追ってくる。照明が遠くで点滅している。
私は封を受け取り、指先で重さを確かめた。紙一枚の重さなのに、胸が少し冷える。
だから、息をする。
吸って、吐く。
こわいのは、ここでおしまい。
合言葉は、娘のためだけじゃない。私のためでもある。
私は封を机の端に置いた。
「あとで読むわ。クラリスの前では開けない」
「承知しました」
ノエルは短く答えた。
そのとき、廊下の向こうから小さな足音が聞こえた。
ギシッ。
ギシッ。
クラリスが眠そうな顔で顔を出す。うさぎを抱え、目をこすりながらこちらを見る。
「……お母さま」
私は笑って手を伸ばした。
「起きたの?」
クラリスは頷き、それから机の上の封に目がいく。赤い封蝋。王都の色。
目が一瞬だけ曇る。
私はすぐにしゃがんで、娘の目の高さになる。
「クラリス」
娘がこちらを見る。
「……こわいのは?」
自分から合言葉の扉を叩いてくる。
私はすぐ答えた。
「ここでおしまい」
クラリスがほっと息を吐く。
「……うん」
私は娘の頬を撫でた。
「ここは生活の場所。あなたの役は、眠って、食べて、笑うこと」
クラリスが小さく笑う。
「……おやつも?」
出た。生活の強さ。
私は思わず笑って頷いた。
「検討します」
「けんとう……」
嬉しそうに繰り返す声が居間に広がる。広がった声が、木目に染みる。
噂が追ってこようと、照明が追ってこようと。
床が鳴るこの家では、まず生活が先だ。
ギシッ、と家が言う。
「大丈夫」と。
私は息を吸って吐いた。
吸って、吐く。
こわいのは、ここでおしまい。
けれど舞台は、まだ完全には終わっていない。
そのことを、机の端で沈黙する赤い封が静かに告げていた。




