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悪役令嬢の母になりました。断罪より先に子どもを連れて舞台から降ります。【連載版】  作者: 星渡リン
第4章:脚本力の核心と卒業

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第60話 遠足の終わり、物語の外で

 床が鳴った。


 ぎし、と。

 領地の別邸の床は、昔からこうだ。

 木が乾いて、季節が変わって、家が呼吸すると鳴る。


 王都の白い広間の反響とは違う。

 あれは言葉を増やす音。

 これは生活が生きている音だ。


 クラリスが振り返って笑った。


「ただいま!」


 声が軽い。

 軽いのに、胸に沈む。

 沈むのは重さじゃない。

 帰ってきた、という確かさだ。


「おかえり」


 私は短く返した。

 長い言葉は要らない。

 今日は、長い言葉の多すぎる場所から戻ってきたのだから。


 馬車を降りた瞬間から、空が広かった。

 王都は空があるのに、空気が薄い。

 ここは空が広くて、空気が厚い。

 息が入る。


 土の匂い。

 干し草の匂い。

 薪の匂い。

 遠くで鳴く鳥の声。

 それらが混じって、身体が「ここだ」と思い出す。


 アデルが荷を下ろしながら、肩を回した。

 公爵の動きではない。

 父の、疲れた動きだ。


 ノエルは玄関に入った瞬間、戦場みたいな目になった。


「まず換気します。埃は味方しません」


 淡々と窓を開ける。

 風が入る。

 風が入ると、白いものが薄れる。

 王都の白さではなく、埃の白さが舞う。


 ハーゼ先生はここにはいない。

 王都で別れた。

 でも、医師の言葉だけが胸に残っている。


 今日は寝る日です。


 それが、私たちの勝利の形だった。


 ミロも王都に残った。

 記録の目は、もう十分に刺した。

 ここから先は、生活の目でいい。


 リュシエンヌとエミルからは、短い手紙が届くはずだ。

 届いたら読む。

 読んで、笑う。

 それで十分だ。


 クラリスは廊下を小走りに進み、また床を鳴らした。


 ぎし。ぎし。


「この音、すき」


「うん。生きてる音だもの」


 私が言うと、クラリスは少しだけ得意そうに頷いた。

 得意そうな顔は、役じゃない。

 ただの子どもの顔だ。



 荷が片づき始めると、クラリスは庭へ走った。


「お母さま、見て!」


 見て、と言えること。

 それは「見られる」とは違う。

 自分から差し出す視線は、怖くない。


 庭の端に、小枝の家が残っていた。


 あの日、悪夢の後に作った小さな家。

 小枝を組んで、石を置いて、風よけにしただけのもの。

 風で少し崩れている。

 でも、消えていない。


 クラリスはしゃがみ込んで、無言で小枝を一本拾った。

 拾って、屋根の隙間に差し込む。

 指先が器用に動く。


 私は手を出さない。

 王都の広間で、手を伸ばさずに見守った。

 それが、ここでも続く。


 見守ることは冷たいことじゃない。

 見守るのは、相手が自分の足で立つ場所を信じることだ。


 クラリスが小さく言った。


「ここ、風が入る」


「じゃあ、塞いでみる?」


 私が聞くと、クラリスは頷いた。

 頷いて、もう一本小枝を足す。


 塞ぐ。

 守る。

 でも閉じ込めない。

 風の入り口は残す。

 息ができるように。


 クラリスが屋根を少し直して、手を叩いた。


「できた」


 その「できた」は、誰かに褒められるための「できた」ではない。

 自分の居場所を、自分の手で整えた「できた」だ。


 私は胸の奥が温かくなった。

 温かいのに、言葉は短くする。


「上手」


 それだけで、クラリスは笑った。

 役の笑いではなく、息が漏れる笑いだ。



 夕方、居間の灯りが柔らかくなった頃。


 テーブルの上には、温かい飲み物のカップと、水の入ったコップが並んだ。

 ノエルが「これが正しい配置です」と言わんばかりの顔で置いた。

 言わないけれど。


 私はクラリスの向かいに座る。

 アデルは少し斜め。

 ノエルは立ったまま、背中で家全体を見張っている。

 座って見張る人より、立って見張る人の方が安心する時がある。


 私は、約束を置く。


 更新という言葉を使わない。

 言葉にすると舞台になる。

 舞台にすると、生活が固くなる。


 だから、普段の話みたいに言う。


「今日から、もう一回だけ言っておくね」


 クラリスが真剣な顔で頷いた。

 真剣も、役じゃない。

 自分の生活の真剣だ。


「嫌なら、嫌と言っていい」


 クラリスが小さく復唱した。


「いやなら、いや」


 言える。

 言っても大丈夫な場所がある。


「迷ったら、相談する」


「まよったら、そうだん」


 言葉を繰り返すと、身体に入る。

 身体に入ると、怖い時に出てくる。


「役より、暮らしを大事にする」


 ここだけは少し難しい。

 でもクラリスは眉を寄せて考えて、言った。


「……おうちのこと、だいじ」


「うん。それでいい」


 言い換えができる。

 それは、脚本に飲まれないための一番の力だ。


 アデルが何か言いかけて、口を閉じた。

 言葉を足す癖が、少し抜けてきている。

 父としての成長は、余計な言葉を飲み込めることでもある。


 ノエルが淡々と補足する。


「守ります」


 それだけ。

 それだけでいい。

 長い誓いは、また舞台になる。


 クラリスが私を見て、少しだけ笑った。


「お母さま、いま、かおがやさしい」


「……そう?」


「うん。おうちだから」


 その一言で、胸の奥の固いものがさらにほどけた。



 次の日の午前。


 近所の子どもが、庭の柵の外から顔を出した。

 教室に来ていた子の一人だ。

 領地の子どもは距離が近い。


「クラリスー!」


 呼ばれて、クラリスがぱっと顔を上げる。

 呼ばれることが怖くない。

 王都では、呼ばれると役を背負わされた。

 ここでは、呼ばれると遊びが始まる。


「行っていい?」


 クラリスが私を見る。

 確認の視線。

 命令ではなく、相談の視線だ。


「うん。行っておいで。嫌になったら戻っておいで」


 戻る道を先に置く。

 それが生活の優しさだ。


 クラリスが頷いて庭へ走る。

 走って、笑って、息が乱れて、また笑う。


 その時、子どもがノエルを見上げて言った。


「ノエルさん、なんでいつもこわいかお?」


 直球だ。

 直球は舞台の台詞じゃない。

 生活の台詞だ。


 ノエルが固まった。

 固まって、返そうとして、負けた。

 丁寧語で敗北した顔。


「……恐ろしい顔はしておりません」


 言い切ろうとして、最後の音が揺れた。


 クラリスが笑って言う。


「ノエル、いま、へんなかお」


「へんな顔ではありません」


 ノエルが否定しようとして、口元が緩んだ。


 笑ってしまった。


 笑いを隠すように咳払いをするのに、咳払いが間に合わない。

 笑いが先に漏れる。


 子どもが目を丸くした。


「わらった!」


 クラリスも笑う。


「わらった!」


 ノエルは観念したように、ほんの少しだけ笑った。

 守り手の笑い。

 役ではない笑い。


 それを見て、私の胸がじんとした。

 守れなかった、と言った人が、今、笑える。

 それは小さな奇跡だ。


 でも奇跡みたいに言わない。

 生活の中に置く。


 ノエルはやっと言った。


「……笑いました」


 言い方が真面目で、また子どもが笑った。



 夕方、片付けが落ち着いた頃。


 アデルが庭先で空を見上げていた。

 公爵としてではなく父として、考える時の顔だ。


 私はその横に立つ。

 クラリスは小枝の家の近くで、また一本、小枝を足している。

 手の動きが落ち着いている。

 落ち着きは、安心の形だ。


 アデルが、ぽつりと言った。


「……次は」


 言い出して、少し間が空いた。

 間は、余計な言葉を飲み込む時間だ。


「家族の遠足をしよう」


 遠足。

 撤退の言葉だったそれが、未来の言葉になる。

 逃げるための遠足ではなく、遊ぶための遠足だ。


 クラリスが振り返って目を輝かせた。


「えんそく?」


「そうだ」


 アデルは照れたように目を逸らし、でも頷いた。


 ノエルが即座に口を挟む。

 現実の人の口だ。


「遠足は予定表に入れてください」


 アデルが固まる。


「……努力する」


 そのやり取りが、生活の笑いを生んだ。

 拍手はいらない。

 ただ、口元が緩むだけでいい。


 クラリスが小さく笑った。

 その笑いは、役じゃない。



 夜。


 庭に出ると、星が近かった。

 王都の星は、見えるのに遠い。

 ここは暗いから、星が多い。

 多い星は押しつけない。

 ただ、そこにある。


 小枝の家のそばで、クラリスが立ち止まった。

 昼に直した屋根が、月の光を少しだけ受けている。


 クラリスは両手を胸の前で握って、少しだけためらう顔をした。

 ためらいは怖さではない。

 言葉を探すためのためらいだ。


 やがて、小さく言った。


「わたし、わたしでいいんだね」


 胸が、きゅっとなる。

 でも私は長い言葉を言わない。

 長い言葉は、舞台の終わりに似るから。


 私はクラリスの目を見て、短く返した。


「うん」


 それだけで、クラリスの肩が落ちた。

 落ちた肩は、息の跡だ。


 私は手を伸ばした。

 ぎゅっと一回の合図ではない。

 普通の握り。

 生活の握りだ。


 クラリスの手が、私の手を握り返す。

 握り返す力が、ちゃんとある。

 自分の言葉で立った子の握り方だ。


 遠くで床が鳴った気がした。

 ぎし、と。

 家が呼吸する音。


 舞台の外で、生活が続く。


 眠れて、笑えて、明日も起きて、また床が鳴る。

 それが、私たちの卒業の形だった。

最終話までお読みいただき、本当にありがとうございました。


この物語は、派手に勝つ話ではなく、「守るために、舞台から降りる」話として始まりました。断罪の照明、拍手の空気、正しさの型。そういうものに飲まれそうになりながらも、母と娘が選んだのは、論破ではなく“成立しない状況を作る”ことでした。


書いていて何度も思ったのは、強い言葉より、短い日常の方がよほど強いということです。水を飲む、扉を閉めない、息を整える、帰って眠る。そんな当たり前の行動が、いちばんの勝利になっていく。最後にクラリスが「わたし、わたしでいいんだね」と言えたのは、特別な才能ではなく、ただ生活が続いたからだと思います。


そして、舞台の内側にいた人たちもまた、それぞれの役に縛られていました。セレスの「保護」の更新も、フィオナの「ありがとう」も、王太子の“拍手がない怖さ”も。敵を倒すより、仕組みをほどくほうが難しい。だからこそ、生活の笑い声が少しずつ型を崩していく終わり方にしました。


ここまで見届けてくださった皆さまのブックマーク、評価、感想が、更新の背中を何度も押してくれました。読んでくださる方がいるから、物語の外でも生活が続くように書けました。本当にありがとうございます。


もしこの物語の中で、あなた自身の「役」や「正しさ」に息苦しくなった瞬間が、少しでも軽くなるような一文が残っていたら嬉しいです。あなたも、あなたでいい。そんな小さな合図を、この後書きの最後に置いておきます。


また別の物語で、お会いできますように。

ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
短編は楽しかったので、長編も読んだ。 時系列がめちゃくちゃすぎる。 夜会の日、今日中に領地に行くと言って、夫に置き手紙を書いたと思ったら、直接2人で話してるし。 また、夜会の次の日に使者が来たのか?と…
完走お疲れ様でした。 そしてなんとか読み終わった私へご苦労さんと。 最後まで読んで1話目を読み返し、感想のお返事読んでようやく娘クラリスの年齢を知ったわけで。 知って余計に分からない相関図。 恋愛断…
子供を悪役にする流れに今回は勝利したけれど、完全に逃げ切ったわけではなく仕切り直し延期エンドというのが、少々モヤっとするというか怖い感じがしました。 そもそも「悪役令嬢が断罪される」舞台の本番は、悪役…
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